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虫の声に混じって、拓馬の心臓の音が聞こえる。
押し付けられた胸から、直接あたしに響いてくる。
けれど、あたしも同じくらい鼓動が速まっていた。
ドクドクと。
どちらともつかないほど、速く打ちつける。
あの拓馬に今こうして抱き締められているのに、嫌悪感さえ飛んでいて。
湧き上がってくるのは、どうにも説明のつかない感情。
膨らんで、膨らんで、膨らんで――はじけそうなくらい、胸がいっぱいになった。
一生許せないはずなのに。
一生嫌いなはずなのに。
一番、認めさせたかったオトコ。
「……アンタなんて、嫌い」
「分かってるよ」
「嫌いなんだってば」
「うん」
「嫌いなんだからっ!」
じゃあ、どうして、この腕を振りほどけない?
自分の中に疑問を投げると、拓馬は抱き締めている力を緩めた。
触れられている手が、髪から頬へと優しく滑っていく。
あたしは、すぐ上にある拓馬の顔を見つめるしか出来なかった。
「でも、オレは好きなんだよ」
「ずっと、」と、真剣な瞳があたしに訴えてくる。
「優しくしたいんだ」
「………」
「泣かせないから」
「………」
「絶対オレは、葉山しか、見ない」
言葉のすぐあと、近くにあった顔は更に近づいて。
そう思ったときには、もう遅くて。
唇が、触れ合っていた。
拓馬の柔らかい感触に、韮崎さんの体温を思い出した。
「イヤっ!」
どうにか声を上げて、拓馬の胸元を強く押し、唇も身体も離した。
その途端、拓馬はバランスを崩して、後ろに倒れた。
「何すんのっ!」
睨んで、叫んで。唇を右の手の甲で拭うと、草の中で呆気に取られていた顔は、フッと歪んだ。
そしてそれは、そのままクックと堪えたように笑い出す。
「何で笑うの!?」
まさか、からかったって言うの!?
今までの、全部――!?
「だってさ、葉山抵抗しねーんだもん」
「アンタって――!」
最低、と言う言葉の途中で、拓馬は言った。
「オマエ、腕ん中で可愛すぎなんだよ」
また、言葉が止まってしまう。
振り上げたはずの手も、そこで。
「言っとくけど、全部ホントだから。
ちゃんと、本気でとってくれよ」
拓馬はそう言うと、はああ、と空に向かって大きく息を吐く。
「や、マジで緊張した。
あーでも、ちゃんと言えてスッキリした」
ニッと。寝転がったままこちらを向いて笑う。
あたしは、毒気を抜かれてしまった。
緊張の糸もぷっつりと切れてしまい、どっと疲れが出て、拓馬とは反対に頭を垂らして息を吐いた。
「ババ臭い溜め息」
「……アンタが変なこと言うからでしょ」
「変なこととか言うか?」
「ありえないもん」
「信じてねーの?」
どきっとした。
つい上げた顔を、またまっすぐに見つめられる。
何て答えていいのか迷ってしまう。
信じたには、信じたけれど、この態度はどう取っていいものなのか。
逡巡している間に、拓馬が言った。
「まぁ、今は無理だろ。分かってる」
「……うん。無理。
今じゃなくても、無理」
「いーよ。待ってるから」
「待たれても困る!
大体ねっ、あたしはアンタのこと、許さないんだからっ!」
「ハイハイ」
「ちょっとっ!
何でそんな態度なのよっ!」
「いや、だって、怒った顔も可愛いなーって」
コイツっ!
「アンタ、あたしの反応楽しんでるだけでしょっ!」
「マジで可愛いってば」
「殴るよっ」
「イテッ! 殴ってから言うなよ。
つーか、グーで殴るかよっ」
当然だっつーの!
もう二、三発、殴ってやる。
と。三発目のパンチを繰り出した途端、手首を取られた。
「だってさ、昔はこういう反応さえしてくれなかったろ?
いつも唇を結んで、ただ堪えて、何も喋らなかった。
こんな顔、してくれなかった。
だから、今の葉山の反応が可愛くってさ。
嬉しいって言ったら、また怒るか?」
拓馬は、愛しむように微笑んで、あたしを見る。
「怒るに決まってるでしょ!」
掴まれている手を振り解こうとした。
けれど、それどころかぐいっと引っ張られた。
またもや近い場所に、拓馬の顔があって。
すぐそばにあるその唇が開く。
「なんなら、もう一回キスする?」
「最っ低っ! するわけないでしょ!
大体、あれはアンタが勝手にしたんじゃないっ!
する、とか、訊かないでよっ!
手、放してよっ!」
「オレは、どっか泊まっていってもいいけど?」
意味あり気に口角を上げる拓馬の手を、あたしは今度こそ振り払い、立ち上がった。
「アホッ!
あたし、帰る!」
「帰れんの?」
言われてみて、はた、とする。
確かに。
小学校の近くっていうのは分かるけど、道なんて分からない。
住んでいたのも昔のことすぎて、なんとなく覚えもあるけれど、今はもう変わっているかもしれないし。
終バスもすでにない気がするし、タクシーなんて滅多に通らないだろうし。
ああ、もう、ムカツク!
「どうにかなるでしょ!」
「約束忘れてねーよな?
一日オレの言うこと聞く約束。
現在執行中」
「ふざけないでよ!」
「じゃあ、仕事の件もナシでいいんだ?」
意地の悪い微笑みと一緒に返される。
――コイツってやつは!
それを言われたらどうにもならない。
けれど頭に血が上って、何か言ってやらずにはいられない。
「大体っ、ココ、どこっ!?
何のためにココに連れて来たのよっ!?」
「オレの、死んだばーちゃんち」
飄々と言う拓馬に、あたしの威勢はそがれてしまった。
「死んだ、おばあちゃんち……?」
「一昨年亡くなって、オレがこの家を引き継いだんだ。
オレ、ばーちゃんっ子だったしさ」
「だから、意味、分かんないんですけど」
「昔、毎日ココに来てたんだ」
「え」
「家だと、母親も兄貴もうるせーし。
いつもここに来て、ひとりで懺悔してた」
懺悔?
訝しく拓馬を見ると、あたしに苦笑いを返してみせる。
「オマエへ、に決まってるだろ。
こうして芝の上に寝転がって、空を見上げながら、いつも懺悔してた。
なのに、いざオマエを前にすると駄目だった。
一言も、本当に伝えたいことが言えなかった。
毎日そんな繰り返し。
だから、オマエがオレのことを憎むのも、当然なんだ。
オレは結局、ただ深い傷付けただけ」
拓馬はまるで自分が傷ついているような瞳をして、空を見上げた。
「だから――ココからもう一度、始めたいと思った。
ココでなら、全部素直な本当の気持ちが言えるだろうって。
今度こそ、ちゃんと伝えたかったから」
何を言ってるんだろう、本当に。コイツは。
今更だ。
そんなこと、聞きたくない。
あたしと同じように。
韮崎さんと同じように。
コイツも、同じ時間、こうして空を見上げてたっていうのか。
三人様々――想いを抱えて。
だけど、許せない。許したくない。
自分勝手な理由で、あたしを傷付けたこと。
薄れそうになる気持ちを留めるように、あたしはぎゅっと目を瞑って唇を噛んだ。
「あ!」
大きな拓馬の声に、結局すぐに瞼を開けた。
「流れ星!」
拓馬は空に向かって指をさす。
あたしはその方向につい目を向け、それを探してしまった。
……なんだ。
「ないじゃん」
「ばっか。遅い。もう消えたっつーの」
「馬鹿とか言う?」
「トロいんだよ」
……ムカツクっ。
「別にいいもん。見なくたって」
「素直じゃねーな」
「素直ですっ。
あたしはアンタと違って、全部ホントのことしか言ってませんっ」
「オレが嫌いって?」
「そうっ。嫌いっ! 大っ嫌い!」
上から見下げて、ことさら大きな声で感情を込めた。
嫌がらせで言ってやったのに、拓馬はクックと笑い出す。
残念ながら全く効果はないらしい。
それどころか、またもやあたしの反応を楽しんでいる模様。
「座れば?」
ぽんぽんと、自分の横の芝を叩いて座れと促す。
あたしが帰れないのを分かっていての余裕。
ムカつくけれど、あたしは仕方なくまた元の位置に腰を下ろした。
ひやりと、冷たい。
その上、湿っている。
さっき寝そべっていたせいで、背中も濡れているし土で汚れているはず。
せっかくのお気に入りのワンピも台無し。
今更、そんなことを思う。
あたしは空に向かって溜め息を吐いた。
星があまりにも綺麗で、それさえも癇に障る。
本来なら、韮崎さんと一緒に見るはずだった、星。
なぁ、と、拓馬が言った。
「葉山はさ、流れ星に願い事ってかけねぇ?」
「えっ……?
かけ、る、かも、しれないけど……。
でも、大人になってからは、多分流れ星なんて見たことないし。
そんなこと、考えたことないよ」
「だからこうして、今探してるんじゃん?」
拓馬はまたひとり空を仰いだ。
……探してるって、いつからよ?
「拓馬の願い事って、何なの?」
自分で会社を立ち上げて、成功して。
メディアにも出て、本まで出版してる。
地位も名声も金もあるでしょ。
悔しいけど、顔もスタイルもセンスも悪くない。
男として、他人の羨望を浴びるくらい持つべきものは持っている。
それに、自分本位なコイツなら、どんな汚いことをしても、欲しいものは強引に手に入れそう。
まぁ、コイツの場合、際限なく欲深そうだけど。
星に願いをかけるほどのことって何?
ただの好奇心だった。
突飛な答えが返ってくるとも思わなかった。
拓馬は、ゆっくりと空からあたしに目を戻した。
「葉山が幸せになること」
「は――」
「葉山が本当に幸せになれれば、いいかな。
オレがつけた傷を、オレの手で修復して、いつも笑ってくれればいい。
だから、オマエを傷付けるアイツになんか、ぜってぇやんねぇ」
本当に、コイツってやつは――
どうしてこんなに自分勝手なんだ。
「何言ってんのっ!?」
「そーいや、ちっこい頃の願いはさ、葉山を嫁に貰うこと、だったな」
「だからっ! ばっかじゃないっ!?」
「オマエこそ、馬鹿とか言うな。カワイイ夢じゃん。
流れ星を見るたびに、願いをかけてたんだ。
小学生らしいだろ?
まぁ、流れ星って一瞬だからさ。唱える前に消えちゃってたけどな」
拓馬は子供のような屈託ない顔で笑った。
昔の――あの頃の拓馬と、ダブって見えた。
本当に、コレが拓馬?
あたしにずっと意地悪をしていた、拓馬?
嘘のように、素直で。
ストレートな気持ちをぶつけてくる。
あたしが思ってもみない本心を。
ココは、拓馬にとって、本当に素直になれる場所なの……?
「葉山は?」
「え?」
「願い事、何かねーの?」
願い事……。
「あるに決まってるでしょ」
思わず言ってしまったけど。
あたしの本当に、本心から叶えたいこと。
それは、結局のところ、何だろう?
韮崎さんへの、自分の気持ちが叶うこと――彼が復讐することをやめて、あたしと最終的に結ばれること、なのか。
それとも、韮崎さんの夢――彼が彼女と結婚して、東和重工のトップに立つこと、なのか。
ひとつだけ願うのだとしたら。
韮崎さんの過去を知った今、どちらを選べばいいんだろう。
――『葉山が幸せになること』
拓馬の声が蘇る。
「……韮崎さんの、幸せ、かぁ」
空に向かって呟いた。
小さな星が、何かを答えるように遠くで瞬く。
だけど、聞こえない。
答えは聞こえてこない。
韮崎さんにとっての、本当の幸せは何だろう?
あたしは、拓馬の隣でその答えを探究しながら、弱いのに――強い小さな光の散りばめられた黒い空の中に、流れる星を探した。