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隣を高速で走り去る車の音が、いくつも通り過ぎていく。
拓馬の向こう側に赤い車が見えて、すぐに消えていった。
いつになく緊迫感を持った拓馬に、あたしは一笑してやった。
「何でアンタが韮崎さんのことを調べるの?
意味、分かんないし」
拓馬は、フロントガラスからあたしへと、ゆっくり視線を戻した。
そして、まるで仕返しのように今度はヤツが冷笑する。
「韮崎さんがオマエには、川崎じゃないところで生まれて育った、って言ったんだろ?
わざわざそんな嘘を吐く必要があるのか――。
否、だろ?
何かあるのかな、って、初めは興味本位。
知り合いに、信用出来る探偵がいるからさ」
興味本位?
「最っ低!」
「東和重工副会長の孫の婚約者だぜ?
ブラックな過去とかあったら、面白いなーとか」
「馬っ鹿じゃないっ!?」
「知りたくないの?」
「はあっ!?」
「韮崎さんの、意外な過去」
「何を言って――」
「山梨」
ドキッとした。
山梨――韮崎さんが、生まれて育ったと言っていた場所。
それを拓馬が知っているということは……。
あたしの表情を読み取って、「だろ?」と、口角を上げて見せる。
拓馬は、バックミラーを見ながら再びアクセルを踏み込んだ。
エンジンが唸り、車は急速に加速する。
それきり静かになった車内は、『中を見ろ』と、無言の重圧が押し寄せる。
けれど、封筒を持つ手がなかなか動かない。
そんなプライベートなものを見ても良いのかという戸惑いと、知ってしまう怖さがあったから。
煩悶していると、拓馬はぽつんと言った。
「見ろよ」
「………」
「オマエには、知る権利があるだろ。
いや、知るべきだよ」
知る権利?
そんなもの、あたしにあるの?
だけど、知るべきって……。
あたしは、ごくりと固唾を飲みこむと、もう一度封筒に目を落とす。
そろそろと、興信所の名前の入ったそこから中身を取り出した。
耳障りな紙の音の後に出てきたのは、左上をクリップで留められた数枚のコピー用紙だった。
真っ先に目に飛び込んできたのは、彼の名前。
――『韮崎 光(にらさき こう)に関する調査報告書』
間違いなく、彼の調書だ。
調査対象者氏名も、彼の名前。
現住所や勤務先までもが書いてある。
生年月日、血液型――恋人同士だったら知っているであろう当たり前の彼の情報は、それさえもあたしにとっては初めて目にするもので。
逆に、本人以外のどこからこんなことを入手するのかとも、疑問に思った。
そして、目を疑うような名前が、その次のページにあった。
――鈴木 光
スズキ コウ?
光――名字の違う、彼の名前。
心臓が執拗に動き出す。
あたしは、それでも先を急ぐ。
鈴木 明(すずき あきら)――それが彼の父親の名前で、母、奈津子(なつこ)との間に長男として、山梨県南巨摩郡で生まれる。
山に囲まれた自然豊かな土地で、小さな工場を営む両親の元、彼は育った。
その工場――鈴木製作所は、東和重工の産業機械部門の下請けで、精機製品に関する部品を作っていた。
特殊精密ねじ、中空部品等の小さく技術のいるもの――だそうだ。
彼が10歳のときに、東和重工は海外へ新たに直営工場を作り、一部の産業機械の部品はコストの安い海外生産に切り替わった。
それによりラインを外され、生産の殆どを東和重工に依存していた鈴木製作所はあえなく倒産。
その数日後、父親は、山道の下り坂で、ハンドル操作を誤って崖下に落ち、死亡。
母親は、その二ヶ月後――風邪をこじらせ、病院に行く道中で倒れ、そのまま死亡。
その後、川崎市にいる母方の親戚――韮崎 謙三(にらさき けんぞう)氏の養子となる。
調書は、深い追求のない、思っていたよりもずっと簡素なものだった。
心臓がぎりぎりと痛み息苦しくなって、あたしはゆっくりと息を吐き出した。
10歳のときに、家の工場が倒産した挙げ句、両親を立て続けに亡くしたなんて……。
そんなことがあったなんて、想像もつかなかった。
幼い彼にとって、どれほど傷付き喪失感があったのか……。
湧き上がる、大きな悲痛。
けれど同時に、どこか違和感も持った。
東和重工が、こんなにも大きく関わってるなんて……。
韮崎さんが東和重工を恨んでも仕方のないことなのに――じゃあどうして、東和重工で働こうと思ったんだろう?
いつの間にか狩場の分岐を過ぎ、六ツ川料金所に差しかかる。
紫に白文字の看板が掲げられたETC専用料金レーンに入り、赤と白の縞のバーがぱっと上がった。
車は止まることなく進む。
ここからは横浜横須賀道路で、葉山まではあっと言う間だ。
けれどもう、文句を言う余裕なんてなかった。
緩められていたスピードが再度上がり出すと、拓馬は痺れを切らしたように言った。
「オマエさ、その調査書を見て、どう思ってんの?」
「どう、って……」
「資料が少なくて、短期間で調べるのは大変だったらしい。
色々、怪しいことが多いからな」
「何が言いたいの……?」
「韮崎さんが、何で東和重工で働いてるのかって。
普通に考えれば、わざわざ東和重工を選んで働くわけがないだろ?」
「それは、あたしも思うけど……」
拓馬は目を細めると、ドリンクホルダーから缶コーヒーを手にした。
それを口にしながら、まるで大したことでもなさそうに言った。
「韮崎さんの両親は、東和重工に殺されたようなものだからな」
「ちょっと――!
勝手に決め付けないで!
確かに、倒産には東和重工が関わってるけど、お父さんは事故死だし、お母さんだって、」
「何だよ。それを読んだら、普通はそう思ってもおかしくないだろ?
少なくとも、東和重工に切られなかったら、工場は潰れてなかった。
そしたらきっと、そんな事故は起こってなかった」
「だからって――」
それ以上の言葉が詰まる。
確かに、あたしもそう思った。
だけど……東和重工が直接的に事故に関わったわけじゃない。
簡単に、そんな風には言えない。
拓馬は、缶コーヒーを元の場所に戻しながら言った。
「言っただろ。
知り合いの信用出来るヤツに頼んだって。
そこには書かれていない重要なこともあるんだよ」
ちらりとあたしを一瞥して、フロントガラスに目を戻す。
あたしは、目を見開いて拓馬の横顔を見た。
「書かれていない、重要なこと……?」
「工場の倒産前に、父親は東和重工とかけ合うために何度も東京に足を運んでいたけど、門前払いだったそうだ。簡単に、切り捨てられた。
小さな工場って言っても、従業員は数人いるわけだし。倒産、なんて、自分たちだけの問題じゃあないしな。違う取引先を見つけるために駆け回ったけど、そうそう上手くはいかなかった。
死力を尽くしても防げなかった倒産に、従業員からのバッシングは酷いものだったそうだ。働く場所も少ないからな。
事故死で処理されてるけど、実際は自殺じゃないか、って言われてる。ハンドルを切った痕跡はあったけど、ブレーキは踏んでなかったらしい。
その後すぐに、母親はショックと心労で、風邪をこじらせた。彼女も、資金繰りに毎日大変だったみたいだ。人通りない山道で倒れて、誰かに気付かれることも助けてもらうこともなく、そこで亡くなった。
――これも、精神的な問題じゃないか、ってね。近所の人がさ、おかしかったって言ってるんだよ」
胸のあたりが苦しくて、あたしは目を瞑った。
拓馬の言っていることは、頭の中に入って理解は出来ているのに、酷く非現実で重く、上手く整理がつかない感じだ。
まるで、テレビドラマや小説のあらすじを聞いているようで――。
けれどこれは、韮崎さんの身の回りに、現実に起きたこと。
「まぁ、さ」と、拓馬が言った。
「東和重工としては、ラッキーだったわけだ。
責任問題として訴えてくる人間が減ったんだから」
「減った、って――! そんな言い方しないでよ!
それに、親戚とか――工場で働いていた従業員とかは……」
「東和重工からしたら、そういう見かただろ。
親戚は、ほとんどいないみたいだよ。
彼を引き取った韮崎家は母親の弟で、近い親戚はその人くらいだそうだ。
それも、ちょっといわくつきだろ? だから、他の親戚も近づかないんだよ。
元従業員たちは、東和重工から就職先の斡旋と見舞金をもらって、だんまり。
ま、結局は、自分たちの保身の方が大事だからな。
だからそれ以上の大きな問題にはならなかったんだよ。直接、手を下したわけでもないし。
残ったのは、まだ何の力もない小学生の息子ひとり」
「だって……」
言葉が詰まって、一度目を閉じ、息を吸い込む。
何の力もない、小学生の、息子ひとり――。
たった10歳子供の影響力や力が、どのくらい小さいのかは、あたしもよく知っている。
そして、保護者の庇護の元に生活が成り立ち、ひとりでは到底生きていけないことも。
逃げ出したくても、そこから逃げ出すことなど出来ないことも。
あたしは長く息を吐き出しながら、瞼をゆっくりと開いた。
「韮崎さんは、東和重工を恨んでるの?
あれだけ頑張ってるのに――東和重工のトップに立ちたいって」
今の韮崎さんを見ていたら、そんな感情を抱いているようにはとても思えない。
前だけを向き、常に会社のことを考えて。
仕事が好き、って言っていたのに。
あたしにも、「自分の会社を好きになれるように、誇れるようにしてやる」って、約束したのに……。
拓馬は首をすくめて見せた。
「恨むだろ、普通。
オレなら恨むね」
「………」
「工場を潰されて。両親を亡くして。近い親戚は殆どいなくて、遠い親戚は、見ないふり。
10歳の子供なんて育てらんねぇ、引き取れねぇ、って、押しつけ合ってるのを間近で見せつけられて。
韮崎家で引き取られるまで数週間、学校の担任が彼を預かってたんだ。
明るくて饒舌だった彼は、塞ぎ込んで、「アイツらが悪いんだ、絶対に許さない」って――。
ああ、アイツらって、もちろん東和重工のことな。
まぁ、そんな風に言ってたってさ」
「……そんなことも……」
あったんだ、と、最後まで言えなくて、途中で声は掠れた。
大きな心の傷を負った幼い子供を、薄くても血の繋がった者たちが、どうして更に痛めつけるようなことができるのか――何て自分本位な大人たちなんだろう。
勿論、各家庭の事情はあるかもしれないけれど、それでも彼の傷を埋めて包む努力はしてあげられなかったのか。
どれだけ深く傷ついたのか、あたしには計り知れない。
その発端が東和重工なのだとしたら、許せないと思うのも当然だ。
「そのセンセーって、実家が宮城だとかで、今はとっくに定年してそっちに帰っちゃったとかで、貴重なそのお話を聞き出すのが大変だったらしいよ?
とにかく、『絶対に許さない』って、言ってたし、当時は確実に恨んでたわけだ。
それに、東和重工が原因だって思ってたんだよな。
まぁ、許せないよなぁ、一生」
拓馬の言い方は、いちいちひとつの方向に向かっているようで引っ掛かる。
あたしは横目で睨んだ。
「……だから、何が言いたいのよ……」
「これは復讐だろ、フクシュウ」
「……憶測で、勝手なことを言わないで」
そう否定しつつも、あたしの中で、同じ考えが膨らんできてしまう。
「憶測?」と、拓馬はフッと嘲笑した。
「もうひとつ、そこには書いてない重要なことがある」
「な、に……?」
「海外生産に踏みきったのも、鈴木の工場を切ったのも、当時指揮をとってたのは、秋山 修一郎(あきやま しゅういちろう)だったってこと」
「えっ……」
拓馬の顔を見つめると、彼は少し間を置いてから口の端を歪めた。
「秋山 修一郎――東和重工の現副会長。
婚約者の爺さんだよ」