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変えよう、やろう――そう決めたのはいいけれど……。
実際、どうすれば変えられるのかなんて、簡単に思いつくわけがなかった。
企画や組織に絡むなんて、あたしにとっては有り得なかったこと。
韮崎さんは『会議にかける』と、当然のように言っていたけど。
あたしにとっては、それが何の会議なのかさえ、分かってなくて……。
その上、それがたとえどの会議なのか分かったとしても、あたしがそこに出席できるはずもない。
理想の形はあるのに。
それは――ほんの少しだったけれど、一緒に語ったのに。
自分一人で作ってみた企画書に目を落とした。
大体、企画書自体、こんなものでいいのか――とも思う。
きっと、韮崎さんがあの日作っていたものは完璧なのだろうし。
自分の企画書が、陳腐に思えてくる。
誰かに相談できればいいのに。
本来なら、韮崎さんにするのが一番いいのだろうけど。
無理だって言われて、その理由は教えてくれなかった。
だから、韮崎さんには相談できない。
一人で、やらなきゃ。
「あれ? 葉山さん」
突然の声に、慌てて企画書をテーブルに伏せた。
そして、顔を上げた。
「石田さん……」
「こんなところで珍しいわね。しかも、一人なんて」
それって、嫌みなのかなと思いつつも、とりあえず愛想笑いを返した。
何となく菜奈やミカと、今一緒に楽しくおしゃべりする気力がなくて、あたしは昼休みに一人で販売促進部と同じフロアーにある休憩室に来ていた。
初めて来てみたけれど、利用する人はわりと少ないのか、この時間でも席は半分くらいしか埋まっていない。
あはは、と男の人の大きな笑い声が、一番向こう側で上がった。
「お昼、もう食べたの?」
あたしに尋ねながら、石田さんは勝手に対面の席に腰を下ろした。
そして手に持っていたお弁当らしき包みを、テーブルの上に置いた。
……ココで一緒に食べる気?
嫌だなぁと思いつつも、答えた。
「これからです」
「葉山さんも、もしかしてお弁当?」
「そうですけど」
「へぇ……」
何、その返事……。
どうせ、料理出来ないとでも思ってるんでしょ?
ムカつくなぁ。
わざわざ前に座ったのもきっと、あたしがどんなお弁当を作るのか、興味があるんでしょ?
弁当の包みを広げ始めると、様子を窺うような石田さんの視線を感じた。
あたしは、構わず堂々と蓋を開けた。
ピタッと、石田さんの目が留まる。
「何か、葉山さんのお弁当、凄くない?」
「大したことなくて、恥ずかしいですー。
あんまり見ないでくださいね」
当然、と思いつつも、一応は謙遜してみる。
いや、嫌みを含めて。ついでに微笑んでやる。
昨夜のうちから漬け込んでおいた鳥の照り焼き。
あさつきと海苔を巻き込んだ出汁巻き卵。いんげんとにんじんの肉巻き。
それに、彩りを添える真っ赤なプチトマト。
三色の俵おにぎりは、海苔を花型のパンチで抜き、レース模様のようにして可愛らしく巻いてある。
多分、普通に見ても、十分なほうだと思う。
一人暮らしで、朝からこんな風にはなかなか作らないでしょ。
「もしかして、コレ、葉山さんが作ったの?」
「はい」
「へっえー、驚いた。
料理、得意なんだね」
「好きなだけです」
「私の見ても、笑わないでよね」
手抜きだから、と、石田さんは、苦笑いをした。
蓋を開けた石田さんのお弁当は、想像よりはずっと立派なものだった。
特別に凝っているわけではないけれど、簡単なものでも栄養バランスや色味も考えて作ってあるようだ。
白米の上に焼き鮭。卵焼き、にんじんとちくわの煮物、ブロッコリー。
普通に美味しそう。
……て、ゆーか、驚いた。
だってこの人も、料理なんて出来なさそうだし。
冷凍食品しか、入ってないかと思った。
あたしの視線に気が付いた石田さんは、「何?」と、怪訝な顔をした。
「美味しくなさそうとでも言いたい顔ね」
「まさか。十分だと思いますけど」
「それって嫌味よね」
ふん、と、鼻を鳴らされた。
素直にとればいいのに。
嫌なカンジ。
ムカつくから、それ以上取り繕うのはやめた。
勝手にどうとでもとればいい。
あたしは弁当に向かい、いただきます、と小声で挨拶してから食べ始めた。
久し振りに朝から作ったっていうのに、気分が悪い。
お互いに、無言で口に運ぶ。
どこからともなく、楽しそうなお喋りの声が耳障りに流れ込んでくる。
ここだけ切り取ったように不穏な空気が取り巻いている気がした。
どう考えても、石田さんはあたしのことを良く思っていない。
話もしたくないなら、わざわざ前になんて座らなきゃいいのに。
あたしだって、昼休みまで彼女の顔なんて見たくないし。
だけど、これじゃあどれだけ経ったって変わらないまま……。
思い直して仕方なく、あたしはコミュニケーションを取ることにした。
これも、仕事の一環。
取りあえず、笑顔。
「お弁当、美味しそうですよ。
石田さんって、何でも出来るんですね。仕事以外も」
「……葉山さんこそ。
何にも出来なさそうな顔してるのに」
……失礼な。
って、あたしも同じか。
「いつも、お弁当なんですか?」
「大体ね。外に出ると時間かかるし、不経済だし。
それに、社食は不味いし」
――あ。
やっぱり……。
石田さんもそう思ってるんだ。
そうだ……石田さんに、相談できないかな?
彼女なら、そういうの、詳しそうだし。
少しは仲良くなれるかも……。
「社食が美味しくなったら、石田さんも行きますよね?」
そう言ってみると、はぁ? と、石田さんは眉を寄せた。
「美味しく、って……なるわけないじゃない」
「だから、なったら、って言ってるじゃないですか」
「そういう予定があるって、誰からか聞いたの?
もしかして、主任?
ああ、それとも佐藤さん?」
馬鹿にしたように、石田さんは皮肉を含めた顔で言った。
「どうして佐藤さんが出てくるんですか。
彼は全く関係ないです。
あたしが、変えたいって思ってるだけです」
「あなたが?」
「そうです。
だって、食品メーカーの社食が美味しくないなんて、おかしいと思いませんか?」
石田さんはいきなり大笑いを始め、あまりにも大きな声のおかげで、休憩室内の注目が集まり始める。
あたしがキッと睨むと、彼女は途中でどうにか笑いを収め、目元を押さえながら言った。
「そりゃあそうだけど。
何、今更なこと言ってるのよ」
「今更で済ませたくないんです。
自社商品を――会社を、好きになりたいから。
だって、何かを始めなきゃ、何も変わることはないんですよ」
「だからって、あなた一人で出来るわけないでしょう?」
「やってみないと分かりません」
石田さんは右手をぶんぶんと左右に振り、「無理無理」と言った。
「出来るわけないって」
「だから、やってみないと分からない、って言ってるじゃないですか」
「じゃあ、具体的にどうやってやる気なの?
言ってみなさいよ」
「まだ、企画の段階です」
あたしは、テーブルの端に伏せてあった企画書を彼女に差し出した。
石田さんは目を丸くさせて、無言でそれを受け取った。
彼女の視線が、紙の上の文字を追っていく。
妙に緊張した。
どういう評価を彼女から受けるのか。
読んでいる時間が、長く感じる。
また、馬鹿にされるだろうか。
そう思うと、彼女は「ふぅん」とあたしに企画書を返してきた。
「まぁ、面白いとは思うけど」
「け、ど?」
「無理よ、無理。
こんなの、出来るわけないでしょ?」
「どうしてですか?」
どうして? と。彼女は分からないはずがないでしょとでも言いたげに、鼻で笑った。
「こんな会社内部の改善を、あなたみたいな平凡な一社員が出来るわけないでしょ?
大体、経営陣の目に入る前に、一蹴されるわよ」
「だから、どうやったら目を通してもらえるのか、石田さんだったら知ってるかと思ったんですけど」
「主任にでも言ったら?
彼なら、業務管理部では副本部長なんだから」
「あたしは、石田さんに訊いてるんですよ?
主任じゃありません。
それとも、やっぱり分からないですか?
石田さんって凄いなぁーとか思ってたのに、あたし、買いかぶり過ぎてますかね?
出来ないって、やる前から決めつけてるんだから、そーですよね?」
「だからっ! 主任に頼むのが一番の近道じゃないっ!
主任なら、経営企画の会議にもかけられるでしょっ!」
――韮崎さんが、一番の近道……?
韮崎さんに出来ないって言われてるんだから、やっぱり無理ってこと……?
「たかだか平社員一人の意見で、動いてくれるはずないけどね」
石田さんは吐き捨てるようにそう言うと、止まってしまっていた箸を再び動かし始めた。
―― 一人の意見。
「……じゃあ、一人じゃなかったら?」
「はあっ?」
「だって、きっと、同じように思ってくれる人って、沢山いると思うんですけど。
現に石田さんだって、面白いって言ってくれたじゃないですか」
「言ったけど……とにかく、無理よ、無理!
私たちは、あくまでも販売促進部! 販促よ!
する仕事が違うでしょ! 大体アナタ、今やるべきことは違うでしょ!
どうしても変えたいなら、異動願い出して経営企画に関わる部にいくか、組合に嘆願書でも出してみるのね! 社食を美味しくして下さいって!」
「組合……。
そっか、組合もあるのか……」
石田さんは呆れた顔をしたあと、眉の形を歪めた。
「あなた、バッカじゃない!?
ホント、馬鹿! 思い付きだけでなんにも考えてないのね!」
石田さんの大きな罵倒の声に、俄に周囲がざわつき、何事かとちらちらと様子を窺う視線が刺さる。
あたしは殆ど手をつけていない弁当の蓋を閉め、さっさとしまうと立ち上がって彼女に頭を下げた。
「ありがとうございました」
思い付きが何さ。
不平を並べて我慢するだけより、行動に移した方がずっといいじゃない。
少しでも可能性があるのなら、最初から無理と決めつけるよりも。
確かに、前までのあたしだったら絶対にやらなかったことだけど。
そういえば、いつだか言ってたな、菜奈が。
――『瑞穂を変えていくのは、韮崎さんなんだね』
……そうかもしれない。
彼に会ってから、あたしは確実に変わった。
恋をして、無我夢中で突き進んでいる中で。
仕事に対する姿勢も、誰かを思いやる気持ちも、前向きに考えることも。
ふと。拓馬のことも思い出した。
アイツにも、もう馬鹿にされないような人間になろう。
今迄は、トラウマから外見ばかりに囚われてきた。
綺麗でいれば、まわりにちやほやされて、一目置かれて。――認められる、って思ってた。
でも、そうじゃない。
外見だけじゃない、内面も強く美しくならなきゃ。
適当、じゃなくて――やれることを、精一杯やろう。
「いやー……」
難色を示すその声だけで、次の言葉の予想は出来た。
目の前の女性は、テーブルに肘をつけながら人差し指でメガネをちょいと上げて答えた。
「コレ、ウチでは出来ないですよ。
だって、組合でやるような案件じゃないでしょう?」
「社食が美味しくないってことは、社員の誰もが思ってることです。
それを改善して欲しいって組合に訴えるのは、おかしなことじゃないと思います。
ウチは食品メーカーです。
社員が社内の物を美味しいと感じて、仕事に対する意欲を作ることだって大事でしょう?
改善に対する署名は、あたしが集めます。
だけど、一人だと時間も労力も限られます。
それを、組合員さんに声掛けして欲しいんです」
あたしは労働組合に直談判に来ていた。
組合から、社食改善の広報を出して、署名集めに協力して欲しいと。
石田さんとの話をヒントとして、あたしはここ数日、家に帰ると社食改善案をどんどんと詰めていった。
まずは組合を通した社員食堂改善要請の署名を集めること、それが第一段階。
石田さんの言う通り、あたしみたいなただの一社員が、いきなり企画書を持って経営上層部に持っていったって、笑い物になるだけ。
署名が集まった上で、会社にも店にも社員にもメリットあるような企画書を出す。
上手くいくかなんて分からないけれど。
署名が集まれば、結果は変わらずとも、会社側はそれなりに反応を出してくれるはず。
「だけど、結局今のところは、あなた一人の意見でしょう?」
「今は、そうかもしれないですけれど……それじゃあ、組合は組合員一人の意見だけじゃあ何も出来ないんですか?
労働者のためのものじゃないんですか?」
「そう言われても……ウチも組織ですからねぇ」
溜め息が零れた。
……組織。
「お願いします」
頭を下げた。
こんなことをしても、無駄なのか。
でも今は、こうするしか出来ない。
「じゃあ、一人だけじゃない意見なら、やってくれる、ってことですよね?」
いきなり割って入った、低めの女性の声。
あたしの頭の上から聞こえた。
振り返った途端、石田さんに腕を掴まれ立ち上がらせられた。
「夕方までに、数名の署名を入れた嘆願書を持ってきます」
「……は――」
「では、そういうことでお願いします。失礼します」
組合の職員が有無を言う前に、石田さんはさっさと歩き始める。
早くしろとでも言わんばかりに強く引っ張られ、あたしは歩きながらも後ろを向いて慌てて礼をし、その場から立ち去った。
……何で石田さんが?
疑問に思いつつも彼女に促されるまま後をついていく。
組合を出ると、石田さんはパッとあたしの腕を放した。
そして、間近で睨んでくる。
「ホント、あなたってバッカじゃない?」
「馬鹿、って――」
「一人で組合のほうに行くのを見かけて――まさか、と思ったけど。
なんで何の用意もせずに行くかな!
ホント、考えなしね!」
「別に考えてないわけじゃないですよ!
あたしはあたしなりに、考えてますっ!」
「足りないのよ! それだけじゃあ!
もっと確実に固めてからにしなさいよ!
出来るものも出来なくなるじゃないっ!」
「だってそんなんじゃあ、いつまで経っても行動出来ないじゃないですか!
やってから得られることだってありますっ!」
「それじゃあ駄目だって言ってるの!
もっと頭使って落ち着いて行動しなさいよっ!
大体ねっ! 組合ってのは、会社と相対してるのよ!
経営陣からすると、嫌がられるものなの!
組合が動いてくれたとして、あとから企画を出す、ってことも、分かってんのかな!」
「分かってるから、一人でやってるんですよ!
あたしには元々何もありません!
クビになろうが、何も変わらないよりもマシですっ!」
「何であなたみたいな人があたしの上に立ってるのよ!
大事なプロジェクトを任されてるのよ! 信じられないっ!」
ああ、もう! と、石田さんは苛ついて頭を掻きむしるように、自分の髪をぐしゃっと掴んだ。
ゆっくりと手を下ろすと、目を細め、あたしを睨むように見つめる。
「私、あなたみたいなタイプって嫌いなのよ」
「……知ってます」
「可愛くてスタイルも良くて、それを分かっていて自分を武器にして、何もやらないでいいところだけ持っていく女。
良い顔だけして、へらへらして」
「酷い言いようですね。
あたしだって、嫌いですよ。
自分を磨きもせずに勝手に人を僻んで蔑む女、なんて」
石田さんは、唇をぎゅっと横に結んだ。
あたしはそれを見て、続けて言ってやった。
「でも、悔しいけど、憧れます」
「……は?」
「石田さんは、自分で立ってる。
仕事も出来て、皆から一目置かれてて、人望があって信頼もされてる。
あたしには全くないものを、持ってる」
「………」
彼女は眉をひそめ、黙ってあたしを見ていた。
そして、ふう、と息を吐き出すと、あたしも、と言った。
「あなたの言う通りよ。
だけど、ちょっと見方が変わったわ。
誰にも力を借りずに、一人でやってるあなたを見たら、意地悪するのも馬鹿らしくなっちゃった。
私てっきり、佐藤さんか主任にでも、力を借りるのかと思ってた。
こんな無鉄砲なことやっているようじゃ、あなた一人でやってるって、バレバレ」
「………」
「あなたのことだから、私がああ言った意味、分かってるんでしょ?」
「……いいんですか……?」
「気が変わらないうちに、お願いしたら?」
「……嘆願書、よろしくお願いします。夕方、までに」
あたしは前で両手を重ね合わせ、深く頭を下げた。
顔を上げると、相変わらず不機嫌な顔が言った。
「言っとくけど! 男の署名はあなたに任せたからねっ!
あなたのお得意のお色気作戦があるでしょ!」
「……お色気、って……。
石田さん、一体いくつですか……?」
「うるさいわねっ!
何でもいいから、取ってきなさい!」
人差し指が、あたしにビシッと向かった。
命令口調。
まぁ、いっか?
「はい」
あたしは、にっこり笑って答えた。
目の前の不機嫌だった顔も、そこでようやく崩れてくれた。