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マウスからパッと手を離し、咄嗟に振り向いた。

不気味に口元を歪めた菊池さんがいて――目が合うと、あたしに向かって冷笑した。

人がいないか何度も振り向いて確認したし、足音もしなかったのに!
よりによって、どうしてコイツが!?


「葉山さん、何やってんの?」

「何って――菊池さんこそ、何で……?
帰ったんじゃ……?」

「トイレにいて、戻ってきた」


トイレに!?


「もしかして……待ってたんですか……?」

「何言ってんのー?
誰もいなくなってから人のパソコン触るなんて悪趣味だなぁ。
いいのかなぁ、そんなことして」

「そんなことって……!
あたしのこと書きこんだのは菊池さんでしょ!」

「葉山さんのこと?」

「しらばっくれないでよ!
こんなことしていいと思ってんのっ!?」


あたしの怒声に菊池さんは、わざとらしくのんびりと首を竦めて見せる。


「キミは、気が強いね。
まぁ、そこがいいんだよね。
それを服従させるのが楽しみっていうか」

「変態っ!」

「そんなこと言うと、困るのは自分だよ?」

「困るって、何がよ!」

「掲示板、消して欲しいんだろ?」


菊池さんは、薄気味悪く目を細めて笑う。
あたしも抗戦して、鼻の先で笑った。


「おあいにくさま。
一足遅かったんじゃない? もう消したから」

「消した?」


菊池さんはニッタリと笑って、あたしの背後を――彼のパソコンを、指差した。


「残念でしたぁ。
そういう重要な作業には、普通もう一度パスワードを入れるんだよ。
じゃなきゃ、葉山さんみたいな人がいたら困るし?」


――嘘でしょ!?


あたしは恐る恐る振り向いて、ディスプレイを確認した。

そこには彼の言うとおり、パスワードの入力画面があって。
さあっと、血の気が引く。


「消して欲しいの?」


傲慢でいて冗談めいた明るいトーンで菊池さんが言い、あたしは後ろを向いていた顔を前へと戻した。


「当然でしょ、消してよ!
て、言うか、何でこんなことするわけっ?」


思い切り睨み上げながら言うと、「何で?」と、首を傾げた菊池さんに訊き返される。


「分かんないの?」

「分かるわけないでしょっ!」

「葉山さんのことが知りたいし、近づきたいから」

「はあっ!?」

「ウチの部に、こーんなカワイイ子が入ってきて、気になって調べてみたら、社内で付き合ってたっていう人も二人しか見つからなかったな。
外見に寄らず、身持ちが固いのかなーとか思ってたら、全然違ったねぇ、それも手だったんだぁ?
俺にもいつもニコニコして猫撫で声出して。そうやって、その気にさせて弄ぶのが楽しいんだろ?
それでいて、コロコロと自分に都合良い男に乗り換えていくんだもんなぁ。騙されちゃったよ。
でもさー、俺、まだヤラせてもらってないんだよねぇ」


……な、何なの、コイツ!
気持ち悪いっ!

騙されちゃったも何も、騙すほど接点はないんだけど!
勘違いと思い込みが酷過ぎない!?
てか、まだヤラせてもらってないって、何!?


「二人っきりになる機会も、待ってたのになかなかなくてさー。
大概、主任が一番遅くまで残ってるからさぁ。今日はいなくてラッキーだった。
それに、石田さん、思惑通り見事に俺のことをキミに伝えてくれたんだねぇ」

「……まさか、仕掛けたの? あたしが一人会社に残るように?
わざわざ石田さんにあたしのことを訊いたのは、自分が管理人だって言ってもらいたかったから?」

「そーだよ」

「最低……っ!
大体、あたしのこと、ずらずらと書きこんだのはどうしてっ!?」

「だってさぁ、悔しいじゃん? 俺だけヤラせてもらってないし。
散々、色んな男とヤッてきたんだろ?
韮崎主任とも、会社の前で喧嘩してた男とも、M&Sの社長とも。
それに、商品開発部の笹本と、システム部の沢木とも」

「――っ!」


笹本と沢木って……うちの会社で前にちょっとだけ付き合ったことのある二人じゃん!
調べたって、言ってたのはそれ!?
それに、何なの、俺だけって! 意味、分かんないし!


「笹本さんと沢木さんとは、確かに以前付き合ったことはあるけど、その他のひとは関係ないから!
勝手に憶測して決めつけるのはやめてよ!」

「憶測?
ヤッてんでしょ?」


韮崎さんと相川さんは確かにそうだけど!
拓馬とはそんな関係じゃないのに!
もー! しつこいっ!


「菊池さんが言うような関係はないですからっ!
とにかく、この掲示板、どうにかしてください!
あることないことが書かれていて、困りますっ!」

「あることないこと?
消さないと困ることがあるんじゃないの?
キミの悪癖を、佐藤社長に知られたくないんだろ?
せっかくここまで良い相手を捕まえたんだからな。そりゃあ困るよな?」

「佐藤社長はただの同級生よっ!
いいから消して! パスワード教えなさいよ!」

「じゃあ、何そんなにムキになってるの?」


ふん、と、ヤツが鼻を鳴らした次の瞬間に、腕が伸びてきた。
そう気付いた次には、両腕を片手ずつがっちりと掴まれていた。

額に、荒い息がかかる。


「一回ヤラしてくれれば消してあげるよ」


コイツ、何を言い出すの!


「ふざけないでっ!
こんなこと脅して強要するなんて、犯罪だからねっ!」

「キミの今やってることも、立派な犯罪だろ?」


腕に思い切り力を入れて抵抗するけれど、それ以上に強い力が圧しかかって、近かった顔が更に近づいた。
腰にヤツのデスクがぎゅうぎゅうに当たって痛い。それに、これがあるせいで後ろには逃げられない。
顔を横に逸らして、どうにかこうにか逃れる。


「やめて……っ!」

「やめるの?
じゃあ、掲示板このまま消さなくていいの?」

「――っ!」

「どうする?
困るのは、キミだろ?」


困るけど、でも――!

と、一瞬怯んだ隙に、腕が頭の上まで捩じ上げられた。
「痛!」と声が漏れ、思わず目を瞑る。


「うわー……スゲエそそるなぁ、この格好。
カワイイよぉ、葉山ちゃん」


この! 変態っ!
コイツとなんて、死んでも無理!
マジで、どうしたらいいの……!?


ふう、と、また息がかかったかと思うと、首元に唇が押し付けられた。
生温かい感触に、虫ずが走った。


「や――!」

声を上げようとしたとき、廊下に電子音が響いた。
エレベーターの到着音。
誰かが、来た。

押し付けられていた唇も顔も離れたかと思うと、


「何やってるんだ!」


突然の声と姿に驚いた。
菊池さんの向こう側に見える――ドアのところに立っているのは、韮崎さんだったから。

眉も目も吊り上げた韮崎さんがこちらに向かって来る。
けれど、あたしは茫然と動けずにいた。

菊池さんは、ちっ、と舌打ちのあと、「言う通りにすれば、消してやる」と、早口の小さな声であたしに耳打ちした。


「おいっ! またお前かっ!」


韮崎さんが、菊池さんの胸元を捻じり上げた。


「やめて――下さいよっ、主任……っ。
またもなにも、これは同意のもとでなんですからっ」


ねぇ、と、菊池さんの目線が、あたしのほうに合図してくる。


何てヤツ――!


けれど、あたしが違うと答える前に、菊池さんの身体が目の前で鈍い音と共に飛んだ。
驚いて、声も上げる暇もなかった。

床で菊池さんが頬を押さえながら呻く。


嘘でしょ!?
まさか、殴るなんて――!


あたしはそこに立つ韮崎さんを、ぽかんと口を開けたまま見上げた。
彼は、凄い形相で菊池さんを見下ろす。


「ふざけんな。
お前、葉山に何やってた?」

「お、俺は、ただ葉山さんに迫られて……」

「ふざけんなよっ!」


韮崎さんは怒鳴りながら今度は菊池さんの元に屈み、彼の胸ぐらをまた捻じり上げる。


「こんなことして、ただで済むと思ってるのか?」


怒りを含んだ低い声が言った。

呼吸をするのがやっとの菊池さんは、苦しそうに首を上げ金魚のように口をぱくぱくした。
それでも韮崎さんは容赦なく力を加える。


「葉山が、どれだけ怖い思いをしてるか、お前は分かってるのか?
お前みたいな男が――」


そこで一度言葉を途切れさせ、目を瞑った韮崎さんは、ふう、と冷静さを取り戻すように息を吐き出した。
再度目を開けた彼は、あたしの後ろに気が付いたように視線を走らせた。
あたしのすぐ後ろで不自然についている、菊池さんのパソコンを。


「お前が犯人だったのか。
だから、こんなことを葉山に……」


犯人って――韮崎さんは、この掲示板のことを知ってたの?


韮崎さんは今度は大きく息を吐き出すと、菊池さんの方に向き直り、顔の間近で静かに言った。


「掲示板を削除したら消えろ。
二度と目の前に現れないと約束すれば許してやる。
これ以上何かしようとしたら、東京湾に沈むぞ。
俺の家がどんな血筋か、知らないならテメエで調べろ。
そういうのを調べるの、お前、得意だろう?」


韮崎さんの手元がぎりぎりと小さく音を立て、「ひっ」と、菊池さんは声を漏らした。
そして手がパッと広がったかと思うと、ようやく解放された菊池さんが咳きこんだ。

菊池さんは、ふらふらと立ち上がると、何の反論もせずに自分のデスクに向かい、あたしは慌ててそこから離れた。

本人によって、空だったパスワードの入力の枠内にアスタリスクが埋まっていく。
そして『掲示板を削除しました』の文字だけの、シンプルなページがディスプレイに表示された。


消えた……。


ホッとする間にも、韮崎さんは菊池さんを手荒く押し退け、パソコンを確認しだした。
その間に、菊池さんはふらつきながらも走って逃げ出した。


「あっ! 待ちなさいよ!」

「ほっとけ」

「え」


呼び止めようとしたところを冷たく韮崎さんに制止され、振り向いた。
けれど、韮崎さんはこちらを向かないまま、まだカタカタとキーボードとマウスをいじっている。


「大丈夫。ちゃんと消えてるから」


そう言って、韮崎さんもディスプレイからあたしの方へ振り向いた。


「瑞穂は大丈夫か?」

「……だいじょう……」


ぶ、と答えると同時に身体の力が抜け、床にへたりこんだ。
だって、ようやく韮崎さんの優しい顔が見られたから。急に安堵が広がって。

また血相を変えた韮崎さんは、慌ててあたしの元に跪いた。


「おい!」

「平気、です……。
ただ、安心したら、急に力が抜けちゃって……」


韮崎さんは、じっとあたしの顔を見たかと思うと、頭を垂らし大きく息を吐いた。
そしてそのまま引き寄せられ、あたしの肩に彼の頭が載せられた。


「菊池はもう手を出してはこないだろう。
さっきの……俺の家系のこと、あれは本当だから。
会社も二度と来ないさ」


こっくりと頷くと、韮崎さんは顔を上げ、少し驚いた表情をした。


「俺が怖くないのか?」

「怖いわけないじゃないですか」


今度はあたしが韮崎さんの胸に寄りかかった。
額に、韮崎さんの体温を感じる。
布越しだけど、温かい。

彼の香りがする。
エゴイストプラチナム。

背中に腕を回す。
彼の手も、あたしの背中に回された。

――と。
唇が、首筋に落ちてきた。
さっき、菊池さんに押し付けられたところと同じ場所に。

何度も何度も、そこに丁寧に柔らかく落とされる。
触れてくる唇の感触が心地良くて、けれど官能的で。
身体の奥の方がきゅっとして、あたしは目を瞑った。


「消毒」


キスが止むと、耳元でそう彼が言った。

何てことを言うんだ、このひとは。もう。


あたしは、目を開けて唇を尖らせた。


「見てたんですか……?」

「エレベーターのドアが開いたとき、遠目から見えたんだよ。
大体、こういうの……瑞穂を男から助けるのって、何度目だよ……」

「ご、めんなさい……」

「普通はないよな、こんなに」

「……はい」

「瑞穂の周りの男は、狂わされる」


あたしの肩から重みが消えた。
顔を上げた韮崎さんは、あたしをまっすぐに見つめる。


「俺も、そのうちの一人か」


えっ?
それって――……。


その言葉の意味を尋ねる前に、韮崎さんはあたしに言った。


「何となく、嫌な予感がしたんだ。
瑞穂もこの掲示板のこと、知ってたのか?」

「あたしは、今日そんな噂があるってことを聞いて――そうしたら、石田さんが、菊池さんのことを教えてくれて。多分、アイツが管理人だって。
韮崎さんは、どうしてココに? 出張はどうしたんですか?
それに韮崎さんも、掲示板のこと、知ってたんですか?」

「相川から、さっき電話があったんだ」

「……え?」

「相川のところに、差出人不明のフリーメールがきたそうだ。
そこにこの掲示板のアドレスが貼り付けてあったらしい。
それで、瑞穂のことも心配だったし、会社に何か手掛かりがあるかと思って急いで戻って来た」


差出人不明の……?
一体誰が……?
それに、


「どうして相川さんのところにそんなメールが……?」

「さあな」

「相川さんは、何て……?」

「ここに書いてあることは本当なのか、瑞穂とはどうなってるんだ、って――問い詰められた」


それはそうだろう。親友ならば、こんなものを目にしたら不審に思うのが当然のこと。
あたし達が付き合ってるのなんて相川さんは知らないんだし。
あたしは拓馬と付き合っていると思ってるし、韮崎さんの婚約者とは知り合いみたいだし……。

だけど……。


「韮崎さんは、相川さんにどう答えたんですか……?」


あたしの質問に、韮崎さんは答えることをためらうように目を伏せた。
そして、静かに言った。


「答えられなかった」


何も、と。


答えられなかった、って――。

そんなの噂だとか、誤魔化すことも、嘘も、いくらでもつけたはずなのに。


「相川さんは、何て……?」

「怒って電話切られたよ」


韮崎さんは、苦笑する。


「ごめんなさい、あたしが……。
韮崎さんの、大切な親友なのに」


あたしが原因で二人が仲違いしたままになったらどうしよう……。


韮崎さんは、首を横に振った。


「自業自得だ。
相川にとって瑞穂は特別な存在だって分かっても、止められなかった」

「だって、あたしが――」


言いかけたところを、韮崎さんの言葉が重なった。

「別れようか」

そう、聞こえた気がして。
あたしは「え?」と、訊き返す。


「もう、二人で会うのはやめたほうがいい」


今度は、ハッキリと聞こえた。
けれど、言われた内容が半信半疑のままで。
言葉を失い、訊き返すように彼を見つめる。


「こんな関係はやめよう。
瑞穂には、大事なひとがいるだろ?」


大事なひと?
それって、拓馬のことを言ってるの?

あたしの大事なひとは、韮崎さんなのに!


「嫌っ! もう会わないなんて、そんなの嫌!」

「これ以上は、お互いのためにならないよ」

「韮崎さんは、ズルイ!」

「ズルイのは、瑞穂も同じだろ?」


ぐっと言葉が詰まった。


それは、拓馬との関係を言っているのだろう。
本命がいながら他に男を作る、ズルイ女――そういう意味。


「瑞穂は、欲しいモノは全部、手元にないと嫌?」


これは挑発?
諦めさせるために、わざと冷たく言ってる?

確かに、あたしから彼に仕掛けた。
最初から見返りを求めない関係。
だからこそ、の、関係。

あたしが、拓馬とは何でもなくて、たったひとりの好きなひとは韮崎さんだって言ったら、どうなるの? どうするの?


あたしは、韮崎さんの襟元を掴んで引き寄せた。
背伸びをし、唇を重ね合わせる。
舌を絡め、腕を首に回す。逃がさないように、両手で。

吸いついて。荒々しく、けれど、ソフトに。深く口内の熱を弄る。
何度も繰り返し、繰り返し。
自分の中の気持ちをそこに注いだ。

伝わればいい。
だけど――。


唇を離すと、彼を見つめた。


「これがあたしの答えですよ」


あたしはズルイから、ハッキリとは言ってやらない。
でも。ねぇ、これなら韮崎さんにとっても逃げ道になるでしょ?


「今度は、韮崎さんの本当の気持ち、教えて」


あたしは、視線をまっすぐに韮崎さんに向けた。

彼は困ったようにあたしを見て。
目を細めて。
そして――。

頭が引き寄せられたと思うと同時に、唇は塞がれた。
激しくて。でも、丁寧で。熱い、韮崎さんのキス。

あたしと同じだと思った。
あたしからしたキスのときと、同じ。
相手を求めた、気持ちのある、キス。

それが勘違いだなんて、思いたくない。


息継ぎさえもどかしくて、苦しくなる。

お互いの息が上がって。唇が自然と離れて。見つめ合って。
彼はまた難渋した顔つきになって、あたしからゆっくりと窓の方にと視線を移した。
小さな光で飾られた、新宿の街。
あたしも、同じように目を向ける。
さっきと寸分も変わらないように見える。


「初めて見たとき、何かを感じた。
男にとって惹かれる何かを持ってる子だって、そう思った」


光を見下ろしたまま、韮崎さんが言った。


「ああ、この子は使えるなって。
男受けする顔と身体を、仕事に利用してやろうと思った。
ただの駒のひとつ、それだけだった」

「………」

「最初に誘われたときも、ただの火遊びだった」


火遊び……。


あたしは唇を引き結び、黙ったまま彼を見上げた。


「なのに、とんだ誤算」


韮崎さんは、クッと苦笑し、あたしを見た。


「小さな炎は、すぐに引火して、燃え上がって。
――もう、消せないくらい、大きくなった」


それは――あたしのことが好きだって、そういうこと?
だって、そうだよね?


「韮崎さん、あたし――」


言いかけた言葉に、「だけど」と韮崎さんの声が制止するように重なった。


「俺は瑞穂を選べない」

「え」

「選べない」


言葉が胸を鋭く刺した。


――選べない。


痛くて痛くて、あたしは自分の胸元をぎゅっと掴んだ。


「……悠里さんと結婚するから?」

「そうだよ」


あたしの質問に、迷いなくきっぱりと韮崎さんは言い切った。


そんなの、最初から分かってた。

だけど。
じゃあ。
あんなこと、言わないでよ。
あんなキスも、しないで……。


「韮崎さんが悠里さんと結婚するのは、東和重工に復讐したいからなの……?」

 

update : 2010.07.06