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訊かれたことには笑顔で丁寧に答える。
コレはどちらかと言うと、元々あたしの得意分野。
「是非、お願いします」
ほんの少しだけ首を傾け、上目づかいをしてみせるのは、条件反射。
別段、意識してやっているわけでもない。自然とそうなるだけ。
石田さん曰く、葉山さんはいつもくねくねして男を誘ってるようにみえる、らしいけど。
半分は当たっていると思う。
誘っているわけじゃないけれど、こういう仕草は男受けが良い。
お陰様で、あたしが集めた署名は男性社員の名前の方が断然多い。
じゃあ、と、目の前の男も、用紙の枠内に名前を書き始めた。
あたしは、ありがとうございます、と、にっこり笑って礼をする。
すぐ隣では、石田さんが女子社員に同じように頭を下げていた。
総務の子だ。見たことがある。
石田さんが協力してくれたお陰で、組合にも半ば強引にO.Kを貰った。
どうやら、副執行委員長は彼女の顔見知り……ということも関係しているようだ。
方針や細かいことは、これから決まっていくらしい。
執行部にあたしは入っていけないけれど、要望は全て伝え、陳情書も提出した。
署名も、集まり始めていた。
まずは知り合いに声をかけ、そこからまた声をかけてもらう。
その繋がりで、数日間で多方面からの署名が集まった。
あとは、今日のように昼休みに社食の前に立って声をかけることも始めてみた。
直接社食の利用者に署名を求めるのは手っとり早い。
殆どの人の思うところは、結局一緒だから。
……味覚が狂ってる人じゃなければ、ね。
調査の方も、今のところ大きな問題もなく順調に進んでいる。
だからこそ、報告書が提出された後の忙しくなる前に、どうにか署名を集めておきたい。
やるならちょうど今なのだ。
韮崎さんには、話していない。
石田さんにも、彼には言わないで欲しいとお願いした。
当然、不審がられたけれど。
韮崎さんは上司だから仕事も行動もやりにくくなるとか何とか適当に言ったら、どうにか納得してくれた……みたい。
とにかく自分で頑張りたい。
すぐに伝わってしまうのは分かっているけど……。
その時、韮崎さんは、どう思うんだろう……?
「何やってんの、瑞穂?」
よく聞く声の主の方へと振り向く。
人だかりの中に、ミカと菜奈は目を丸くして立っていた。
社食の二か所ある入り口のうち、菜奈とミカがあまり使わないほうを選んで立ったけれど、それでもここでかち合うことは想定していた。
……出来れば会いたくなんてなかったけど。
「何って、この間、二人にも署名してもらったでしょ?」
二人には既にあらましの話をして、署名ももらった。
まわりに声をかけてくれ、多少なりでも協力してくれている。
けれど、詳しくは話していない。
あたしの性格をよく知っているせいか、何となく話しづらいというか、恥ずかしいと言うか……。
「署名って、こんなとこで集めてんの? 瑞穂が?」
信じらんない! と、ミカが眉間を寄せて言う。
ああ、ほらね……。
そう言われると思った。
「どーしちゃったのよ、瑞穂!」
「あたしのことはいいから、早く行きなよ。
お昼食べに来たんでしょ?」
返しながら、二人の背中を押した。
ミカの言いたいことは分かってる。
あたしが社内で立って声を出して頭を下げて――こんなことをやってること自体が信じられない、って思ってる。あの、プライドの高い瑞穂が、って。
正直、こういうことをするのが恥ずかしくないって言ったら嘘になる。
ハッキリ言って、あたしだってこんな姿、見られたくなんてない。
特に、知らない人ならまだしも、良く知った友人に。
でも、しょうがないじゃん!
ぐいぐい押してやってるのに、ミカは強引に足を止めて振り返る。
「ちょっとさ、マジでどうしたの、瑞穂?」
「どうしたもこうしたもないし。
社食を変えたいって思ったの、自分だもん。
だから、自分でやるの」
「だからぁっ! 何で言わないのよ!
ちょっと、水くさくないっ?」
「――は?」
「手伝うよ!」
今度は菜奈が言って、あたしの手から署名の用紙を奪った。
ミカも、ニッと笑うと、すぐに歩いている社員に声をかけだす。
続けて同じように、菜奈も。
……信じらんない……!
ポン、と、腰の辺りをはたかれた。
その相手、石田さんを見ると、目配せして微笑んでくる。
もう、ヤバい……。
何か、泣きそうだ。
我慢出来なさそうになって、じんわりし始めた目尻のあたりを手の甲で擦った。
「こんなところで何をやってるんだ!」
いきなり上げられた大声に、固まった。
手も目の下にあるまま。
周囲がざわめく。
目の前には、年配の男性が凄い形相で立っていた。
パッと見ただけでも、偉い人なんだろうと思った。
後退ぎみの額の上は少し強引な七三分け。
怒っているのに少し下がった太い眉に、銀縁眼鏡の奥の細い目。
何となく見覚えのある顔だけれど、思い出せない。
誰だっけと考えると、石田さんが隣で答えを言った。
「常務……」
――常務?
「君たち、ちょっと来なさい」
「……え」
「いいから、来なさい」
一言が有無を言わせない、威圧的な言い方だった。
常務は、眼鏡の奥の目をさらに細めてあたしたちを見た。
あたしは石田さんが返事をする前に、ひとり常務の前に出た。
「私が責任者です。
彼女たちは、お願いして今少し手伝ってくれただけなので、関係ありません。
私だけでもいいですか?」
「ちょっと、葉山さん」と、石田さんがあたしの腕を掴んだ。
あたしは拒否するようにその手を振り払った。
常務は、どうでもいいとでも言いたげに、ふん、と鼻を鳴らした。
「とにかく、来たまえ」
「はい」
素直に答えて、菜奈とミカにも合図するように小さく首を振った。
菜奈とミカまで巻き込むわけにはいかない。
すぐ横にいる石田さんの目にも、合図する。
歩き出した常務の後についた。
興味本位の視線がいくつも追ってくるのを感じる。
勝手な噂話のネタにされるんだ、きっと。
それでも、今皆の前で何か言われるよりは、ずっとマシ……なはず。
連れていかれたのは、会議室だった。
いつもは上役達がここに集まるのだろう。机と椅子が乱れもなく整然と並んでいる。
常務とあたし以外いないそこは、シンとして空気が張り詰めていた。
強い態度とは裏腹に、心臓がバクバクしている。
言われることの大体の予想はつくけれど、それでも何を言われるのか……。
いきなりクビ、とか、言わないよね? さすがに……。
「噂は、耳にしていたんだ」
常務の声が、随分と反響したような気がした。
耳のなかに残るくらい。
座ることもないまま話し出した常務は、あたしに正対した。
「組合にも、申し出たって話だが……?」
「……はい」
はああ、と、大袈裟な溜め息を吐き出される。
「元々組合で決定して進行しているならまだ理解出来るが、一社員が何でこんなことを……」
「会社が良くなって欲しいという気持ちからです」
「良くなって、って……」
常務は、ハッ、と、皮肉に笑う。
「他の社員に悪影響なだけだろう?」
「悪影響、って、何ですか。
そんなつもり、全くありません」
「とにかく、ああいうことは、やってもらっちゃ困る」
「じゃあ、具体的な理由を言って下さい」
「言う必要はない」
「私が、ただの一社員だからですか?」
「そうだ!
大体、こんなことをして、ただで済むと思ってるのかね!?」
常務の語尾が強まった。
そのときだった。
ノックの音が聞こえ、数秒も待たないうちに、ドアが開いた。
「失礼します」
息を切ったような、早口だった。
そこには韮崎さんが立っていた。
……どうして?
驚いている間にも韮崎さんは、あたしと常務の元へと、足早に会議室の中を突っ切って来た。
あたし同様、常務も驚いた様子で彼の方を向いた。
「韮崎くん、何だね。
今、彼女と大事な話をしてるんだが」
「大変申し訳ありません」
「一体、何なんだね!?」
「彼女に頼んだのは、私です」
――えっ?
「何だって?」
常務の声が裏返る。
あたしも韮崎さんに釘付けになった。
「彼女に署名を集めるように頼んだのは、私です。
元々、この企画は私のものです。彼女のものではありません。
責任なら、私が取ります」
「何を言ってるんだね!」
「こちらが、企画書です」
韮崎さんは、常務に紙の束を差し出した。
――コレは……。
「次の会議でかけられるように作成してあります。
先に常務に目を通して頂けるとありがたいです」
「会議って―― 一体、どういうことだね!
本当に君がこの件の首謀なのか!?」
「とにかく、そういうことですので、失礼します」
ぽん、と、背中をはたかれた。
「行くぞ」と、声を出さずに、彼の唇の動きが言う。
「君!」
呼び止められているのもかかわらず、韮崎さんは振り返りもしなかった。
相手は常務だというのに――。
あたしのほうが、心配でドキドキした。
こんな態度を取って、大丈夫なのかと。
けれど、これ以上事を大きくしないためにも、あたしは黙って彼に従った。
会議室を出てドアを閉めると、中からバンッと大きな音が聞こえて、つい身体がびくっと反応した。
机でも思い切り叩いたような音。
常務は激怒している。
なのに、気にも留めていないように韮崎さんはそのまま進む。
「韮崎さん!」
「………」
「どうして?」
「………」
「韮崎さんってば!」
「君の友達が呼びにきたよ。
常務に連れて行かれたって」
あたしを見ないまま韮崎さんはそう言い、エレベーターの前を通り過ぎ、廊下の突き当たりの角を曲がった。
その先の階段を下りる。
あたしもその数段上からついて下りる。
友達って……菜奈とミカ?
韮崎さんを呼びにいってくれたの?
それで、急いで来てくれたの?
あのとき――韮崎さんの部屋で作っていた企画書を持って……?
出来ない、って言われたのに……。
それなのに、あたしが彼に、こんなことをさせた。
責任者だとか……企画だとか……韮崎さんのせいにさせてしまった。
結局、迷惑をかけた……。
韮崎さんは止まらない。
踊り場をくるっと回り、また次の階下へと下がって行く。
「……スミマセン……」
「全く、無茶するな、君は」
「常務――……大丈夫、でしょうか……」
「心配するな」
「でも」
「何を今更」
韮崎さんは、あたしの言葉遮って足を止めた。
そして振り向き、あたしよりも数段下の位置から見上げてくる。
「君は、この件から手を引いてくれ」