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こんなときに限って、更に仕事が忙しくなった。
さっき、M&Sの中田さんから連絡が入り、明後日には報告書や総括等、データ全てが提出出来るとのことだった。
もちろんそれはありがたいことなのだけれど、おかげ様で違うことに頭を回している余裕はない。
――はずのに、噂のことが頭からどうしても離れず、気が気じゃない。
だからといって、石田さんから教えてもらったページをなかなか開く気にはなれなかった。
仕事中になんて見ていたら、誰かに見られるかもしれないからという理由もあるけれど、それよりもどちらかと言うと、何が書かれているのか怖いという気持ちのほうが大きいかもしれない。
どうにかして早く書き込みを消去させなきゃならないのに。
その手段を考える気力も時間も、今は両方なかった。
菜奈とミカの双方からあたしを心配するメールがきていたけれど、それも無視したままだ。
「葉山さん、まだ帰らないの?」
薄手のトレンチコートを羽織りバッグを肩にかけた石田さんに声をかけられて、あたしはキーボードを打っている手を一旦止めて顔を上げた。
どうやらもう仕事も終わって帰宅するところらしい。
「あーまだ、やることがあるんで」
「さっきのことじゃないわよね?」
声をひそめた石田さんに、苦笑してみせる。
「仕事のほうです。
明後日までにやることがいっぱいあるんですよ」
答えてから時計をちらりと確認すると、21時近くになっていた。
もうこんな時間だったんだ。
フロアーにいる社員も、いつの間にか数人になっている。
その中には、例の菊池さんもいた。
「あと少しだけやったら帰りますから」
「私、ちょっとこれから用事があるからもう帰らなくちゃならないけど、持ち帰りで出来るものがあれば手伝うわよ」
「大丈夫です。
石田さんだって、やることいっぱいあるでしょ?」
「そうだけど……」
石田さんは、ちらりと菊池さんの方を見てから言った。
「危ないこと、しないでよ」
「やだなー。大丈夫ですよ」
そう受け答えしている間に、向こう側で菊池さんが椅子から立ち上がった。
デスクの上の物をまとめ始めている。
どうやら彼ももう帰るらしい。
その姿を見て、石田さんはホッとしたように息を漏らした。
「私も例のこと、何か対応考えてくるから、ちゃんと相談してよね。
アナタって、一人で突っ走りそうで怖いんだもの」
「分かってますって」
「じゃあ、また明日ね。
お疲れ様」
「お疲れ様でした」
時間も時間なせいか、あっと言う間に広い部屋の中はあたし一人になってしまった。
作成中のエクセルファイルの保存ボタンをクリックしUSBメモリを抜くと、パソコンの横のカップに手を伸ばして一息ついた。
とっくに冷たいコーヒーが、それはそれで美味しい。
カップを手にしたまま、ぐるりと辺りを見回した。
ギシリと、あたしの座る椅子のスプリングだけが音を立てた。
シンと静まり返っている。
どうやら隣の部も誰一人残っていないようだ。
今なら例のページを開いても、人に見られる心配もない。
そう思うのと同時に、心臓がドクドクと動き始めた。
思い切り息を吸い込み深呼吸をすると、あたしはカップを置き、引き出しの中に入れてあった石田さんからのメモを取り出した。
それを見ながら、パソコンの画面の上のアドレスバーに、ひとつずつアルファベットを入力していく。
アドレスが全て入ると、すぐにENTERキーを押した。
もう勢いだった。
ここで留まるだけ気持ちが負へと傾いて、時間を引き延ばすだけだと思ったから。
白っぽい画面から、一気に暗い画面へとディスプレイは変貌した。
黒背景に、白文字と赤文字が浮いて。
『裏』という言葉を使うには、相応しい気味の悪さだった。
こんなものがあったなんて。
直接の企業名は出されていない。
『T食品系会社』と書いてある。
けれど、そうだ。ウチの会社だ。
下へとスクロールすると、スレッドの文章中にいくつもある単語へ目が行き、ドキッとした。
『販促』『H』『N』
まだ読んでもいないのに、その単語だけで自分たちのことだとすぐに分かって、マウスを動かす指先が止まった。
『Hちゃん、今日は黒だったなぁ〜。
ゴーカイに開いたシャツからちらっと見えるところがまたエロくてソソるんだよね〜。
アレ、分かっててやってるよな〜。』
思わず、胸元を押さえた。
確かに今日は黒い下着だ。
こんなことまでいつの間にかチェックされて書かれてるなんて!
ゾッとしたけれど、こんなことくらいで怯んでいられない。
あたしが探している書き込みは、コレじゃない。
最新の書き込みから追って、スクロールバーを下にまた動かした。
『H最低!』
『自分がいい女だって勘違いしてるんだろ?』
『Nさんってば使われて捨てられちゃったの?』
『次から次へと優良物件に乗り換えてるんでしょ。
金さえあればいいんだよ』
『社長で最終的にウハウハ?』
『無理だろ』
『俺もやらせてくれないかな〜』
足元から身体が固まって冷えていく。
覚悟はしていたつもりなのに。
嫌悪感でいっぱいになって、ぎゅっと目を瞑った。
頭の中には、次々と声が飛び交った。
過去に言われた、傷付けるための悪意に満ちた言葉達が。
マウスの上の指が小刻みに震えている。
あたしはそこから手を浮かして、指先を握り締めた。
強くならなきゃ。
――違う。強いはず。
今のあたしは、昔のあたしじゃない。
今迄にも、こうやって自分を奮い立たせてきた。
今のあたしがやるべきことは、自分を気にすることじゃない。
やらなくちゃ。
あたしは目を開くと、次々と書き込みを読んでいった。
『H』とは、完全にあたしのことだった。
『N』は、韮崎さん。
『社長』は、拓馬。
書かれている内容を要約すれば、ミカが言っていたことと同じだった。
あたしが、婚約者のいる韮崎さんに色目を使って近づいて、M&Sの社長と知り合ったら、そっちに簡単に乗り換えた、と。
金とステイタスは必須。自分にとってより良いほうを選ぶしたたかで男好きな女、だと。
相川さんとのことも歓迎会のことも出張のことも――それ以外の男性社員とのことも、事実ではない憶測ばかり山ほど書かれていた。
それに便乗して悪乗りした、あたしへの誹謗中傷で埋まっていた。
表面上では何でもないようで、腹の底ではこんな風に思っているなんて、あまりの汚さが怖くて。
そしてある意味、可哀想にも思えた。
あの頃の――小学生のいじめよりもずっと低能だ。
匿名で誰だか分からない世界だったら、公共のこういう場所でも、人の悪口も事実を捻じ曲げて愚弄することも平気だなんて。
誰かを標的にしてみんなで攻撃していれば、自分が強くなった気でいられるのだろうか。
そんな自分を、好きでいられるのか。
あたしには、とてもそうは思えない。
自分の心が綺麗だなんて思わない。
あたしは言われている通り、したたかな女の部分を多く持っているとも思う。
だけど……自分に正直に生きたいし、自分を好きでいたい。
守りたいものも、今はある。
目の前には、あたしについて最初に書かれた長い文章が十数行に亘ってずらずらと並んでいる。
今も――噂を聞いた誰かが面白半分にココにきて、これを読んでいるのかもしれない。
……悔しい。
これを、どうやったら削除することが出来るんだろう……。
ページを移ろうとしたときに、画面右下にあるリンクにふと気が付いた。
管理メニュー?
これって、管理人用ページってことだよね?
あたしは迷わずその文字をクリックした。
けれど、そこに自分の望んだページはなかった。
出てきたのは、ただの入力画面だった。
どうやら、IDとパスワードが必要らしい。
考えてみれば当然だ。
けれど、これさえ分かれば、この掲示板を削除することも出来るじゃないか。
「IDとパスワード……」
いや。どう考えても無理だ。
分かるわけがない。
簡単に誰でもアクセス出来るのだったら、それこそ大問題だ。
溜め息が漏れる。
その時だった。
いきなり鳴り出した音に、思い切り身体が跳ね上がった。
心臓がバクバクしている。
「何、もうっ……いきなりっ!
ビックリするじゃんっ!」
こんな時間に誰かと思いつつも、あたしはけたたましく鳴り続けるデスクの上の電話の受話器を上げ、通常業務と同じように受け答えした。
「TWフード、販売促進部の葉山です」
『まだいたのか』
「……は?」
一瞬、戸惑ったけれど、すぐに相手が誰だか分かった。
大嫌いな、聞きたくもない拓馬の声。
あたしはひとつ息を落とした。
「こんな時間に何?」
『オマエのケー番知らねーんだから、ココにかけるっきゃねーだろ?
まぁ、まだ会社にいて良かった』
「……だから、何の用?」
『冷てーな。報告だよ。
今日、オレの方は報告書とか終わってるから、あとは中田から明日にでも送らせるよ』
「えっ!? 明日!?
中田さんからは、明後日に提出するって昼間言われたけど」
『うん。ちゃっちゃと終わらせた。
って言っても、ちゃんとやってあるから安心しろよ。
あとは中田受け持ちのものも、明日には出来るだろうし。
アイツはオレの右腕だから、信頼していいよ』
自慢げに拓馬は言った。
信頼って……中田さんのことは信頼できるけどさ……っ。
「……ありがと」
『じゃあ……』
「あっ! 拓馬っ!」
電話が切れるのを、思わず止めてしまった。
拓馬なら、ネットとかにも詳しいかもしれない。
――何となく、だけど。コイツなら知っている気がして。
立ち上げたばかりの会社がいきなり大きくなるわけもないし、ここまでくるにはそれなりに揉まれてきただろうから。
『何?』
「ね。拓馬の会社のHPとかって、あるよね?
あの管理とかって、拓馬もするの?」
『一応、管理者は専門でちゃんといるけど……。
でも昔、会社を立ち上げたばかりのときは、自分でそういうのもやってたよ。何?』
やっぱり!
「ああいうHPとか掲示板とかの管理って、IDとかパスワードとか必要だよね?
そういうのって、管理人以外の人が簡単に分かるわけないよね……?」
『フリーのものだと、大概IDはアドレスの一部になってるからすぐに分かるけど。
個人じゃなくて企業のは、普通分かんねーな。
それにパスワードは、管理人以外が分かったら大変なことじゃね?』
「IDはアドレスの一部って……そんなに簡単に分かるの?」
『だから、無料サイトの場合な。
や。だから、IDが分かったって、パスワードが分かんなきゃどうにもなんねーだろ』
「そうだけど……」
『パスワードを探るツールもあるらしいけどさ』
「えっ!? あるの!?」
『あのさぁー、そういうヤツがいるから定期的にパスは変えろって言うの。
大体、そーゆーの、不正アクセスって、違法だから。
オマエ、それくらいは分かるよな?』
違法って言われても、誹謗中傷されてるのに、このまま放っておけるわけないじゃん。
「そんなの知ってるし」
『何? 何だよ? 何なんだよ?』
「別に。何でもないよ」
『何でもなくて訊くほうがおかしいだろ。
何なんだよ、言ってみ』
「何でもないってば!
ただどういう仕組みなのかなぁって、それだけっ!」
『……ふーん』
怪しんだ口調の拓馬に、訊かなきゃ良かったかな、と思う。
けれど、今更だ。しらばっくれるしかない。
さっさと切っちゃおう。
「じゃーありがと! また……」
『あっ! オイ!
オマエさ、そーゆーのに突っ込み過ぎんなよ。
裏とかヤバいやつってさ、それの対策に監視サービスやってる会社とかもあるんだよ。削除とか、そういう対応もやってくれる。
きちんとしたトコに任せた方がいい。あまりにも酷い場合には、弁護士使って協議させることも出来るし。
とにかく、ヤバいものには関わんなよ』
監視サービス会社? 弁護士?
そんな大事になったほうが、よっぽど大変なんだけど。
て、言うか。コイツ、ホント鋭いな。
裏とかヤバいやつなんて、一言も言ってないのに。
「だからっ、何でもないったら!
ただちょっと訊いただけだし!
拓馬忙しいでしょ? もう切るよっ」
『あー、そうそう、待てってば。
オレ、会社には数日いないから、電話もメールも携帯にしてこいよ。
ホテルに缶詰めだからさ』
「缶詰め……?」
『今度出版する本の原稿がギリギリでさー。
編集にホテルの一室で見張られてんの』
「本?」
そう言えば、この間中田さんが言ってたな……。
「缶詰めって……そんなの本当にあるんだ?
って言うか、そんなのテレビとかの中だけかと思ってたけど」
『締め切りギリギリなんだよ。
お約束通り、編集担当者がお高い栄養ドリンク持ってなー。
マジでドラマとかそのまんまって感じ。オレも驚いた』
「へー、そういうもんなの?
て……どんな本? やっぱり、ビジネスに関する本だよね?」
『マーケティング戦略と実行の本だよ。
MBA式戦略発想と、問題課題の思考法』
MBA式?
メジャーリーグじゃないよね?
ん?……あれはMLBか?
……分かんない、っつーの。
それでも、悔しくて知ったかぶりしておく。
「へぇ、凄いね」
『つーか、オマエ、そんなのどうせ読まねーだろ?』
どうせって、失礼だな。
確実に読まないけどさっ。
一応は褒めてやったのに!
「読むよっ!
今ねっ、そういうの勉強中なのっ。
やっぱさ、販促にいるんだしさっ」
『じゃー、一番に送るわ』
「……えっ」
『読んだら感想聞かせろよ』
め、メンドクサ!
そうは思うけれど、ああ言った手前、いらないとも言えないところが哀しい。
「分かった……。
じゃーまたね。
執筆、頑張ってよ」
頑張ってよ、なんて、ハッキリ言って本気では思ってない言葉に、「サンキュー」と明るい声が返ってくる。
『まぁ、オマエからの連絡は取れるようにしとくから、何かあれば携帯にかけてこいよ。
つーか、いい加減、葉山のケー番も教えろよ』
「あー、あたしも忙しいの!
やることいっぱいなんだっ。
じゃあねっ」
と、あたしは今度こそさっさと電話を切ってやった。
携帯の番号を教えるなんてとんでもない。
プライベートでは付き合いたくないって、いい加減分かって欲しい。
……いや、本当は分かってるとは思うけど、アイツはどうせ気にしてないんでしょ。
今受話器を置いたばかりの電話を睨んだ。
シンと静まり返った中に溜め息を落とすと、妙に大きな音に聞こえた。
窓の方に目をやった。
空は真っ暗だ。
無数の電飾が、街の形を浮き彫りにさせている。
新宿の街は、こうして夜見るとなんとも綺麗だ。
再度息を吐き出すと、パソコンに正対し、黒い画面を見つめ直した。
そういえば、いつの間にかあたしの中の変な緊張が消えている。
随分と落ち着いたのは、拓馬と喋ったお陰だな、なんて思う。
あんなに嫌いなのに、たまには役に立つ。
あたしは、さっきは入れることの出来なかったIDの部分に、拓馬の言っていた通り、アドレスの一部分をコピーし貼り付けた。
けれど当然パスワードが分からないのだから、それ以上は進めない。
菊池さんの名前に絡めたものをいくつか適当に入れてみたけれど、赤字のエラーが出るばかりだ。
「もー……っ。全然駄目じゃんっ」
はああ、と。深い溜め息。
パスワードなんて、分かるわけがない。
どうにかしなくちゃならないのに。
こうなったら、直接本人に言ってやらせるしか手はないのかな。
だけど、しらばっくれられたらオシマイだし。
もし、犯人が菊池さんじゃなかったら大変なことだし……。
何か良い手はないかな……。
半分突っ伏しながら、掲示板と管理者アクセス入力ページを行ったり来たりカチカチといじっていると、ふとしたことに気が付いた。
IDの入力箇所には、あたしがさっき入れたIDがそのまま残っている。
これは、クッキー機能だ。(これくらいならあたしだって知ってるよ)
と、いうことは、本人の使っているパソコンなら、ログアウトしていなければそのままログイン状態になっているかもしれない。
そう糸口が見つかると、掲示板の書き込みに、『今日は黒だった』とあたしの下着の色を書かれていたことも思い出した。
これはどう考えても、会社にいる間に書き込まれたものじゃないか。
ログイン状態のままなんて危険なことをまさかするかな、と思いつつも、あたしは菊池さんのデスクへと向かった。
社員みな同型のデスクトップ。
あたしは自分のものと変わりない場所の電源ボタンを押した。
緑とオレンジの小さな光が側面に点滅し、暗い画面にはウインドウズのマークが浮いた。
随分と順にのんびり表示しているコンピューターに、早く立ち上がれとイライラしてデスクの上を指でカツカツと叩いた。
こんなことをしたからって、どうなるものでもないとは分かっているけど。
後ろも気になって、誰もいないか何度も振り返って確認した。
画面にはようやくアイコンが並び始めた。
一歩遅れてタスクバーの表示も始まると、あたしはさっさとインターネットエクスプローラーを開いて、さっきのアドレスを打ち込んだ。
黒い画面に白と赤の文字。
そして――。
「菊池ってば、超馬鹿」
緊張も吹き飛ぶほど呆気なく管理者ページが開けたことに、あたしは思わず笑いが漏れた。
「アイツ、管理人のくせに、危機管理なさすぎない?」
そう嘲笑しつつも、あたしは画面に目を走らせた。
数個並ぶ設定ボタンの中で、掲示板の削除に関するだろう目ぼしいものを探した。
そしていくつかクリックしてみる。
――あった!
【掲示板の削除】
不要になった掲示板の削除をします。
削除後は、基本情報やログは全て削除され、復元することはできません。
その文章の下にある削除ボタンを、あたしは迷いなくクリックした――途端、後ろから声がした。
「何、勝手に人のパソコン使ってんの?」