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ぼやけた世界が広がっていて、よく見えない。
涙のせいでコンタクトがずれて、目も痛い。
どこをどう歩いているのかも半分は分からなくて。
空中でも歩いているように足元が浮いて、歩いている感覚さえ薄い。
いきなり何もないところに引き摺りこまれそうに不安定だ。
ようやく辿りついた出口で、突然身体に衝撃を受けた。
上下黒の服を着た人――店員と派手にぶつかったと気が付いたのは、跳ね飛ばされて足元がよろけたから。
即時反応したその店員に腕を掴まれ支えてもらったおかげで、どうにか転ばなくて済んだけれど、急に身体に感覚が戻ったように、足首に痛烈な痛みが走った。
「……っつ!」
「お客様、大丈夫ですか!?」
思い切り足首を捻ったあたしに、心配そうな声色が、「靴が」と続いて、今の衝撃で脱げた右足のパンプスを拾い上げようとする。
そんな靴、いらない!
綺麗なヒールなんて、馬鹿馬鹿しい!
店員が呼び止めるのも聞かず、あたしはガラスドアを押し開けた。
とにかく、外に出たかった。
韮崎さんと、彼女のいないところに。
頭の中は、ぐちゃぐちゃだ。
どうしたいのかもよく分からずに、あたしは片方の靴がないまま闇雲に人混みを歩き出した。
今捻ったばかりの足は、一足前へ出すごとに脈打つように痛みが走る。
痛い。
痛い、痛い!
最低っ! 最悪っ!
もう、ヤダ!
片方しか靴を履いていないせいで、歩きにくい。
9cmもヒールがあるせいで、余計に。
どうせなら、もう片方も脱いで捨ててやる!
と――思った途端、後ろから急に左腕を取られた。
また足元がふらつく。
けれど、今度も転ばなかった。
腕を取ったその人の身体に当たって、そのまま肩を支えられる。
瞬間、ふわっと鼻を掠めたのは――。
エゴイストプラチナムだ。
胸が、ぎゅうっと締め付けられる。
「何で……?」
韮崎さんを肩越しに見上げた。
彼はあたしから目を逸らし、唇を横に引き結んだ。
答えられないと言うように。
どうしてそんなに苦しそうな顔をするの?
だったら――。
「追いかけてなんて、来ないで下さい……っ」
韮崎さんの手を払ってまた歩き出そうと、腕を上から下に振った。
なのに、掴まれた腕は離れない。
がっちりと、握られたまま。
「ヤダっ!」
あたしはそのまま前を向き直し、歩き出す。
けれど、掴まれたままの腕を、後ろからぐっと引っ張られた。
「瑞穂!」
切れそうな声で、韮崎さんがあたしを呼んだ。
あたしは振り向き、韮崎さんに向かって言い放つ。
「どうしてよ!」
掴まれていた腕から、彼の手が離れていった。
顔を歪めながら。
けれど韮崎さんは、やっぱり何も答えないまま、身体を屈めた。
落としてきたはずのあたしの靴の片方が彼の右手の中にあって、黒くなった爪先にと差し出される。
跪く韮崎さんに、あたしはその汚れた片足を地面から少し上げた。
踵に彼の左手が添えられて、その瞬間、また足首がズキッと痛んだ。
丁寧に、ゆっくりと、韮崎さんの手によって、靴が履かされる。
女王様と僕のような図に、周囲の視線が刺さってくるのを感じる。
落としてきた片方の靴は――あたしの足にピッタリとはまった。
シンデレラのワンシーンが、頭を過った。
でも――あたしはシンデレラなんかじゃない。
シンデレラのように、王子様と結婚も出来なければ、幸せにもなれない。
韮崎さんは、屈んだまま顔を上げた。
そして、まっすぐにあたしの瞳を見つめてきた。眉を寄せて。
だから、どうしてそんなに苦しそうな顔をするの――?
じゃあ、何か言ってよ!
何でもいい。
いいわけでもいい。
それでも、何か言って!
あたしも、目を逸らさずに見つめ返す。
けれど、どうにもせり上がってくる涙が、次々に零れ落ちる。
それでも奥歯を噛みしめ、彼の目を見据える。
「瑞穂」
「………」
「俺は――」
「光っ!」
彼が言いかけた途端、どこからか大きな高い声がそれを遮った。
ドキッとした。
韮崎さんの、名前。
すぐに、息を切らせた彼女が目の前に現れた。
「葉山さ……んっ、大丈夫ですかっ!?」
心配そうな顔で、真正面からあたしを見てくる。
「涙が……」
「……あ」
「私……いきなりずうずうしく隣に座って、べらべらと喋るなんて……不快な思い、させてしまったわよね、ごめんなさい!」
ぺこんと、彼女は勢いよくあたしに向かって頭を下げた。
そして次は、咎めるように韮崎さんを見下ろす。
「光――駄目じゃないっ!
いくら大事な部下だからって、追いかけるのはあなたの役目じゃないでしょう?」
そこで立ち上がった韮崎さんに、今度は「謝って」と、背中を押しながら続ける。
「佐藤さんは、会計を済ませてくるって言ってたから、すぐに来ると思いますから。
店員には私が言っておくから、佐藤さんが早く追いかけて下さいって言ったんですけど、そんなことくらいで壊れる仲じゃないからって、言われてしまって……私が先に来たんです。
光――彼が先に来ちゃったから、佐藤さんにも気を遣わせてしまったんだわ……」
呆気に取られてしまった。
彼女はこんな状況を目の当たりにしても、あたしたちの間柄を微塵も疑っていないらしい。
あたしが泣いて席を立ったあとを誰より先に追いかけてきたのは、韮崎さんで――。
その上、靴を履かせているところも、きっと見たはずなのに。
何も言えずにいるあたしに、彼女はまた頭を下げた。
「本当に、嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。
ただ、彼、いつもぶすっとしてるけど本当は凄く人思いなの。
だから、こんな風に先に追いかけてきたこと、悪く思わないで下さいね」
何で彼女が謝るの?
韮崎さんに代わって――。
ぎりっと、胸が捩れる。
――違う。疑ってるとか、そういうのじゃない。
韮崎さんを、どこまでも信じてる。
だからこそ、言える言葉。
彼女が謝るのも、韮崎さんの一番だから。
それが彼女にとっての、揺るぎない位置だから。
あたしは――。
韮崎さんにとってのあたしは、ただの、愛人。
「謝らないでください。あたしが悪いんです」
手で涙を拭う。
「あたし――実は、さっき彼とケンカしたんです。
だから、平気な顔をして話をする彼に腹が立って――仲の良さそうなお二人に嫉妬して――どうにもならないくらい、哀しくなっちゃって。
それに、佐藤の言う通り、あたし達、それくらいで壊れる仲じゃないです。
それなのに、こんなことをしたあたしは、ただ子供でわがままなだけです。
だから、悠里さんも韮崎さんも、悪いところなんて何もないんですよ。
せっかくの食事も雰囲気も、めちゃくちゃにしてしまって、本当に申し訳ありません」
あたしは彼女に頭を下げた。
正直、また逃げ出したかった。
韮崎さんと彼女の絆を目の当たりにして、平気な顔なんて出来るわけがないのに。
でももう、こんな風に心配して謝ってくる彼女に対して、何も言わずに逃げるわけにもいかない。
下げた頭は、なかなか上げられない。
色んな気持ちが混ざり合って、またじわじわと涙が浮かんでくるのを、ひたすら奥歯を強く噛んで堪える。
彼女も、何て声をかけていいのか、悩んでいるようだった。
「葉山!」
拓馬の声がこの場に割り込んだ。
来ることは分かっていたけれど、またしてもこういうタイミングでヤツは現れる。
あたしのすぐ横に拓馬が駆け寄る気配がして、下を向いたままの頭のてっぺんに掌がポンと乗る。
あたしと一緒に、ヤツの頭も下がったのが視線の端に映った。
「韮崎さん、悠里さん、せっかくのお食事をお邪魔してしまって、申し訳ありません」
「いえ……私たちは、全然大丈夫ですから」
「本当に、申し訳ありません」
拓馬が隣で丁寧に言った。
本当にすまなそうな、謝罪の声で。
アンタが――謝らないでよ。
本当は恋人でもなんでもないのに!
彼女と同じように、恋人の代わりになんて――!
「お気になさらないで下さい。
あの店は私たちには行きつけの店ですし、まだ、料理も来ていなかったから」
「でも――」
「このあと、祖父と会う予定なので、どうせなら祖父にご馳走させちゃうわ。
このまま早く行ったほうが、祖父は嬉しいだろうし」
だから、ね? と、彼女は気遣うように言った。
そこで優しく微笑んだことが、想像できるような声で。
拓馬に引っ張られながらあの場を後にして、そのまま車に乗せられた。
抵抗する気もなかった。
車がどこに向かっているのか、とか。
これから何をするのか、とか。
そんなのもう、どうでも良かった。
ただ、汐留から首都高に乗り、神奈川方面へと下っているのは分かる。
さっき、レインボーブリッジが見えた。
拓馬は前を向き、何も言わずに高速道路の上で車を走らせている。
横羽線――羽田空港の駐車場がサイドガラスの向こう側で小さくなっていく。
飛び立った飛行機も、空の上の方に見えた。
ぐんぐん後ろに流れていく景色を、ぼんやりと見つめる。
こうしていたほうが、何も感じなくて済むから。
一つ思い出すと、勝手に次から次へと負の感情が湧きあがってきて、どうにも止まらなくなってしまうから。
ああ……また……。
油断すると、さっきの光景が去来して、涙が滲んでくる。
ぎゅっと強く瞼を閉じて、それを振り払う。
どうにか堪えて瞼を開け、また窓の向こうを見ると、緑色に白文字の看板が目に入ってハッとした。
――横浜横須賀道路。
まさか……。
「どこ、行く気……?」
あたしの質問に、拓馬は飄々としている。
「何を今更」
「どこよっ?」
「どこって、分かってるから訊いてきてるんだろ?」
「やめてよっ!」
大声を上げたのに、拓馬は前を向いたまま、全く言い分を聞こうとせずに運転を続ける。
「やめてって言ってるでしょっ!
行きたくないっ!」
「オマエの、生まれた場所だろ?」
「嫌だって、言ってるじゃんっ!」
「嫌って言われても、行くさ」
葉山に、と、拓馬が言った。
韮崎さんと、今日行くはずだった場所。
彼とだから、一緒に行きたくて――。
ただでさえ行きたくない場所なのに、今のこの精神状態で行くなんてありえない。
「どうしてよ……」
拓馬はどこまで知ってるの?
どうしてこんなことをするの?
「何で、あたしの嫌がることばっかりするの……?」
拓馬は黙っている。
ああ、そっか……。
コレも、ヤツのお楽しみのひとつなのか。
――最低、だ。
ホントに、コイツは……。
「気が、済んだ……?」
「………」
「アンタの望み通りでしょっ?
あたしの泣いてる顔が見れて、気が済んだでしょっ?」
キキーっと、耳を劈くようなブレーキ音と共に、ガクンと身体が前に振られた。
シートベルトが首のあたりから胸に食い込んで、咄嗟に目を瞑った。
車の外で、怒りを含んだクラクションの音が、三つも鳴った。
「何すんのっ!?
危ないじゃんっ!」
「もう、アイツは諦めろ!」
形相を変えた拓馬の声が、狭い車内に響いた。
「何なのよっ! もうっ!
ほっといてって、いつも言ってるでしょっ!」
「彼女に会って、分かっただろっ!?
オマエじゃ、駄目なんだよ!」
「知ってたのっ?」
「は?」
「行きつけの店って――あの二人が来ること、知ってたわけっ?
それであたしを連れてったのっ!?」
「そこまでオレが知るわけねーだろ!」
バサッと、乱暴に膝の上に大きな封筒が載せられた。
「何なのよ、もうっ!」
封筒から顔を上げて、拓馬を睨んだ。
拓馬は何かを堪えるような顔であたしを見ると、ひとつ嘆息した。
「オマエが、韮崎さんの家は川崎じゃないって言ってたのを聞いて――何かあると、思ってたんだ」
「え……?」
「調べたんだ。韮崎さんのこと」
「調べたって……何を――」
封筒に目を落とすと、下の方にある文字に目が留まる。
――『荒木興信所』
コウシンジョ?
「中、見てみれば分かるさ」
拓馬はハンドルに寄り掛かり、あたしではなく前を見つめながら言った。