36
「……えっ」
声を上げた時には、韮崎さんはもう歩き出していた。
あたしは慌ててそれを追う。
「待って下さい!
嫌ですっ! 引きませんよ!」
どうして!?
じゃあ、あの企画書は何!?
助けてくれたんじゃないの!?
だって、あたしは、引くのなんて絶対に嫌!
「韮崎さん!
迷惑をかけたのは、申し訳ないと思ってます!
でも、嫌ですっ! 絶対にやりたいんです!
韮崎さんと一緒に語ったじゃないですか!」
声を上げても返事は一向になく、韮崎さんはあたしに構わず先に進む。
一階まで階段で下りると、ロビーを通り過ぎ、エントランスを出た。
まるで行き先を決めているかのように。
振り返らない韮崎さんの背中を、あたしは口を閉ざし、ひたすら大股で追った。
韮崎さんの足は止まらない。
歩調も。
一体どこまで行く気なんだろう?
何を考えてるの……?
分かんない……。
ビルの合間を縫って、大通りに出る。
つい今歩いてきた道よりもずっと、日影が少ない歩道。
その日向の道を、人を避けながら二人無言で歩く。
目の前の横断歩道の青信号が、点滅し始めた。
韮崎さんは強引に渡ることはせず、そこでようやく足を止めた。
あたしも、彼の横で止まる。
赤信号に変わりかけた縞模様の歩道の上を、皆忙しなく動き出す。
慌てて走って渡り出す人。
早足に変わる人。
信号の色の変化など気にしないように、変わらない歩調でゆっくり歩く人。
様々。
そう思いながら人の流れを見つめていると、たった今赤に変わってしまった横断歩道の途中で、こちらに渡りかけの老婆が転んだ。
「あっ!」
危ない、と声を上げた時には、韮崎さんの背中が目の前を走っていた。
皆自分で手いっぱいのように見て見ぬふりの中、韮崎さんがお婆さんに手を伸ばし、背中に乗せる。
そして背負いながら、彼女が転んだ拍子に落とした手提げ袋も忘れずに拾い上げた。
――ああ……。
フラッシュバックした。
夏の終わり。
プール熱で道端に倒れたあたしを、抱えてくれたこと。
暴れて酷いことを言った見ず知らずのあたしをおぶって、病院まで連れて行ってくれたこと。
見知らぬ老婆をおぶってこちらに戻ってくる韮崎さんが、あの時とダブって見える。
『エゴイスト』じゃなくて――日なたの匂いのした、韮崎さん。
この人は、きっと、本当にこういう人。
普段は冷めたようでも、本心は優しい人。
倒れた人を。他の誰もが見て見ぬふりをしても、彼だけは放っておけない人。
あたしはあの時から、恋に落ちた。
彼に。
強い日差しが降り注ぐ横断歩道をこちらに戻ってくる韮崎さんが眩しくて、あたしは目を細めながら見つめて待った。
列を成して止まっていた車も、流れ始めた。
それを背にして、数秒でココへと辿り着く。
「大丈夫ですか?
転んだときにどこか打って、怪我とかないですか?」
あたしは、韮崎さんの背中の上のお婆さんに尋ねた。
「大丈夫、大丈夫」
転んだはずなのに、彼女はにこにこと人懐っこい顔で笑って答える。
どうやら本当に大丈夫そうで、ホッとする。
韮崎さんが身体を屈めると、彼女は、よいしょ、と、背中からのんびり降りた。
そして正面を向いた韮崎さんを、丸まった背を伸ばすようにして見上げる。
「本当に、ありがとうね」
「いえ」
「全く。近頃の若いモンは、困っていても見て見ぬ振りだからね。
こんなしがない年寄りだと余計に。
ああ、もう、転んだときは本当にびっくりした!」
「無事で良かったです」
「アンタみたいな人がいてくれて助かったよ」
「いえ、大したことはしてませんから」
どうぞ、と、韮崎さんは、さっき拾い上げたお婆さんの手提げを手渡す。
お婆さんは黙って受け取り、じろじろと遠慮なく眺めたあと、あはは、と、大きな口を開けて笑い出した。
そして笑いを収めてから言った。
「何だか奥ゆかしいねぇ、若いのに。
全く、本当に、イイ男だねぇ」
「は……」
「顔も良いけど、性格も良いね。
だからこんなに美人の恋人もいるんだねぇ」
お婆さんはパッとこちらを向いて、あたしと目が合った。
「お似合いだよ」
ドキッとした。
――恋人。
――お似合い。
韮崎さんは、何て答えるんだろう。
そう思った次には、韮崎さんが答えた。
「はい」
ハッキリとした口調で。
はい、って――言った……。
また続けざまに心臓が高鳴る。
もちろん、見ず知らずのお婆さんに訊かれて、下手に否定するよりそう答えておくことが社交辞令というか、無難なのだろうけど。
それでも。
無難な返答だろうが何だろうが、韮崎さん自身にそう肯定してもらえるのは嬉しい。
二人きりのときじゃなくて、誰かの前で、恋人同士としていられることも。
「うん。アンタ達、なかなか相性もいいじゃないかい」
お婆さんは、今度はあたし達の顔を交互に見ながら言った。
「ここ一年の間に、結婚する、って相が出てるよ」
結婚?
心臓が、嫌な音を立てた。
お婆さんは、意気揚々と続けて言った。
「アタシはね、こう見えても占い師なんだよ。
当たるって評判なんだ」
――占い師?
嘘でしょ!?
やめてよ!
一年以内に結婚、とか言わないでよ!
その相手は、あたしじゃないじゃん!
……どうして中途半端に当てるのよ!
得意気に笑顔を見せる彼女に、あたしは何も答えられない。
韮崎さんの顔も、怖くて見られない。
仕方なく笑って見せるけれど、どうにも苦笑いにしかなっていないと思う。
そんなあたしに、彼女は邪気なくにっこりと笑った。
「お嬢さん、彼のこと、離したら駄目だよ」
「えっ……?」
「駄目、駄目」
口元は上がっているけれど、今度は眼差しは真剣なもので、あたしに首を横に振って見せる。
……駄目、って――。
「離さない、ですよ」
「うんうん、そうかい?」
お婆さんは目を細めてまたしわくちゃの笑顔を見せたかと思うと、今度は韮崎さんの方を向いた。
「彼女はね、アンタにとって、女神だね。
彼女に出逢ったことで、運命の歯車は回ったよ。
成功するよ、アンタの一番の願いは。
全て前向きに考えなさい。
欲しいものを、望みを、諦めなさるな」
ポンと。喝を入れるように韮崎さんの背中を叩いた。
「そうですね」
微笑を浮かべ、落ち着いた声で韮崎さんは答える。
――女神?
赤面するような言葉。
イマドキ、そんな風に例えられるなんて。
適当な。喜ばせるために使われた言葉。
複雑だった。
それでも、疼くように、嬉しさが込み上げて。
胸の奥はぎりぎりと痛んで。
韮崎さんの、願い――。
叶ったときには、あたしは横にいない。
それでも、あたしが本当に彼の女神で、願いを叶えてあげることが出来たなら。
韮崎さんは――きっとずっと、あたしのことを心の片隅に忘れずに残してくれる。
至極哀しくて、喜ばしいこと――。
「じゃあ、本当にありがとうね」
お婆さんは、韮崎さんの両手を握って上下に振った。
続けてあたしの手にも、同じ動作をする。
手が、温かいと思った。
深い皺が刻まれた手。
何故か懐かしいと、そう思った。
お婆さんは、後ろ向きに手を振りながら歩き始めた。
あたしと韮崎さんは、後ろ姿をその場で見送った。
曲がった背中が人ごみに消えかけると、韮崎さんがこちらを向いた気配がして、あたしは隣を見上げた。
視線が、かち合う。
「女神……」
韮崎さんは呟くように言って、ぷぷっと笑う。
「ちょっと……! 韮崎さん! 笑わないで下さいよ!」
「や。……うん、ゴメン」
「もうっ! いいですけどっ!」
「拗ねなくても」
韮崎さんは、くくっと、楽しそうに笑いを抑える。
「……どうせ、女神になんてなれないし。
あたし、韮崎さんに迷惑かけたし……。
ホントに、全然駄目……」
「いや……瑞穂は女神かもな」
……は?
言われた言葉に、ぱっと顔を上げる。
「何かさ、瑞穂といると、出来ないこともできる気がする。何でも。
パワーがあるって言うか、破天荒って言うか、天真爛漫って言うか」
「……それって、褒め言葉ですか……?」
「めちゃくちゃ褒め言葉」
「………」
「お婆さんの言葉――前向きに考えろ、諦めるな。
……そうだよな。ホントに、そう思う」
韮崎さんは呟くように言い落として、あたしを見た。
真剣な目が、見つめてくる。
「社食の件、オレに任せてくれないか?」
「……えっ?」
「やるって言ったり、出来ないって言ったり。
一転、二転しておきながら、こんな風に言うのは最低だけど」
「だって……さっき、あたしに引いてくれ、って……」
「それは、やっぱり俺の仕事だから」
「……え」
「瑞穂を見てたら、やっぱりやらなくちゃ、って思った。
出来る、って思った」
「それに、」と、韮崎さんは、今度は空を見上げて言った。
「瑞穂のために、これだけは、俺がどうしてもやり遂げたい」
あたし、の……?
あたしの、ため……?
「俺は、これくらいしか、瑞穂に出来ないよ」
韮崎さんは、少し苦しげに笑みを作って言った。
あたしはかぶりを振った。
これくらいしかできない、なんて――彼女との未来を含んでいる言葉。
そしてあたしとの関係が未来のないものだって、そう意味を含んだ言葉。
お婆さんが言ったことなんて、全然当たってない。
あたしと、なんて、ありえない。
だけど、それでも。
嬉しいと、思う。
韮崎さんが、あたしのためにしてくれること。
彼女でも誰でもなく、あたしのために。
最終的には繋がらなくても。
今は、この気持ちが繋がってるって……思いたいよ。
そう、思っちゃ駄目かな……。
「……韮崎さん」
「ん?」
「あたしのため、って言うなら、一緒にやらせてください」
「………」
「韮崎さんと一緒に、頑張りたいです」
韮崎さんは、じっとあたしのことを見つめる。
目を細めてから逸らし、眉を寄せ、返答に悩んでいるようだった。
そして、数秒後、答えが返ってきた。
「瑞穂には……やっぱりかなわないな……」
柔らかく、微笑まれる。
胸が、きゅっとした。
それは、いい、って取っていいんだよね……?
あたしは、韮崎さんの手を取った。
会社の近くでこんなこと。
いけない、って分かっていても。
でも、どうしても今、触れたかった。
「韮崎さん、次の休みに、葉山へ行きませんか?」
「葉山……?」
「一緒に行こうって、約束したでしょ?
もう、時期的に虫の音、聞けなくなっちゃうから、聞けるうちに行きたい。一緒に」
ぎゅっと、掌に力をこめる。
「うん」
そう答えた韮崎さんの手は、あたしの掌を同じように強く握り返してきた。