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雨が降っている。
冷たい雨。

けれど、こうしてコンクリートで固められた建物の中にいると、その温度差を忘れてしまう。

ガラス越しに、空を見上げた。
澄んで沢山の星の粒を散りばめていた葉山の空とは違い、どんよりと重たげな鈍い色の雲で隙間なく覆われている。
虫の美しい音色の代わりに、あたしの背中からはキーボードを叩く忙しない音や電話のコール音、事務的な話し声がする。
……ああ、うるさい。


あの日――葉山で。

流れ星は、あたしの瞳の中をいくつも通り過ぎたのに。
願い事を唱える前に消えてしまった。
全て。

消えてしまったあとの願いは、届かないのかな……。


「何サボってるの?」


すぐ背後から、さほど咎める意思もなさそうな声が言った。
これが半月前なら、全く違った声色だろうと思う。


「雨だなぁ、って」


あたしは答えながら、とうに印刷の終わったコピー用紙を手に取り、石田さんの方へと振り返った。


「何を当たり前のこと言ってるのよ」


馬鹿ね、とでも言葉をつけ足したように、けれど穏やかな顔で石田さんは笑う。
こんな顔も、半月前だったらありえなかったな、と思う。


「それより、葉山さんに電話。早く出て。
M&Sの中田さん」

「あっ、はい。すみませんっ」


ぼんやりしている場合じゃない。
慌てて自分のデスクへ戻ろうとすると、「ねぇ」と呼び止められた。
あたしはまた石田さんの方へと振り返る。


「何ですか?
電話が――あとでいいですか?」

「あー、ううん。
やっぱり何でもない。大したことじゃないし」


石田さんは苦笑いを返してよこし、「行って行って」と、追い払うような手振りをした。


何?
そう言えば、この間も何か言いたげだったよね?


と、思いつつも、中田さんからの電話が待っているために、あたしは小首を傾げただけでそのまま急いでデスクに戻った。

お待たせしました、と、息を整えて電話口に向かう。
お互いにいつも通りの挨拶を済ませると、すぐに要件に入った。

中田さんは、話していて頭の良い人だなぁと思う。
具体的にどんなところがと訊かれると、どう返答していいのか困るけど。
とにかく、あたしの考えを言わずとも汲んでくれるし、先回りしてやってくれるし、対応もめちゃくちゃ早い。
調査の件のミスや不備が殆どないのは、彼女のおかげだと思う。
だから、あたしはあたしの仕事に没頭できる。
余計なほうにまで、気も頭も回さなくても済むのだ。

電話を切ると、仕事の続きに取りかかった。
――集中しなくちゃ。

会社に来れば、就業中は忙しさのあまり仕事以外のことを考える余裕はほとんどないと言っていい。
それは、あたしにとってありがたい。
韮崎さんが、今日突然の出張でいないということも、ある意味ホッとした。

だって――。
月曜日の、朝。
一体、どんな顔をして、韮崎さんがあたしの前に現れるのかと思った。

あたしとの約束を、嘘を吐いて破って。
なのに、あたしを追いかけてきて、何か言いかけた韮崎さん。

拓馬が言うように、もし彼があたしのことを好きなら、この関係をどうするつもりなのか。

別れよう、と、言われるのは怖い。

今のあたしには、その覚悟が出来ていない。

ずるずるで、いい。
まだ、彼と関係を繋いでいたい。

話をするべきなのか。
それとも、何も語らず、なかったことにして、いつも通りを貫くのか。

自分でもどうするべきなのかは、ハッキリしていなかった。


拓馬とは――。
空が明るくなる頃まで、一緒に星を探して。
そのあとは、そのまま車で家まで送ってもらっただけ。
車の中であたしは、いい加減眠くなって寝ちゃっていたし、それ以上のことは何もなかった。
帰り際も、ただ「じゃあ」と――二人とも。
それだけ。









「あっ! 瑞穂っ!」


社食に入るや否や、あたしの姿を見つけた菜奈とミカは、今迄手をつけようとしていた定食と箸を放り出してこちらに慌ただしく向かってきた。
そんな奇特な態度に、嫌な予感がする。


「どうしたの?」

「瑞穂にメールしたのに! 気付かなかったのっ?」

「え? メール? ゴメン、気付かなかった。
で、何かあったの?」


あまりの緊迫感に眉を顰めて二人を交互に見ると、ミカがあたしの手を取り、人の少ない端の方に連れて行かれる。


「だからー、どうしたっての?」


止まったところであたしは掴まれた手を振り切ると、ミカは、うん、と、いささか言いにくそうに頷いた。


「ついさっき、とある噂が耳に入ったの」

「噂?」

「瑞穂と韮崎さんの」

「えっ?」


菜奈とミカは、一度顔を見合わせ、困ったような表情をした。
そして、ミカが声をひそめて、けれど捲し立てるように興奮して言った。


「だからね、瑞穂が婚約者のいる韮崎さんをたぶらかしてるって。
瑞穂と韮崎さんの歓迎会のとき?――そのとき、二人で先に帰った、とか。
主役の二人が消えるのはおかしいよね、って。
それに、瑞穂の九州出張に、韮崎さんがあとから追いかけて行って、同じ部屋に泊まったとか……そんな噂が流れてるの!
ちょっと、ヤバくないっ?」


何で今更そんな話が――!?


「それにさ、会社の玄関先で、誰だか男同士で瑞穂を取り合ってた、とか――。
色々男がいて社内でも沢山の男と関係があるとか――でも本命はM&Sの社長だって。
大体、M&Sの社長が本命って、あたしも知らない話なんだけど。どうなってるの?」

「ソレって、何?
一体、誰から聞いたの?」


わけが分からないといった様子のミカに、あたしは逆に訊き返した。


相川さんと拓馬のことは、場所が場所だっただけに誰が見ていてもおかしくないけど……。
歓迎会と出張のことは、ウチの部の人間しか知らないはず……。
拓馬とのことを勘違いしてるのだって、ごく限られた人間。


「あたしは今ミカに聞いたんだけど……」

「あたしは夏美から。夏美がどこから仕入れたのかは知らないけど……。でも、ウチの部でも知ってる子は他にもいるみたい。
だってさ、相手が韮崎さんでしょ? やっぱ目立つんだよ、彼。狙ってた子、多いから。
それにさ、婚約者もいるって、みんなは知らなかったわけじゃない?
だから余計に広まりも早いんじゃないの?」


菜奈とミカの返答を、あたしは黙ったまま聞いた。

確かに、ウチの部の人が、他の部の誰かに話したら噂になるかもしれないけど。
だからって、今まで噂になんてならなかったのに、何でそんなに急に広まってるわけ?


――『結婚を餌とした大事な時期に、オマエの存在は韮崎さんにとってマイナスにしかなんねーよ』

――『オマエとの関係がバレてみろよ。
幼いころから計画してきたことが、台無しになる』



拓馬の言葉が頭に浮かんだ。


……ああ、本当にそうだ。

参った……。
ヤバいな。
韮崎さんに、迷惑かけちゃう。

噂の出所は、どこ?


目を閉じ、考え込んだ。

すぐに思い浮かんだ。
つい数時間前のこと。


「瑞穂っ?」


菜奈とミカの呼び止める声を無視して、あたしは社食を飛び出した。

社食のある最上階から、販売促進部のあるフロアーまで長い階段を一気に駆け下りた。
エレベーターを使わなかったのは、社食を出るまでの短い距離の間に、何となく人の視線が刺さるのを感じたから。自意識過剰か考えすぎなのかもしれないけど。
――いや。この間のことで仕事以外ではぼんやりしてたから気にしてなかったけど、よくよく考えてみれば、部でも冷たい視線で見られてた――と、思う。

相手がどんな男だろうと、噂になったっていちいち気にするなんて馬鹿馬鹿しい。
でも、その噂のお相手が韮崎さんとなると話は別になる。
どこまで話が広がっているんだか――怖い。

石田さんは――この間のときは確か、最近何かなかった? と言っていたから、まだ噂も流れる前だったんだと思う。
けれど今日の様子からは、彼女のところにも流れてきたから、きっと何かあたしに言おうとしたんだ。

石田さんは、何を知ってるの?



前に偶然会った休憩室に着くと、入り口からそっと中を覗き込んだ。
どうやらお弁当をちょうど食べ終わったらしい石田さんの後姿は、利用者の少ない休憩室では一目で発見出来た。
彼女と一緒にいるのは、坂本さん――同じ部だけど、ほとんど口をきいたこともない。
誰にでも調子が良くてお喋りで口の軽そうな女。あたしの苦手なタイプ。
石田さんと、仲良かったんだっけ。

感心するほど口を動かしている坂本さんの横に立つと、彼女はびくりと身体を跳ねさせ話を止めてあたしを見上げた。
唇を半開きにして。目を丸くさせて。


コイツが噂の元?


石田さんも、目を見開きあたしを見上げた。


「葉山さん……」

「訊きたいことがあるんですけど。
石田さん、ちょっといいですか?」


あたしはにっこりと笑顔を作った。

坂本さんは、ねめ付けるように下からあたしを見たけれど、石田さんは何も言わずに立ち上がった。
そして、テーブルの上にあるお弁当箱をさっとしまうとバッグを持ち、黙ったまま先に歩き出した。
この様子からは、何か知っていることは確定らしい。

あたしは坂本さんに一礼すると、すぐに石田さんの後を追った。
休憩室を出て、右へ行き、廊下の突き当たり――さっきあたしが駆け下りてきた階段のところで、彼女は立ち止まり振り返った。

気の強い彼女が、困ったように眉を顔の中央に寄せ、あたしを見た。


「訊きたいことって……?」

「石田さんは、分かってるかと思ったんですけど」

「葉山さんの耳にも入ったの?」

「……つい、今」

「私も、驚いた。
朝、坂本さんから聞いたの」


驚いた?
石田さんが最初から知ってたことじゃないの?


「どういうことですか?
意味、分かんないんですけど。
主任との噂のことですよね?」

「……そうだけど……知らないの?」

「え?」

「……や、何でもない」

「石田さん!」


思わず飛び出た声が階段に響いて、あたしはハッと一度口を噤んだ。
自分を落ち着かせるように長く息を吐き出し、目を伏せた石田さんを優しく問うように見つめた。


「あたしの悪口ならいくら言われてもいいですけど、主任は婚約者だっているんですよ。迷惑かけたくありません。
あたしが聞いたのは、あたしが主任のことをたぶらかしてるとかなんとか、その程度ですけど。
他に何かあるんですか? この間も、あたしに何か変わったことがなかったかって訊きましたよね? それって何ですか?
石田さんの知ってること、教えてください」


あたしから目を逸らしていた石田さんは、おずおずと目を合わせたあと「ごめんなさい」と言った。


「私、ほら、あなたのこと、嫌いだったでしょ?
ああでも、今はそんな風に思ってないからね」

「そんなのお互い様です。
だから、何なんですか」

「確かに、ウチの部の仲間うちでは、以前はアナタのこと悪く言ってたの。
歓迎会の日だって、いきなり二人でいなくなったり。
あの日、その場にいたっていう菊池が言うには、具合が急に悪くなったアナタを主任が送って行ったって――。
だって、そんなの怪しいと思うじゃない?
具合が悪い振りして誘ったんでしょ、って。
葉山さんって、そういうひとなんだと思ってたし……」


――そういうひと。

まぁ、その通りだけど。
その点に関しては反論なんて出来ないけど。

だけど、菊池さんてば、皆のところに戻ってからそんなことを言ってたの?
アイツが悪いクセに――。


「主任のファンの子も多かったし、アナタのことが嫉ましかったのは確かだわ。
だけど、私たちが言いふらしたんじゃないわ」

「じゃあ、噂の元はウチの部じゃないってことですか?」


石田さんは、それには首を横に振った。


「ウチの会社の、裏サイトだか掲示板だかがあるらしいの」


裏サイト?
掲示板?


「何ですか、それ……?」

「そこに、葉山さんに関することが、ずらっと書いてあったって、坂本さんが言ってた」

「あたしに関することですか?」


石田さんは、こっくりと頷いた。


だからいきなり噂が広まったっていうの?


「坂本さんが言うには、随分と卑猥なことも沢山書いてあるらしいわ。
私は直接見てないんだけど、相当酷いって」


――卑猥なこと。

一体、誰がそんなこと。

何のために? 
ただ中傷して嘲笑いたいから?


すうっと、身体が冷えた。
自然と握り拳を作って、ぎゅっと強く握り締める。

言葉を失っていると、石田さんはぽつんと言った。


「私、そこの管理人は菊池だと思うの。
それを書いたのも」


菊池?


「菊池って、ウチの部の、菊池さんですか?」

「以前も、そこで噂になった女子社員がいたんだけど、菊池が付きまとってた子なの。
その子の結婚が決まった途端、そういうことが起きたのよ。
それで彼女、結婚しても仕事は続けるつもりだったみたいだけど、結局居づらくなって辞めちゃった。
当時、その書き込みと管理人の書く文体が似てるって噂があって。それと普段の菊池の文体とも。
とにかく、アイツ――菊池って、ちょっと怪しいのよ」

「怪しいって……」


「それに」と、石田さんはあたしの言葉を切った。

「前からアイツがアナタのことをよく見てたのも知ってたし、最近、菊池にアナタのことを色々訊かれたの」

「あたしのこと……?」

「当たり障りのないことしか答えてないんだけど、そのとき、葉山さんの彼氏ってM&Sの社長だしね、って言われて、何で知ってるのって――私、驚いてつい言っちゃったのよ。
あとから考えてみたら、カマかけたのかな、って……。
だから、まさかって思ったんだけど、何となく心配してたら、こんなことになって――。
絶対、アイツだと思うの。私のせいだわ……ごめんなさい」

「石田さんのせいじゃないです。
それに、菊池さんが犯人なんて、まだ断定できないし」

「でも……」


悔しそうに唇を噛む石田さんに、あたしは首を横に振った。


「大丈夫。教えてくれて、ありがとうございました。
その裏サイトだか掲示板のアドレスって、教えてもらえますか?」

  

update : 2010.06.09