37
『土曜日、葉山のホテルを予約しておいた』
仕事中に届いた携帯電話へのメール。
たまにしてくるスマートな対応が、本当に憎らしくなるくらい嬉しい。
冷めた態度との温度差が堪らないと言うか。
コレだから、余計にハマっていってしまうのかもしれない。
いつもは会社で素っ気ないのに。
こうして仕事中、ホテルの予約を取って、メールをくれた。
さっきしたばかりの約束のために。
それが、どれだけ嬉しいか――。
『楽しみにしてます』
一言だけの、返事。
長い文章でぐだぐだ書くよりも、きっと彼はこういう方が好み。
あたしも、その気持ちだけ伝わればいい。
返信すると、携帯を閉じて掌で包み込む。
何だか、ドキドキしてる。
ホテル、って、どこだろう?
葉山は、知らない人にはどちらかというとリゾート地としてのイメージが強いらしいけれど、実際、宿泊施設はごくごく少ない。
元々地元だったあたしでさえ、知っている宿泊出来る施設は片手にも満たない。
考えてみれば、もうずっと向こうには帰っていないし。
昔とは変わっているのかもしれないけど。
ふ、と。頭の中に蘇った。
134号線から見上げる緑の向こうに見えた、白亜の建物。
海を望む結婚式場を併設した、こぢんまりとしたホテル。
見る度に、小さなあたしは憧れたっけ。
目の前の電話が音を立て出し、仕事中の自分に引き戻された。
外線だ。
取ると、『お世話になっております』と女性が言う。
名前が名乗られる前に、声で相手は分かっていた。
最近毎日やりとりをしている相手――M&Sの中田さん。
「こんにちは。葉山です」
『葉山さん、こんにちは。
全店舗、無事に調査が終了しましたので、お知らせいたします』
――調査終了。
それを聞いて、ホッとする。
一段落ついた気分。
あたしがまた忙しくなるのは、これからだけど……。
「ありがとうございます。
問題とかは、特になかったですか?」
『ええ、大きな問題はなく、スムーズに進行しました。
調査員から提出されている報告書の一次チェックは私がやりますが、最終的なチェックと各店改善案は全て佐藤が担当しますから。
集計は私の方でこれから進めて、報告書と合わせて期日に提出致しますので』
集計――。
そっか、調査が終わったんだから、もう数字は集まったんだ。
どんな結果が出てるのか、早く見たい。
……て……そうだ。
「あの、中田さん」
『はい?』
「ローデータって、先にいただけないですか?」
『ローデータを、ですか?』
「はい。店舗側も、調査結果って、すぐにでも欲しいものです。
どの店舗が良くてどの店舗が悪かったのか、とか、全体的にどのくらいのレベルなのかとかも知りたいですし、取りあえず数字だけでも……」
計算は、経理部にいたくらい、元々得意な方。
ローデータを先にもらえれば、進められる事項も多い。
ただ集計結果を待つより、自分でまとめたり出来る部分をやってしまえば、店舗にとっても良いはず。
悪い点数の項目について理由がハッキリと分かる前に、どうしてなのかと理由を自分たちで考えるということも、きっとこれからの実になる。
思いついて言ったけれど、難色を示すように中田さんは数秒黙り込んだ。
『……申し訳ありませんが、難しいです。
今はまだ調査員から報告書があがってきたばかりですし、数字のみでもまとめるのに時間がかかりますから……』
「そこをなんとか出来ないですか?
表とかに綺麗にまとめてなくても、そのままでもいいんです」
『報告書と一緒に提出のお約束ですし、仮に先に提出出来ても、佐藤が直接確認してからになるので……申し訳ありませんが……』
そっか……報告書だけじゃなくて、データまで拓馬が確認もするんだ?
「佐藤さんの確認って、そんなに時間がかかりますか?
急な申し立てで、本当にすみません。
でも、出来れば何とかお願いしたいんですけど」
『今、他の件も立て込んでいまして……ギリギリのスケジュールなんです。
そうですね……佐藤に確認してから、また折り返しご連絡します』
「はい、お願いします。
……佐藤さん、お忙しいんですね」
『はい。
あ、葉山さんは、佐藤の幼馴染みだそうですよね?』
ドキっとした。
中田さんまであたし達が知り合いだって知ってるの?
て、ゆーか、幼馴染みじゃないし!
社員にあたしのこと、どんな風に言ってるのよ……?
まさか、いじめてた、とか――言ってないとは思うけど……。
ああ、もう、やだ……。
こんなこと考えて不安になるのなんて……。
変に緊張して、受話器を持つ指先が冷えている。
返事をしていないことにもハッとして、慌てて「はい」と言った。
答えてから、何で肯定してるんだろ、と、思う。
『今、佐藤は、今度出版される本の執筆もしてるんですよ』
「本、ですか?」
『それもあって、通常以上に忙しいんです。
社長は……佐藤は、本当に仕事命で、いつ寝てるんだろうってくらい、私たちから見てもプライベートの少ない方なんですよ。
たまには仕事以外で、葉山さんも声をかけて誘ってあげて下さい。
きっと、喜びますよ』
「え……あっ、はい……」
思わずそう答えてしまう。
と、言うか、社交辞令としてはそれ以外答えようがないけど。
社員が言うくらい、きっと本当に忙しいんだろうけど。
喜ぶって――あたしが誘ったら、別の意味でアイツは喜ぶでしょ。
冗談じゃない。
一応はあたしも経理部にいた人間だ。
たとえ言われたことばかりやっていた腰掛けOLだったとはいえ、数年働いているのだから多少なりは効率的なシステム構築にも携わった。
それがこの部で役に立つなんて、全く思いもしなかったけど。
ローデータが提出されてくる前に、数字を入れるだけの表を作っておけばいい。
項目別の達成率、店舗別達成率、平均点や、店舗順位……M&Sが提出してくるものとは別に、売り上げも入ってパッと見て分かりやすいもの……。
エクセルはお手の物、と言いたいところだけど、途中マクロと格闘。
ディスプレイとキーボードに向かってそうこうしていると、内線電話が鳴っているのに気付く。
チカチカと光るオレンジ色に手を伸ばしながら、時計に目をやる。
いつの間にか、もう仕事も終わる時間。
「はい、け……販売促進部の葉山です」
経理の仕事を思い出していたせいか、「経理部の」と一瞬言おうとしてしまったけれど、寸前でどうにか言い直した。
『お疲れ様』
耳元を擽ったのは、低く落ち着いた声。
――えっ?
反射的に韮崎さんの席へ振り返る。
受話器を耳に当て、パソコンのディスプレイに目をやったままの韮崎さんは、同じ部屋の中であたしに電話しているとは思えない。
いけない、と、あたしも顔を元の位置に戻し、パソコンに目を落とす振りをする。
「えっと、はい、お疲れ様です」
『今日はもう、終わった?』
とくん、と胸が鳴る。
それって、このあともしかして誘ってくれるのかな。
そういう意味?
だから、仕事の電話の振り?
「終わってる――って言うより、終わらせて家に持ち帰ってやろうかな、と思ってたところです。
今、キリもいいですし」
キリがいいのは嘘だけど。
家に持ち帰ってやるのは全く支障がないし、それなら一緒にいられる方を取るに決まってる。
『佐藤さんから葉山に電話。
今、来社してるそうだ』
期待を込めて答えたのにもかかわらず、思ってもいない言葉に声が漏れる。
「へっ……?
佐藤さん?」
『ロビーで待っているそうだから。
仕事のキリがいいなら、上がっていいよ』
「―――」
……最悪だ。
週末の約束もしたばかりなのに。
何でこうなるんだろう。
せっかくまた、少しずつ近づいてるって思えても――こうやって拓馬に邪魔される。
絶対に、悪気があってやってるだろ、アイツ――。
て、言うか。ツイてない。
よりによって、韮崎さんが拓馬の電話を取るなんて……。
キリがいいなんて言わなきゃ良かった。
まだまだ帰れないって言っていれば、「上がっていいよ」なんて言われなかったかもしれないのに……。
「うっす」
人の気も知らず、拓馬はロビーであたしの顔を見つけるなり、にんまりと満足そうな顔をした。
お気に入りのおもちゃを見つけた子供みたいな顔。
ヤツにとってあたしは、玩具以外の何でもない気がする。
どうせなら、さっさと飽きてくれればいいのに。
エレベーターから降り立ったあたしの元に、徐に近づいてくる。
あたしも拓馬の方に向かって歩き出す。
けれど目の前に現れたヤツを、わざと素通りしてやって入り口に向かった。
「おい」
「………」
「葉山」
「………」
「呼んでるだろ?」
自動ドアを潜ったところで足を止め、仕方なく振り向く。
「呼ばれなくても、分かってますけど」
「じゃあ何で無視すんだよ」
「社内で会話したくないからですっ」
拓馬は思い切り眉を顰めた。
「マジで、オマエ、いい度胸してるな」
ぐい、と、手首を掴まれた。
「やっ!」
あたしは思わず勢いよく手を振り払った。
なのに、拓馬はすぐにもう一度手を掴んできた。
強い力。
男の。
顔が近づき、突き刺すような目が瞬きもせずにあたしを見つめてきて、ぞくっとした。
それなのに、何故か視線を逸らせない。
昔と変わらない瞳は、吸い込まれて全てを飲み込むようで怖い。
その威圧的な瞳が緩んだ。
「バーカ」
掌を、握らされる。
……何?
目を逸らせないまま訝しく眉を寄せると、すぐ間近にあった顔も触れていた手も離れていった。
あたしは、今握らされた掌を開いた。
そこから出てきたのは、黒いUSBメモリ。
「コレ……?」
「欲しいんだろ? ローデータ」
「えっ?」
「本来なら、こういうのは社外秘つーか、見せられるもんじゃねーんだけど。
集計もしてない、全くそのまま調査員が提出してきた報告書だよ。
数字の部分だけ取り出して使えよ。
中田から連絡受けて、ざっとチェックはしてきたからさ。
そのかわり、数字以外はオマエ以外には絶対に見せるなよ」
――嘘……。
どうして……?
だって――。
「忙しいんじゃ、なかったの……?」
「忙しいに決まってるだろ?」
「じゃあ、なんで――」
「オマエが欲しい、って言ったんだろが」
「そうだけどっ。
でも、そんなに忙しい中わざわざやってくれるなんて――……」
中田さんの言う通り、報告書と一緒に提出のはずで、元々契約上にもないこと。
いくらウチがクライアントとはいえ、M&Sは下手ではなくフィフティフィフティの立場で会社をバックアップする、というような感じだ。
相手が大手だろうが、言いなりになって持ち上げるだけでは改善されるはずがないと――今迄一緒にやってきて、それはM&Sの信念だというのを知っている。
だから、無理なことは突っぱねられてもおかしくない。
ううん。突っぱねられるのかと思ってた。
分刻みのスケジュールだっていう拓馬が。
しかもこうしてわざわざ会社まで届けてくれるなんて――。
不可解すぎる拓馬を見上げていると、ふんと、鼻を鳴らしてからヤツが言う。
「オマエの望みを叶えるためだろ」
「は……?」
「イイコト教えてやる」
「はあっ?」
わけが分からない。
コイツの『イイコト』なんて、どうせろくでもないことだと思いつつも、お望み通り訊き返してみる。
「何?」
「極秘だっつー、噂だけどな、あくまでも。
東和重工の会長が、引退するらしい」
「……会長が、引退?」
「それで、副会長が会長兼CEOに。
現社長はそのまま社長で、COOらしい。副会長っていう役職をなくすみたいだな。
それでどうやらその時期に合わせて、新しく単独にCIOを設置するらしい。
韮崎さんは、そのポストに就任じゃないか、って」
「CIO……?」
……て、何?
一応、CEOが執行役員トップで最高経営責任者、COOが最高執行責任者、ってことくらいは知ってるけど……。
と思うと、察したように拓馬は答えた。
「チーフ・インフォメーション・オフィサー 。
最高情報責任者。
分かりやすく言うと、情報化戦略を立案、実行する責任者ってヤツ。
経営陣の中でも、重要な役割だよな。
そこにいきなり抜擢されるなんて、相当凄いことだろ」
韮崎さんが……?
「それが本当なら、孫娘の婿にはまぁ相応しいだろうな。
結婚を許すもなにも、逆に万々歳なんじゃねぇの、普通」
ニッと、拓馬は笑った。
それと引き代わりにあたしの胸がズキッと痛んだ。
受け取ったUSBメモリを握り締める。
「そうさせるためにも、やっぱり今回のプロジェクトを成功させなきゃなんない、となぁ?」
同意を求めるように拓馬は言った。
――コイツっ。
ホントにムカつく……!
韮崎さんが結婚するステップをあたしが手伝って傷付くことが、そんなに楽しいの……?
そこまでして、あたしの泣く顔が見たいわけ……?
ギリッと奥歯を噛み締めて、目の前の顔を睨みつける。
けれどそんなあたしの反応を、拓馬は更に楽しんでいるような顔つきだ。
「……つーか、オレもついてて失敗とか、ありえねーけどな。
韮崎さん側の問題は、それで帳消しされるよな。
その手伝いに、オレも加担してやるよ」
「すっごい自信よね……っ。
大体、問題って、何?
副会長が、元々結婚を反対してる理由を、アンタが知ってるわけ?」
「そりゃあ、由緒正しいお家柄に、成金は入れたくないっつーのは、ある意味分かりやすくね?
副会長的には、血統が違い過ぎる、って思ってるんだろ?」
成金?
「成金って、韮崎さんの家が?」
「そうだよ」
――初耳だ。
相川さんも、副会長は家柄が気に入らないみたい、って、言ってたけど……。
韮崎さんの実家って、お金持ちだったの?
山梨の山の方って言ってたし、何となくそんなイメージはなかったけど……。
拓馬は、大袈裟な溜め息を吐いた。
ご丁寧に手振りまでつけて。
「オマエって、ホント何も知らないんだな?
一応は彼女のつもりなんだろ?
韮崎さんのこと、それくらいも知らないのか?」
本当に、一言多いヤツ。
そりゃあ、確かに『一応』だけど……。
「……じゃあ、アンタは何を知ってるってのよ?」
「韮崎さんの父親は、ある意味結構有名なんだよ。
川崎辺りのパチンコ屋だとかチケット屋だとかラブホテルだとか、そういうのを経営してる、所謂ちょっとヤクザっぽい感じっつーの?
副会長にとっちゃ、そういうのは聞こえが悪いだろ」
「川崎……? ヤクザ……?」
「ああ、あの辺じゃ昔から有名」
「え? 昔からって――……。
韮崎さんの、実家が? 川崎で?」
「そうだよ。
まぁ、韮崎さんも継ぐつもりがないんだろうな」
そうだよ、って――。
だって、韮崎さんの出身は、山梨のはず。
「韮崎さんは、川崎じゃないでしょ?」
「は? だから、有名だって言ってんだろ?
少なくともオレらが生まれる前には、会社は川崎にあったはずだよ。
どれくらい前とかまでは、分かんねーけど」
「だって――」
反論しようとした言葉は、けれどそこで飲み込んだ。
あたしに嘘を吐いたっていうの?
そんな風になんて感じなかった。
懐かしそうに、あたしに昔のことを語った韮崎さん。
わざわざ嘘なんか吐く必要だってないよね? そんなこと――。
あたしに適当に話を合わせただけ?
それとも子供の頃、お父さんとは離れて暮らしてた、とか、そういうこと?
「何?
韮崎さんが川崎出身だと、何か問題あんの?」
訝しむように、拓馬は角度をつけて覗き込んできた。
あたしは咄嗟に顔を逸らす。
「別に、ないし」
「何だよ?」
「だから……川崎って……そんな近くって言うか、同じ県に住んでたなんて驚いて……。
何となく、そういうイメージもなかったし。
ただ、それだけ」
「……ふぅん?」
拓馬は釈然としない顔をしながらも、あたしから離れた。
あたしは、貰ったUSBメモリを掲げるようにして見せた。
一応は笑顔も作って。
「コレ、ありがと。
忙しいのに、わざわざ、ホントに」
「……別に。
オマエの泣き顔見るためだって、言ってんじゃん」
だから。本当にコイツは一言多い。
「とにかく……ありがとうございました。
これから帰って、さっそく拝見させて頂きます」
一礼して、あたしはさっさと歩き始めた。
今、拓馬と応酬する元気なんてない。
「おい」
後ろから呼び止められる。
止まらないあたしの背中に、拓馬の声が響いた。
「葉山、約束はちゃんと守れよ」
あたしは振り向かず、片手を軽く上げ、バイバイの仕草をした。
「そっちこそ、ね」
そう言い、そのまま歩き続ける。
拓馬が追ってくる様子はない。
けれど今、安堵の息を漏らす余裕もなかった。
――分かってるってば――。
韮崎さんが、最終的にあたしのモノにはならないのなんて。
だけど――。
あんなに近づいたと思った韮崎さんの姿は、幻影のようにも思えてくる。
次の瞬間醒めてしまう夢のように。
繋がったもの全てが、この手の中からすぐにも消えてしまいそうで、怖くなる。
約束だって、したばかりなのに。
それさえ、簡単になくなりそうで……。
あたしは、貰ったUSBメモリを強く握り締め、また足を速めた。