42
虫の音、風の音。
葉の匂い、土の匂い。
夜露を零し湿った芝の冷たさ。
目を開けると、紫紺の空に、ばらまいたように散らされた星。
黄色い光を朧げに灯した月。
記憶が呼び起こされる。
あまりにも懐かしい五感を抱いて。
どれも、あの頃と変わっていないように、似ていて。
――苦しくて、こうしてひとり芝生の上に横になっていたこと。
韮崎さんも、言ってた。
毎日のように草むらに寝転がって虫の声を聞いてた、って――。
嫌なこととか考えたくないことが、あまりの音の凄さに、かき消してくれる気がする、って――。
それは、このことだったのかも、しれない。
ふと、思い出したように、横を向いた。
大音響の虫の音に混じって、微かに衣擦れの音が立つ。
今日は、一人じゃないんだっけ……。
あたしが動いた気配に気付いた拓馬は、こちらを向いた。
何時間も黙ったまま動かなかったクセに。
――ううん。
動かないで。
喋らないでくれたんだ。
それは、分かってる、けど――。
拓馬の濡れたような瞳が、何か言いたげにあたしの目を見つめてくる。
あたしはそこから逃げるように、空へと向き直した。
星が、綺麗。
東京の空では見られない、星の瞬き。
あれから何時間経ったのか。
拓馬に連れて来られたのは、あたしにとっては懐かしくとも何ともない、葉山で通っていた小学校の近くの、拓馬曰く「空き家」の庭だ。
山を背負った、古ぼけてペンキの剥げた白っぽい木の小さな平屋に、芝が敷かれた広い庭。
けれど、誰も住んでいないのに、ある程度の手入れはされているようだ。
現にこの庭も、芝は伸びているけれど、雑草もわりと少ない。
向こう側の花壇には、コスモスが所狭しと咲き乱れている。
全く放りっぱなしならば、もっと酷い状態だろう。
一体、ここはなんなの――?
こんなことに疑問を持って、考えられる余裕も出来た。
名も知らぬ大きな木が、風で葉を揺らした。
庭のフェンスの向こうにある空き地のススキが、一緒になってさわさわと音を奏でる。
あたしは、上半身を起こした。
そして、空を見上げたまま、長く息を吐いた。
「ちょっとは落ち着いたのか?」
隣で同じように身体を起こしながら、拓馬が訊いてきた。
「今更、そういう心配しないでくれる?
あのレストランに連れてったのも、こんな調査書を見せたのも、アンタでしょ?」
「ようやく、落ち着いたみたいだな」
拓馬は少しだけ口角を上げる。
……ホント、嫌なヤツ。
「どうすんの?」
「え……?」
「これから先。
それを考えてたんじゃねーの?」
――これから先。
いくら考えたって、答えなんか出ない。
ただ、知ってしまった、韮崎さんの過去と傷。
それがあまりにも大きすぎて。
あたしは、この先、どうしたらいいんだろう。
答えられずにいると、拓馬が言った。
「お前の存在は、韮崎さんにとって危険すぎるだろ?」
「あたしは――!」
「これはさ、韮崎さんの復讐劇なんだよ。
東和重工によって両親の命を奪われた彼が、その仇打ちとして、東和重工のトップを目指す――。
ある意味、見ものじゃねーか?
のし上がった彼が、破綻させるのか、それとも――」
「やめてよ!
さっきから、決めつけないで!」
「でも、オレならそうするね、きっと」
「韮崎さんは、アンタじゃないでしょっ!」
拓馬はこれ見よがしに、ふう、とのんびり溜め息を漏らした。
「だから言ってるだろ?
両親を殺したも同然の会社に、わざわざ入社する自体がおかしいだろ。
その上、それを指揮していたヤツの孫娘と結婚するなんて、どう考えても恨みからだろ?
副会長の孫娘に近づいて利用するなんて、東和重工も東和重工だけど、ヤツもヤツだよなぁ」
「利用って――!
そういうことがあったけど、でもそれとは関係なく、彼女とは偶然出会って、惹かれあったのかもしれないでしょっ」
「オマエは、その方が好都合なわけ?」
「――!」
「違うだろ?
どっちかって言うと、そうじゃないほうが嬉しいだろ?
韮崎さんが彼女と結婚するのは、恋愛感情からじゃないって、ただ利用してるだけだって、その方が」
「やめて!」
言われた通り、彼女に対して気持ちがないっていうのは、あたしにとっては嬉しいことなのかもしれない。
でも韮崎さんが、ただ利用するだけのために彼女と結婚するなんて、そんな人だと思いたくない。
それに、復讐だなんて――。
復讐――。
否定したいのに、そう思わされてしまう。
拓馬の言う韮崎さんのこと一つ一つが、彼をそうさせるのにあまりにも尤もな理由に思える。
彼女は知っているのだろうか、韮崎さんの過去を。
自分の祖父が、彼の両親を失くすきっかけになったということを。
昼間二人と会ったとき、少なくとも彼女のほうは、韮崎さんのことを信頼し愛しているように見えた。
全て知っていて――それでも、お互いに愛し合ってるの……?
それとも――……。
あたしは、地面の上の掌を握り締めた。
むしり取られた芝と冷えた土が、手の中でざらつく。
俯いて、それを見つめた。
黙ったままでいると、拓馬が、なぁ、と言った。
「韮崎さんはさ、オマエのことが好きだろ」
――え?
拓馬の方へ、顔を上げる。
「……何、言って――?」
「見てれば分かるさ。
そういう目をしてる」
そういう目?
韮崎さんが? あたしを?
拓馬は、いつものように冗談や嫌みを言っているような顔ではなかった。
「結婚を餌とした大事な時期に、オマエの存在は韮崎さんにとってマイナスにしかなんねーよ。
けど、なかなか切れずにいるのは好きだからだろ。
さっき、真っ先に追いかけたのも、そういうことだろ」
韮崎さんが、あたしを――。
そんな風に思えるようなことは、確かに今までに幾度かあった。
もしかして、って、期待もした。
さっき、苦しそうな顔をしていたのも、何か言いかけたのも――それで、なの……?
あのとき韮崎さんは、あたしに一体何を言いかけたの……?
「拓馬は、ホントにそう思ってるの?」
「思ってる、じゃなくて、そーだろ」
「じゃあ、そうだとしたら、いつから気付いてたの……?」
それ以上の答えを求めるように、あたしは拓馬の目の奥を覗き込んだ。
「最初からだよ」
抑揚なくそう言ったかと思うと、あたしの返事を待つことなく続けた。
冷たく、切り裂くように。
「でも、アイツは、オマエを選ばない」
「………」
「とにかく、もう、アイツはやめろ」
「………」
「ひとクセもふたクセもあるヤツなんだよ。
それに、好きだったら、余計に邪魔すんな」
「邪魔したいわけじゃないっ!
ただ好きだから――!」
「それがアイツにとっちゃ、邪魔になるだろ?
オマエとの関係がバレてみろよ。
幼いころから計画してきたことが、台無しになる。
それともまさか、韮崎さんを止めたいとか、変えられる、とか思ってるわけ?」
「そんなんじゃないっ!
だったら――韮崎さんが、あたしのことが好きだなんて、余計なことを言わないでよ!
じゃあ、どうやって諦めればいいの?
そんなの、あたし、分かんないっ。
だって、好きなんだもん!」
「オレだって、分かんねーよ!」
拓馬がいきり立ったように叫んだ。
あまりの勢いと大きさに、あたしは思わず黙り込んだ。
「なぁ、葉山。オレも、諦め方が分かんねーんだよ」
「……は?
諦め方、って――」
「分かんねーの?」
「だから、何が……?」
わけが分からず訝しく見ると、拓馬は口を噤み、目を伏せた。
様々な虫の声が、美しくも騒がしく重なり合っている。
拓馬は、今度は空を見上げ、そうしてからあたしへともう一度顔を向けた。
「オマエのことが、好きだから」
夜空に響いた言葉の意味を、上手く捉えることが出来なかった。
数秒して脳に伝達した時には一瞬聞き間違いかと思ったけれど、そうではないハッキリと聞こえた声に、後から怒りが込み上げてきた。
「……アンタって、本当に最低」
「最低、って、何だよ」
「最低だから最低って言ってるの!
そんなこと、あたしが信じると思ってるわけ?
あたしの反応見て楽しみたいだけでしょ!
こんなときにっ!」
とっくに止まっていたはずの涙が、再び溢れ出した。
堰を切ったように。
けれど、さっきの涙とは、全く違う苦しさのモノ。
あたしの苦しみなんて、コイツには理解なんて出来るわけがない――。
どれだけ、拓馬の前で泣きたくないと思っていたか。
弱さを見せたくないと思っていたか。
なのに、一度見せてしまったせいなのか、涙腺が外れるのは簡単で。
今、我慢の仕方も分からない。
あたしは拓馬から顔を叛け、両手でごしごしと涙を拭った。
考えてみれば、泣きっぱなしでメイクの落ちた顔は最悪なはず。
そんな顔をずっと晒していたなんて……またきっと、コイツは馬鹿にしてるんだ。
もう、どうでもいい。
勝手に何とでも、思えばいい。
「葉山」
拓馬が低い声で呼んだ。
あたしは、当然無視する。
「オイ」
「………」
「葉山、こっち向けよ」
「………」
「葉山っ!」
手首を掴まれて、強引に拓馬の方を向かされた。
そして、そのまま地面に押し倒される。
驚く暇もなかった。
拓馬の顔が、あたしの上で苦しそうに歪んだ。
「好きなんだよ、オマエが」
「―――」
「頼むから、もう、泣くなよ」
ゴメン、と、呟くように言って、拓馬の手も顔も身体も離れた。
なのに、あたしは起き上がることが出来なかった。
身体のどこにも力が入らない。
どういうことなのか、理解できない。
頭の中が、ホワイトアウトしたように、真っ白で。
「何で、こーなんだろな……」
隣でそう言って、大きな溜め息を吐き出す音がした。
「今日も、こんなつもりじゃなかった」
拓馬はもう一度、息を吐き出す。
「本当はずっと、謝りたいと、思ってたんだ」
こちらを向いた拓馬の瞳と、目が合う。
あたしは黙って拓馬を見つめ返した。
目が逸らせなかった。
拓馬の行動も考えも気持ちも、全く読めない。
ずっと、謝りたかったって……?
「小学生の頃、」と、拓馬はひとり語り始める。
「オマエってさ、同い年の中で、スゲエ大人びてたんだよな。
いかにも育ちが良くてさ、他のヤツとはちょっと違う、つーか。何かさ、スカしててさ。どこか、一段上から見下ろしてるような――気に食わないヤツだった。
それで、オレには一向に近づいてこない。
それがまた、めちゃめちゃ腹立った」
「だから――いじめた、って言うの……?」
「………」
「アンタにとって、気に食わない存在だったから……?」
理由は、それだけ?
たった、それだけ……?
あたしにトラウマを残した理由が。
そう思うと、拓馬が言った。
「好き、だったんだ。
気になって気になって、仕方なかった。
オマエから近づいてくるように、って。
目立つことは何でもしたつもりだった。こっちを見て欲しかった。
勉強も、スポーツも、苦手なことも、人並み外れて頑張った――つもりだった」
言葉を失った。
にわかには信じられなかった。
「だけど、それじゃあ駄目だったんだ。
いくら頑張っても、オマエにとってオレは、何の興味も惹くことが出来なかった。
そんなときに――春の運動会で、オレ、リレーの選手だったんだよ。
ウチのクラスは赤でさ、バトンが回ってきたときは、一番ビケで――オレが、ごぼう抜きした。三人、抜いた。おかげで、赤はそのまま一位でゴール。
応援席に戻ったら、皆がわっと集まってくる。凄い、速かった、カッコイイって。
オマエ、覚えてる?」
運動会?
リレー?
全く記憶にない。そんなこと。
あたしは、首を横に振った。
拓馬は、「だろーな」と言って、苦笑する。
「そのとき、皆の中にオマエの姿はなかった。
それで、オレ、探しに行ったんだ。校内を走って回った。
そしたらさ、オマエ、六年の男子と一緒にいた。アンカーだった柴田ってヤツ。水飲み場のトコで。
オレには見せたことない笑顔で、楽しそうに喋ってた。
……許せなかった」
六年の、柴田?
「……そんなの覚えてないし、知らないよ、その人自体」
「オマエにとっては、忘れるくらい何でもないことでも、オレにとっては忘れられない出来事だったんだよ」
「そんなこと、言われても」
「好きだったから許せなかった」
「………」
「どうにかこっちを向かせたくて、でもそれも出来なくて。
反応のないオマエを、どうにかしたかった。
意地悪なことをするしか出来なかった。
そうするしか、オマエと関わりが持てなかったんだ」
拓馬の言葉が、頭の中にガンガンと響く。
――そうする、しか?
あたしには、考えられない。
好きだから、いじめるなんて。
ムカついて許せない、なんて。
何でそんなに自分勝手なのよ。
大体――いつ頃からいじめられたのか、とか、その辺の記憶も定かじゃないのに。
……そういえば、夏休みよりは前――だった気がする、けど……運動会?
思い出そうとしても、紗がかかったようで――頭が痛い。
頭が痛い。
痛い。
痛い、痛い!
「……あたしはっ!」
身体を起こして、拓馬を睨みつけた。
「拓馬のせいで、昔の記憶が曖昧なんだよ!
あまりにも毎日辛くて、いいことなんてなくてっ、忘れたいことばっかりでっ!
時間が通り過ぎることに精一杯だったから、小学校の思い出なんてないんだよっ!
楽しかったことも、頑張ったことも、クラスメートも、忘れちゃったよっ!」
「ゴメン……」
「あたしがどれだけ傷付いてたかなんて、知らないでしょっ!?
アンタって、何でそんなに自分勝手で傲慢なのよっ!
ホントに信じらんないっ!」
「ゴメン……」
「あたしの時間を返してよっ!」
「ゴメン……」
「今謝ったって、遅いんだからっ!」
涙の大きな粒が、ぼたぼたと滴り落ちる。
あたしのこれまでの鬱積が溢れてしまった。
もう、止まらない。
時間も、決して戻ることはない。
取り返すことなどできない。
今になって謝られても、あたしに残っているのは、苦しみの記憶だけ。
何か言ってやらないと気が済まない。
なのに、昂る感情とは反対に、頭と言葉が追いついていかない。
唇を噛み、ずずっと鼻を啜ると、拓馬が「オレ、」と小さく言った。
「謝ろうと、告白しようと、したんだ」
「はあっ?」
「卒業式の日」
「卒業式?」
裏返った鼻声で訊き返すと、拓馬はこくりと頷いた。
「そしたら、オマエ、いなくなってた。
謝ることも、好きだっていうことも出来ずに、いなくなって――だから、ずっと後悔してた。
その後、普通に過ごして、普通に恋愛して――でも、ずっと心の奥の方には、そのことが引っ掛かってた。
本当に伝えたかったことが、何も伝えられなかったこと」
「――っ、何を今更っ!」
「いつか再会出来たら、謝りたいって思ってた」
「再会したって、昔と全然変わらなかったじゃないっ!
あたしに意地悪なことして楽しんでたでしょっ!」
「意地悪をしたつもりはない」
「よくも……そんな……!
散々、したくせに!
韮崎さんとのことだって、誤解させるようなことをしたり、邪魔したくせに!」
「アイツに、オマエを任せることなんて、どうしてもできなかった!
婚約者がいるような、あんな、卑怯なヤツに!」
あたしの中の反発の言葉が消えた。
拓馬は、見たこともないような苦しげな瞳を細め、あたしを見つめる。
「いつか会いたいって願って――オマエにようやく会えたらさ、スゲエ綺麗になってた」
酷く切ない声で言った拓馬に、身体がまたしても動かなくなった。
息が止まったように。
そして、呟くように、もう一度拓馬は言った。
「綺麗すぎるんだよ」
――綺麗に。
本当は、誰よりも拓馬に言わせたかった言葉。
ようやく見返すことの出来た、あたしにとって最高の賛辞。
なのに、戸惑う自分がいる。
まるで夢の中の言葉のように現実味はないのに、頭に響いて、胸の奥の方に浸透していく。
「葉山は――だけど、変わってなかった。
勝ち気でプライドが高くて、凛としてまっすぐだった。
やっぱりすぐにオマエに惹かれていった。
韮崎さんのために頑張るオマエを見てたら、ムカついて仕方ないのに――そういうところが、いいと思った」
拓馬の指が、まるで壊れ物を扱うように、そっとあたしの頬に触れてきた。
まっすぐな瞳が、射貫くようにあたしを見つめてくる。
「好きだ」
頬からなぞるように髪に触れて。
優しく梳いてくる指がゆっくりと後頭部に回った。
あたしはそのまま拓馬に引き寄せられ、抱き締められた。