39

何か、叫んでる。
開かないガラスドアの向こう側で。
アイツが――まるで、懇願するように。

あたしは動けないままでいた。
だって、どうしていいかなんて分からなかった。
拓馬のこんな顔――初めて見たし。


「どうしたんだよ!」


まるで怒鳴るような声が、ドアが左右に開かれた瞬間、広いホールに上がった。
たまたまタイミング良く帰ってきたマンションの住人がロックを解除したのと同時に、拓馬はあたしの元に駆け寄ってきた。
住人は、訝しげにこちらを見ながら、拓馬の後に続いてこちらに歩いてくる。
あたしじゃなくて、エレベーターに向かって。

動かなかったはずの身体は、ロックを解除されたように動いて、あたしは立ち上がった。


「何でもない。
ただの立ちくらみっ!」


拓馬の腕を取り、外に向かって引っ張った。
ヤツは面喰らったように目を丸め、なされるがまま今通ったばかりの自動ドアをあたしと一緒に潜った。

ガラスの向こう側で、住人は様子を窺うようにこちらを見てくる。

あたしは、その人から見えない場所まで拓馬を連れて行くと、そこで手を放した。


「何で来るのっ!?」

「何でって、来るって言ったろ!」

「あの人、絶対、変に思ってるから!」

「どーせ、知らねぇヤツだろ?
いいじゃねーか、どう思われようが!」

「よくないっ!」

「つーか、オマエ、平気なのかよ?」


怒鳴り声がふいに心配そうな声に変わった。
それと同時に、二つの目がまっすぐに見つめてきて、ドキッとした。


急に、何でこんな顔するのよ……。


あたしは思わず瞳を逸らした。


「ただの立ちくらみって、言ったでしょ!
とにかく、帰って!
あたし、部屋に戻るんだからっ!」

「部屋に戻る、って、荷物持ってるじゃん?」

「え、あ――これは、今帰ってきたばっかりだからっ」

「ああ、そっか。
ドタキャンされたのか」

「何言って……」

「オマエ、エレベーターに背を向けてた。
降りたばっかりだったろ?
あー、そーゆーわけか、ふぅん」

「………」

「しゃれこんじゃって、さ」


見透かした顔が、ニヤっと口元を緩める。

だったら、もう、開き直ってやる!


「……そうよ、悪い?」

「じゃあ、それこそちょうどいいじゃねーか。
行くぞ」


荷物を持った方の腕を掴まれ、ぐいぐいと引っ張られる。


「ちょ……っ! 待ってよ! どこ行く気っ!?」

「飯でも食いに。
腹減った」

「はぁっ!?」

「暇だろ?」

「そういう問題じゃ、ないっ!」

「約束しただろー。何でも言うこと聞く約束」

「まだ、仕事終わってないじゃない!
それは成功報酬でしょっ!?」

「先払いに決まってんだろ。
じゃ、約束、やんなくていい?」

「……っ!」


いつもコイツは、弱い所を突いてくる。
ホントにムカつく男!

……でも。
どうせ、ひとりで家にいたって、何もすることなんてない。何かをする気力も。
だったら――。


「超高級フレンチ以外、受け付けないからね!」


半分嫌がらせで言ってやったのに、拓馬は待ってましたと言わんばかりにニッと笑った。


「オレを誰だと思ってんの?」


















拓馬の車に乗せられて連れて行かれたのは、銀座のフランス料理店だった。
もちろん、あたしでも知っている有名店だ。
拓馬が名前を告げると、店員から「お待ちしておりました」と返ってきた。
何だか、してやられた感じ。
最初から、予約してたんじゃん。


ランチなのに15000円もするコース料理は、見た目も味も素晴らしいものだった。
やけ食いの料理が、こんな高級な料理っていうのは、もったいない気はする。
美味しいとは感じるけれど、それを楽しんで堪能するほどの余裕まではなかったから。

拓馬も、ほとんど黙ってもくもくと食べているし。
あたしも黙って口に運んでいるだけ。

アミューズ・ブッシュ。
オードブルは冷・温の二種。
メインの魚料理。
口直しのグラニテ。
そして、メインの肉料理。

お値段なりに、ボリュームも凄い。


「……オマエ、結構食うな」


あたしよりも先にメインディッシュを食べ終えていた拓馬は、こんな高級店でお行儀悪くテーブルに両肘をつけ、あたしをまじまじと観察するように見る。


「……美味しいし。
残したら、もったいないじゃん」

「……つーか、食欲あるな、って意味」

「悪かったわね」

「や。良かったな、とか思って」


随分と優しい顔つきで言う。

だって、こんな顔、あたしに見せるのなんて、初めてじゃないの?

――調子が狂う。

ホントに、一体何を考えてるわけ?


空いたお皿が下げられると、拓馬は相変わらずあたしを見ながら言った。


「ココの店、プレデセールも出んの。
それだけでも十分なくらいの。
で、メインのデセールもめっちゃウマイ。
そっちは、自分で好きなのを選べるんだ。
何でも、パティシエがパリの三つ星レストラン出身で、有名らしいよ」

「……ふぅん。そうなんだ」

「何だよ、嬉しくねーの?
反応悪ぃなぁ」

「嬉しくねーの、って言われても……。
まぁ、そう言われると、楽しみだけど」

「それ食って、ちっとは縦皺減らせ。
さっきから、ココにずーっとある」


消えなくなるぞ、と、拓馬は自分の眉間を指差した。
あたしは、左手で自分の同じ場所を覆った。


「ほっといて」


そう答えたところで、噂のプレデセールが運ばれてきた。

次々とテーブルの上に、小菓子たちが並べられる。

銀のトレーに載ったカラフルなマカロン。
フィナンシェは、抹茶とチョコとプレーンの三種。
真っ赤ないちごの載ったプチフール。
エッグスタンドのような陶器に入ったクレームブリュレは、表面のカラメルがカリカリに焦げていて甘く香ばしい香りを放つ。
それに、まるで装飾品のような繊細な飴細工。


「……凄い。
こんなにあるのに、プレ、なの?」


抑えた色調が、かえって上品で。
想像をはるかに超えた量と美しさに、感動して見入ってしまう。

顔を上げると、拓馬はニヤニヤとしていた。


「な、何よ……」

「いや……別に。
女って、甘くてウマイものに弱いよな。
つか、機嫌直った?」

「……別にっ」

「まぁ、いいけど」


あたしがあまりにもヤツの中の想像通りの反応だったのか、今度はくつくつと笑い出す。


「食ったら?」


まるで我慢できない子供に勧めるように、手振りつきであたしに言った。


言われなくても食べるわよっ。


こういうとき、最初に口にするのは、軽いモノなんだろうけど。
あたしは、一番美味しそうに見えたクレームブリュレに手を出した。

カラメリゼしてある表面は、パリッと小気味良い音を立て砕け、なめらかなカスタードクリームがスプーンにすくわれる。

ひとくち。
カラメルとクリームが一体となり、舌の上に絶妙な味わいが広がった。


……美味しい。


言葉に出さなくても表情で伝わったらしく、拓馬はまたしてもおかしそうに微笑んだ。


「スゲー美味そうだな?」

「だって、めちゃめちゃ美味しい……。
何、コレ。凄い……」

「メインより、こっちかよ?」

「さっき、女って甘くてウマイものに弱いって言ったの、自分じゃん」

「つーか、まぁ、そっちのがチープでいいな」

「女はね、美味しい料理をいっくら食べても、デザートは別格なの!」


言い返して、あたしは次々と口に運んだ。
本当に、美味しい。
絶品。

拓馬は、もくもくと食べるあたしを、ただ見ていた。
そのうちに、


「そんなに美味いなら、オレの分も食えば?」


と、自分のクレームブリュレをあたしに差し出してくる。


「貰う」


あたしは遠慮なくその器を戴いた。
だって、これならいくらだって入りそう。


「スゲー食欲。
まだこのあと、デセールがくるんだぞ?」

「自分で食えばって言ったくせに」

「やけ食いか」

「悪い?」

「太るぞ」

「太りません」

「そんなに美味いの?」

「美味い」

「じゃ、やっぱ返して」

「ヤダよ」


そう言ったのにもかかわらず、拓馬はあたしの手の中から、食べかけのほうの器を奪い取った。


「ちょっと……っ!」


思わず、手を伸ばしてしまった。
拓馬の手に触れたところで、ココが高級店だということを思い出す。


もー! 最悪っ!


手を引っ込めて睨むと、ヤツが「あ」と声を上げた。
あたしの向こう側を、拓馬は目を大きく開いて驚いたように見ている。


何?


振り向くと、あたしは固まってしまった。

そこには、韮崎さんがいて。
そして、その一歩後ろには女性がいて――。
韮崎さんと、目が合った。


何で……?
どうして、ココに?
仕事じゃなかったの?


韮崎さんも驚いたように瞬きをし、あたしを見ている。

言葉さえ何も出ないでいると、拓馬がガタッと音を立て椅子から立ち上がり、いつもとなんら変わらない様子で、にっこりと笑った。


「韮崎さん、奇遇ですね!
こんなところでお会いするなんて」


韮崎さんはあたしから視線を外し、拓馬に向かって微笑み返した。


「そうですね」


それに、隣にいるのは……?


拓馬はにっこりと微笑んで、あたしが気になっている韮崎さんの隣の女性を見た。
肩まであるストレートの黒髪の、大人しそうで小柄なひと。


「私、M&Sという会社の佐藤と申します。
今、韮崎さんには大変お世話になっていて……」

「あっ……! 存じてます!」

と、彼女は頭を下げた。

「こちらこそ、ご挨拶が遅れました。
秋山 悠里です」


――アキヤマ ユウリ?

ユウリ……忘れられない名前。
韮崎さんの、婚約者だ。

このひとが……?


膝の上の手が、震えている。
頭の中が、白く濁っていく。
思考が上手く、回らない。


「葉山」と、拓馬の声が呼んだ。
そして、手招きされる。


――あっ。


自分が挨拶もしていないことに今更気がついて、慌てて立ち上がり、頭を下げた。


「葉山 瑞穂です。
あの、販売促進部で……韮崎主任には、お世話になっています」


どうやって挨拶していいかも、分からなかった。
これでいいのかも。


あたしとの約束をドタキャンして――仕事だって言っていたのに、婚約者と一緒にいるなんて……。

酷いよ。
どうして?
あたしとの約束より、彼女の方が大事だから?

だけど、嘘を吐くなんて……。
そう言った方がいいって――それは、そうかもしれないけど。
でも……。


それまで黙って様子を窺っていたウエイターが一歩前へ出て、よりによって余計な機転を利かせた。

「よろしければ、お席を隣になさいますか?」

と。


冗談じゃない!

けれど、断る間もなく――と、言うか、あたしが喋れないのを良いことに、拓馬は彼女に言った。


「私たちは、あとはデザートだけなんですけど。良かったら」

「お邪魔じゃないですか?」

「まさか」


拓馬の笑顔に、彼女は韮崎さんを見上げた。
ヒールを履いていても160cmにも満たないであろう小柄な彼女が、ねだるように上目遣いで首を傾げた。


「せっかくだから、お隣にしてもらわない?」


韮崎さんは、返答に迷ったように眉を寄せてから数秒後、答えた。


「ご迷惑じゃなければ」


嘘でしょ!
信じらんない!
それは、彼女の頼みだから!?


あたしの気持ちなんて関係なく、「どうぞ」と、ウエイターが隣の席の椅子を引いた。
彼女はそこに、遠慮なく「ありがとう」と座った。

もう、仕方なく、自分も席に着く。
ひと空間だけ離れた彼女の、隣。


……ホントに最悪。
どうしてこうなるの……。


溜め息を噛み殺し、テーブルの下で拳をぎゅっと握った。


「葉山さん」


彼女の高い声が、あたしを呼んだ。
パッと顔を上げ、そちらを向く。


「えっ、あ、はい」

「ごめんなさい。
やっぱりご迷惑だったかしら」

「あ、いえ」


あたしは、彼女に向けて笑顔を作り、言った。


「全然。
韮崎さんの婚約者の方にお会い出来るなんて、光栄です」


何を言ってるんだろうと思う。
それでも、半分は本心。
どんな人が韮崎さんの婚約者なのかって――。

見たくないのに、見たかった。
知りたくないのに、知りたかった。

けれど、あたしの中の想像とは全く違った。
ハッキリ言って、お世辞にも綺麗とは言えない。

笑うと更に細くなる目に、少し上向きの鼻。
ナチュラルメイクと言えば聞こえは良いかもしれないけれど、ファンデーションに眉、ルージュ程度の冴えないメイク。
太めの眉は、きっと手入れの仕方さえ知らないんだと思う。
染めたこともないであろう、艶のある揃った黒髪。
地味なベージュの膝丈ワンピースに、低めのヒールの黒いパンプス。
服だって靴だってバッグだって、ひとつひとつの品の良さはあっても、オシャレとは程遠い。
スタイルだって、決して良いとは言えない。

正直――もっと、ずっと素敵な人だと思ってた。

あたしなんかよりも、綺麗で、上品で、教養もあって――。
敵わない、くらい。

そうだったら良かったのに。
あたしなんか、足元にも及ばないほど、完璧なひとだったら。

何で、この人なの?

よりによって、何で?


視線を落とし、スプーンを握り直した。
でももう、食べる気なんてしない。


「実は以前、二人で歩いているところをお見かけしたんですよ。
そのときに、指輪が目に入って。
ああ、韮崎さんの婚約者の方だ、って、すぐ分かりましたよ」

「えっ、そうなんですか。
何だか、恥ずかしいですね。
声、かけて下されば良かったのに」

「いえいえ。韮崎さんにも先日言ったんですよ。
楽しそうに歩いてたから、邪魔したら悪くて声をかけそびれたって」

「私も……佐藤さんのことは、以前から存じ上げてます。
業界の革命児だって、有名ですから」

「異端児の間違いじゃないですか?」


あはは、と、楽しそうに笑い声が響く。

韮崎さんも、合わせて笑っている。


どうして、平然としてられるの?

韮崎さん、どうして?


あたしを取り残して、勝手に会話は進んでいく。
話は聞こえているけれど、頭にはきちんと入ってこない。
あたしはただぼんやりと眺めているだけ。
時折、皆に合わせて笑顔を作る。

それしか、できない。
何を話していいかなんて、分からない。


「なぁ、葉山?」


拓馬に急に振られて、ハッとする。


「えっ、あっ……!」


顔をそちらに向けたその時、指先が水の入ったグラスに当たり、倒れた。
並々と入っていたそれは、勢いよくテーブルの上に広がった。
そして、次の瞬間には膝の上に滴り落ち、あたしは咄嗟に立ち上がった。


「大丈夫ですか!?」


韮崎さんより、拓馬より、ずっと素早く彼女は椅子から上がり、あたしの元へと駆け寄った。
そして、バッグの中からハンカチを取り出して屈み、あたしの濡れたワンピースを拭き出した。


「染みにならないと良いけど……」

「大丈夫、です。
ただの水だし、乾いちゃえば……」

「なら、いいんですけど……あっ」

「どうかしました?」

「爪が」

「えっ?」


彼女は、あたしの爪に、人差し指でそっと触れた。


「爪まで、綺麗。
ネイルアートまで、お洋服と合わせてるんですね」

「ああ……はい」


ゆっくりと離れていく二つ隣の指の付け根で、透明の大きな石が七色の光を散らした。


「葉山さんって、女性から見ても、本当に綺麗。
羨ましくなっちゃうくらい」


「ね?」と、彼女は韮崎さんに微笑みながら振った。
何て答えるんだろうとも考える間もなく、韮崎さんは即答した。


「そうだね」


ぽつ、と。床に、雫が落ちた。
それが自分のモノだったことに気付いたのは、視界が滲んだから。


――分かってた。

韮崎さんが、外見で人を選ばないって。
最初に助けてくれたときから。
だからきっと、好きになった。

なのに、あたしは。
馬鹿みたいにこだわってて。
今日だって。
彼女のことだって、見下げて。

あたしが、本命になれるはずがない。
そんなのは承知の上だったけど、それを更に見せつけられたみたいで――。


熱くなった目から、次々に涙が溢れては滴り落ちる。


もう、コントロールが利かない。
もう、駄目。


「……葉山、さん?」


彼女が驚いて心配そうな声を上げたときには、あたしはバッグを引っ掴み、テーブルを後にした。

  

update : 2010.02.27