38
あっと言う間に週末を迎えていた。
忙しさが戻ってしまえば、時間が過ぎ去るのなんて本当に早い。
もし一日が二時間増えたとしても、きっと足りないと思うくらい。
拓馬がくれたローデータのおかげで、店舗の強み弱みも数字の上では認識できた。
やはり、売り上げの悪い店舗は、特にソフト面――店員の印象が、悪い。
けれどそれを知った時点で、どうすれば現状を良く出来るか、ということも同時に分かったということになる。
まだまだ、これからだ。
忙しさは増したけれど、資料作りも進んでいる。
報告書が上がってきたら、少しでも早く戦略会議やフィードバックが出来るように、と。
これが進められることで、随分時間の短縮が出来ると思う。
拓馬がムカつくことはさておき、このことにおいては、本当に感謝。
早々に調査結果を貰った店舗は、喜ぶところあり、怒るところあり。
昨日は、納得がいかないと、大阪の店舗からいきなり電話で怒鳴られた。
数字は先方の好意で先に出しているので、報告書が提出されて点数以外の評価が出るまで待って下さい、となだめたけれど、結局、説得するのに30分もかかった。
それでも、大半の店舗は初めてということもあり、調査結果に対し興味を持っている。
ここで既に結果を受け入れ、今から積極的に対策を考え始める店舗もある。
そんな反応が返ってくるとやっぱり、嬉しい、とか、思ってしまう。
この嬉しい、って気持ちが――仕事が楽しい、と繋がっている、と思った。
自分の携わっている仕事によって――店が変わっていく。
変わろう、と、してくれる。
もっと、頑張りたいと思った。
こんな気持ちは初めてだった。
韮崎さんのためじゃなくて、これは、会社の、店の、ため。
仕事が好き、とか、楽しいとか、正直まだよく分からないけど。
それでも、頑張りたい。
何かを、変えたい。
こういう気持ちを、大切にしたい。
目が回るほど忙しい中、心配していたのは常務のこと。
けれど、あれ以上呼び出しもなければ、何か言われることも圧力もなかった。
それは、相手が韮崎さんだからなのか――……。
そう考えると、やっぱり韮崎さんって凄い人なんだ、とあらためて思う。
拓馬が言っていたことが本当のことになるのも、近いのかもしれない。
東和重工のCIO……。
――気持ちが落ち着かない。
単純に喜べない自分がここにあって……。
もう、そのときにはきっと、あたしの手の届かないひとだから……。
このままこの関係が続いているとも思えない。
向こう側のデスクを見やった。
奥の窓際。
業務管理部の方に行っているのか接待なのか、それともあたしの全く知らない仕事なのか、ここ数日ほとんど顔を見せなかった彼の姿が今はある。
受話器を耳と肩の間に挟み、左手はパソコンのキーボード、右手はデスク上のマウス。
首を傾げたまま真剣な顔をしている。
その姿が、可愛い、なんて……。
約束――忘れてないよね?
あれから何も言ってこないけど……。
拓馬に色々言われたせいで、落ち込みたくもないのに結局は落ち込んでて。
忙しいおかげで、仕事をしている間は殆ど考えなくて済んでいるけど。
家のことだって――ホントは、知りたい。
もっともっと、色んなこと。
韮崎さんの、全部が知りたい。
――と、思うと、いきなり目が合った。
どきっとする。
すぐに逸らされると思ったのに、韮崎さんはじっとこちらを見たまま。
……何?
どうしたんだろ……。
そう思うと、受話器を電話に戻した韮崎さんは、小さく手招きした。
――え?
あたし? だよね?
慌てて立ち上がり、彼のデスクへと向かう。
仕事のこととは分かっていても、すぐ傍で会話が出来るだけでも嬉しいとか思っちゃうあたしって……。
顔に出ないように、気を付けなきゃ。
「何か、ありましたか?」
「コレ」
しなやかな指先が、ディスプレイを指した。
こんな仕草も、見惚れてしまう。
あたしも一緒になってディスプレイを覗き込むと、ふわりと韮崎さんの香りがした。
珍しく、いつもと違う香り。
――CKの『truth』だ。
「ココ、間違ってる。こっちも」
………。
ああ、もう、最悪……。
余計なこと、考えてる場合じゃないじゃん!
「これでもちゃんと見直ししてるのか?」
随分と冷めた言い方。
デスクからあたしを見上げる目も呆れてる。
「えーっと……した、かな?」
「かな、だと?」
「いえ、多分、してます」
「ふざけるな。多分じゃないだろ!
小学生でもテストで見直しくらいするぞ!」
「すみませんっ、すぐ直してきます!」
……ううっ。会社ではどうしてこんなに冷たいのよ!
て、言うか、あたしの完全凡ミスだけどっ。
落ち込んだ顔なんて見せずに、あたしは気を取り直して自分のデスクに戻ろうとした。
途端、後ろから肘の辺りを掴まれ、あたしは瞬時にまた振り向いた。
触れられている手が熱い。
また、あの香りが鼻を擽る。
たったこれだけで、ドキドキする。
「な、んでしょう?」
思わず、どもってしまう。
だって、いいのかな?
社内で腕なんて触れてきて。
韮崎さんは座ったままあたしを見上げ、言葉を詰めたように数秒沈黙し、デスクの上の資料の紙に目を転じた。
吸いつくように腕に感じていた熱が、ぱっと離れた。
「……コレ――基礎資料と、こっちのヤツ、次の会議で使うから、月曜日までにパワーポイントで作っておいて」
……何だ。
そんなことか……。
「はい、分かりました」
返事をすると韮崎さんは、すぐにその資料をあたしに渡すことはせず、さっと何か走り書きをした。
そして、目の前に差し出してくる。
「約束通り、頼むよ」
「はい」
答えながら、今の韮崎さんの走り書きに目を落とす。
――13:00 駅
そう書いてある。
とくん、と、心臓が高鳴った。
……これって。
約束通りって、もしかして明日のこと?
何だ。
心配してソンした。
忘れてるわけなんてないじゃん。
ちゃんと、約束守ってくれるじゃん。
明日も明後日も、韮崎さんの時間をあたしにくれるんじゃん。
家のことも――明日、ゆっくり訊けばいい。
一緒に過ごして、きっと、もっともっと、仲を深めることができるよね?
「韮崎さ――」
「葉山さん!」
石田さんの声が重なって、途中で邪魔された。
あたしは「約束です」と言おうとしたことを諦め、咄嗟に資料を隠すように、胸に抱え振り返る。
石田さんは、早足でこちらへ近づいてくる。
何だか神妙な顔つきだ。
それに、韮崎さんとの話し中だと分かっていて、わざわざ。
何かあったのかな?
「何ですか?」
「電話よ」
……何だ、電話か。
そう思ったのも束の間、石田さんはあたしに言った。
「M&Sの佐藤社長から」
……んにゃろ。
ほんっと、タイミングのいいヤツだな……っ。
この間といい、こういうときに邪魔してくるなんて。
どこかで監視でもしてるのか?
舌打ちでもしたい気分を抑え、石田さんに「今、出ます」と返事をしたときには、韮崎さんは他の電話を受けていた。
まるで、もう全くあたしに関心はないように。
見えもしない電話の相手に、真剣な顔つきで受け答えをしている。
滅多にない――ううん、社内で、それも部署内で韮崎さんが、まずあんな風に良い雰囲気の態度をとってくることなんてないのに。
落ち込んでいた気持ちも、こうして明日の約束を確認し合えたことだって、すっごく嬉しくて気分良かったのに。
あたしは、どうせ見ていないだろうと思いつつも韮崎さんに一礼し、ヤツの電話に出るために足早に自分のデスクに向かった。
同じ方向の石田さんが、ぴったりと後ろに付いてくる気配がする。
そうかと思うと石田さんは、あたしの耳元に顔を近づけてきた。
「ね、葉山さん」
「はい?」
足を進めながら顔だけそちらに向ける。
「あのさ、ここんとこ最近、何かなかった?」
「は? 何かって何ですか?」
「だから……何か、って、何か、よ」
「変わったこと、って意味ですか?」
「やー……だから……何もなければ、それでいいの」
石田さんは誤魔化すように薄く笑みを浮かべながらポンとあたしの肩を叩き、先に到着した自分のデスクの席に着いた。
何か変なの……。
そう思いつつも、アイツが電話で待っているかと思うと、そのまま疑問は返さずに自分のデスクに戻る。
そして電話のランプが点滅しているのを確認し、受話器を上げ、お決まりのセリフを出来るだけ単調に言った。
もちろん、ささやかな嫌味だ。
「大変お待たせ致しました。
お世話になっております、葉山です」
『おせーよ』
「申し訳ありません。
ご用件はなんでしょうか?」
『オマエ、暇?』
「……猫の手も借りたいほど忙しいです。
佐藤さんも、さぞかしお忙しいんでしょうね」
『まーな』
全く嫌味が通じないらしい。
「……で、ご用件は何でしょうか?」
『明日、午後1時に迎えに行くから』
……は?
1時?
「あのー……意味、分かんないんですけど」
『昼過ぎに、家に迎えに行く、って言ってんの』
はああっ!?
何言ってんの? コイツ……!
しかも、午後1時って、韮崎さんとの約束の時間じゃん!
ホント、監視カメラか盗聴器でもつけてるの!?
ぶるっと震えがくる。
怒鳴ってやりたいのを堪え、出来るだけ低い声で言った。
「公私混同は困ります」
『だってさぁ、オマエのケーバンも家デンも、番号知らねぇもん』
「困るんですけど」
『困られても、こっちも困る』
「無理です」
『無理じゃねぇ』
「無理だってば」
『オマエに拒否権はねぇはずだけど?』
「何でよ!」
思わず口調が強くなっていることに周りの視線によって気付かされ、あたしは咳払いして気を取り直し、受話器を掌で囲い、もう一度声をひそめた。
「申し訳ありませんが、とにかく、明日は無理です」
『韮崎さん?』
「………」
『図星かよ?
なら、決まりだな。
けってーい』
ぶちっと電話が切れた。
あ、の声も出せぬ間に。
朝早くから起きて、バスルームに向かう。
お気に入りのバスミルクを入れて、ゆっくりと湯船に浸かりながらパックをし、それを待つ間にマッサージする。
お風呂はあたしにとって極上のエステタイムだ。
サロンになんて通わなくったって、体型も美肌もキープ出来るもの。
そんなの、自分の努力次第。
綺麗になることを諦めたら、それこそただのオバサンになってしまう。
女を捨てるなんて、あたしにには考えられない。
スキンケアも念入りに。
時間をかけてパッティングするだけで、潤いは肌の奥まで浸透し、ふっくらと張りが出る。
もちろん、メイクにも気を抜かない。
下地から丁寧に指で伸ばしていく。
ファンデーションはカバー力のあるリキッド。部分的にコンシーラーやコントロールカバーも欠かせない。
アイシャドウを乗せる前にもベースを塗るだけで、ずっと発色や持ちが良く、瞼を明るく艶やかにしてくれる。
ほんの小さな工程で、見違えるほど仕上がりが変わってくるのだ。
一つ一つ丁寧に手を動かす。
完璧なメイクと、濃いだけのメイクとは違う。
ただ塗りたくるだけじゃなく、色の使い方、重ね方にもポイントがある。
つけまつげなんて使わなくたって、十分長くてボリュームのある自然なまつげだって作れる。
こういうときこそ妥協なんてしない。
好きな人と二人のときは、一番綺麗な自分でいたい。
姿見の前で、バッグまで持ってトータルコーディネートの確認。
荷物は昨日のうちにバッグに詰めた。
タオルや歯ブラシくらいは、ホテルって言ってたからあるよね?
爪もピカピカ。髪もふんわりゆる巻き。
一目惚れで買ったワンピースは、チェックのミニ丈で、シフォンのふわふわペチコートが裾からちらりと見えて可愛らしい。
あとは、かかとにリボンのついたパンプスを合わせよう。
「よし。完っ璧」
一人鏡に向かって納得すると、ちらりと壁の時計を確認する。
――12:11
約束の時間には、まだ少し早い。
だけど、本当に拓馬が13時に来るんだとしたら――今の時間に家を出ておかなきゃ。
鉢会わせなんかしたら、たまったモンじゃない。
大体、何でアイツは唐突なのよ。
それに、強引。めちゃくちゃ。
行くわけないじゃん。
つーか、絶対に、会わない、っつーの!
どうせまた、良からぬことを考えてるんでしょ!
あたしはそのまま玄関へ向かった。
少しでも早く家を出たくなったから。
数十秒前までは、韮崎さんとの小旅行の期待でいっぱいだったのに。
拓馬のことを思い出した途端、憂鬱と怒りが占領してくる。
上がり框で足を止めた。
瞼を閉じ、大きく息を吸って、大きく吐き出す。
拓馬のことなんて忘れよう。
韮崎さんのことだけを考えよう。
せっかくこれから二人きりで出掛けられるのに、楽しい気分でいたい。
……大丈夫。
目を開けると、あたしはパンプスにつま先を滑り込ませた。
カツン、と、タイルに音が立てられる。
行こう。
足を踏み出し、玄関を出てさっさと鍵を閉める。
歩きながらバッグの中に鍵をしまったところで、ポーン、と、タイミング良くエレベーターが到着した音がした。
そこから出てきた同じフロアーの住人に軽く会釈しながら走り、開いていたエレベーターにどうにか間に合って乗り込んだ。
一階のボタンを押し、少し乱れた息を整えると、小さな箱の中にけたたましく携帯電話が鳴り出した。
ドキッとする。
一瞬、拓馬かと思う。
――でも、違う。
拓馬は、あたしの携帯の番号は知らない。未だに。
瞬く間に暴れさせられた心臓の部分を抑え、あたしはバッグから携帯電話を取り出す。
韮崎さんだ!
ディスプレイの文字を見て、一気に気分は高揚する。
それだけで、がらりと一転してくれる。
「もしもし」
『瑞穂?』
「はい、今、家を出るところです!
早めに出て、駅前で軽くコーヒーでも飲んで待ってようかな、って思って。
なんか、支度も終わったのに家にいるのって、落ち着かなくて」
嬉しくて妙にテンションが上がり、早口になる。
「あっ、でも、あたしが勝手に先に出てるだけなんで、韮崎さんはゆっくり来て下さい。
適当に待ってますから」
韮崎さんの応答がなくて、あれ? と思う。
エレベーターの中だから、きっと電波が悪いせいだ。
切れないといいな、と思うと、瑞穂、と名前を呼ばれた。
なのに、また数秒の間が開く。
『……メン……だ……』
「え?」
途切れ途切れの声で、よく聞き取れない。
ポーン、と一階に到着した音が響き、目の前のドアが開いた。
あたしは急いでそこから抜け出す。
「ごめんなさい、エレベーターに乗ってたから、よく聞こえなくて」
訊き直すと、今度ははっきりとした声で韮崎さんが言った。
『ホントにゴメン。
今日、行けなくなった』
「……え」
『仕事上のトラブルがあって。
どうしても、俺が抜けるわけにはいかないんだ』
「―――」
そんな………。
仕事――それは分かるけど、でも……凄く楽しみにしてたのに……。
朝から気合い入れて支度して――こんなギリギリの時間になって、ドタキャンなんてアリ?
行けなくなった、ってことは――何時でもいいから待ってる、って……そう言ったら駄目だってことだよね……。
それきり黙りこんでしまったあたしに、韮崎さんは気遣うように優しく言った。
『埋め合わせは、ちゃんとするから。
本当に、悪いと思ってる……ゴメンな』
「あー……いいんです、仕事ならしょうがないし」
『怒ってる、よな?』
「ううん。無理に来てくれる方が嫌だから。
仕事を大切にする韮崎さんのが好き。
だから、行ってきて下さい。
あたしなら、全然気にしてないから」
バッグの取っ手をぎゅっと握り締めた。
たった一泊分が、重い。
「埋め合わせ、期待してますよ?
仕事、頑張って下さい」
見えるわけがないのに、思わず笑顔になって言った。
そんな風にしていないと、明るい声なんて出てこないから。
『うん。
また、連絡する』
「じゃあ」
『じゃあ』
耳元で、韮崎さんの声から通話中の電子音に切り替わった。
その途端、膝から力が抜け落ちたように、その場に座り込んだ。
大きく溜め息を吐き出し、膝に顔を埋める。
……馬鹿みたい……。
理解のある女のフリ――それこそこれが、ただの都合のいい女なのかもしれない。
何よりも仕事、の韮崎さんには、笑って送り出すことが一番だって分かってる……。
それに、そうしてあげたいとも。
だけど、期待が大きかった分、落胆も同じくらいの大きさで、ぽっかりと身体に穴があいたみたいで……。
トラブルなんて、韮崎さんのせいじゃないし。
こういうのは――誰が悪いと言えない分、余計にタチが悪い。
……行きたかったのに、な。
もう一度、溜め息を吐いた。
湿った熱い息を膝に感じる。
とりあえず、部屋に戻ろう……。
そう思うのに顔を上げる気力がない。
身体もどうにも動かない。
携帯電話も、手の中で閉じられていないままだ。
なのに、すぐに顔を上げた。
バン、と音がしたから。
ガラスを叩く、音。
続けざまに、バンバンと聞こえる。
何?
音の方を覗き込むと、ガラスでできた自動ドアの向こうの顔と、目が合う。
まるで、何があったんだと、心配するような目と。
ドアを叩いていた手が、向こう側ですっと下ろされる。
拓馬が、そこからあたしを見ていた。