32
次に目が覚めたときには、黒く染まっていたはずの遮光カーテンは薄っすらと色付いていた。
どうにか視界がとれるほどの部屋の明るさは、まだ陽が昇る前の色だ。
今、何時……?
眠たい目を擦ると、何か小さな物音がした。
なめらかな、衣擦れの音。
あたしはベッドから身体を起こし、音を発する元に近づいた。
「もう、起きてたんですか……?」
韮崎さんは、昨日と同じ柄のネクタイを締めながら、あたしの方へと振り向いた。
「ゴメン、起こした?」
「ううん」
「瑞穂はまだ寝てていいよ。
今日は、平和商事の店舗をいくつか回ってから帰ってくるんだろ?
チェックアウトぎりぎりまで、ゆっくりしてればいい」
「今日仕事なのは、一緒だし。
韮崎さんのほうが、あたしなんかよりもずっと大変でしょ?」
「睡眠不足は、女の大敵じゃないの?」
「韮崎さんのおかげで、既に睡眠不足だもん。
せめて下まで、送ります」
これ以上断れないように、と、彼の身体に腕を回した。
東京に戻ったら、また変わらない毎日に戻ってしまう。
会社では素っ気ない韮崎さん。
ただの上司と部下という、二人の関係。
だったら少しでも長く、恋人同士の気分でいたい。
韮崎さんは諦めてくれたのか、ふっと笑った。
「うん」
ぽん、と頭の上で掌が跳ねたかと思うと、彼の唇が掌と同じ場所に触れた。
何だか本当に錯覚してしまう。
普通の、恋人同士みたい。
「あたしも簡単に、支度しちゃいますね」
彼から離れると、自分も急いで着替えを始めた。
顔を洗って、取りあえずは外に出られるくらいのごく簡単なメイク。
髪はシュシュで軽くまとめて。
ざっと身支度が終わると、カーテンを開けた。
ホテルの部屋としては下層階だけれど、それでもそこから向こう側に街が見渡せる。
黄色みを帯び始めた紫の空の下には、色とりどりの電飾がまだ無数に点っている。
博多は――あたしは、福岡自体が初めてだけれど、想像していたよりもずっと都会で。
駅周辺には、望むものは全て揃っているよう。
あの中に紛れたら、きっと虫の声なんて聞こえない。
あたしはレースカーテンを閉めると、部屋へと向き直った。
「韮崎さん、朝食は?」
確か飛行機は、7:05の便と言っていた。
博多から福岡空港までは、車で15分程度の距離。
この時間なら、ココのホテルからでもまだ多少の余裕がある。
「途中で何か買おうと思ってたけど、その辺で一緒に軽く食おうか。
24時間営業の店、あるかな。ファーストフードか、ファミレスか……」
「お店は多いから何かありそうだけど。
マックとか? スタバ? ドトール?
韮崎さん、何が好きですか?」
「俺は何でもいいよ」
「じゃ、適当に歩いて探してみます?」
「何か、こういうのって、学生の頃を思い出すな。
オールして、このくらいの時間に、開いてる店探して入ったりしたよな」
それって……。
「……女の子、と?」
あたしの問いかけに、韮崎さんは表情を止め、そして、笑った。
「瑞穂って、可愛いな」
「――は……」
焼もちと、思われた?
確かに、そう――だけど。
妬いた。過去に。
そんな韮崎さんを知っている、知りもしない人に。
だって、あたし、韮崎さんのこと、ほとんど知らない。
もっと、知りたい……昨日みたいに。
身体を重ねるだけより、ずっと深く繋がった気がするから。
こんなに誰かの全てを知りたいなんて――。
「下に行ったら、フロントで訊いてみよう」
韮崎さんは優しい顔で言って、あたしの手を取る。
繋がった手が、自然過ぎて。
そうするのが、当たり前のようで。
まるでいつもそうしているみたいで。
信じられないくらい、今――イイ感じ。
昨日もだけど。
心が近づいたみたいに。
本当に、錯覚しそう。
もしかしたら、韮崎さんは、あたしに少しは傾いてくれてるのかも、って。
好きでいてくれてるんじゃないか、って。
そんなこと、思うのも願うのも駄目なのは、分かってるんだけど。
だけど――。
だって今、凄く幸せな気分。
いつも会社で見かけるビジネスバッグのみの韮崎さんは身軽で、手を繋いだまま部屋を出てエレベーターに乗り込んだ。
ぴったりとくっついていなくても、手だけ繋がったこの距離感が逆に安心出来る。
体温を感じる先を追って見上げれば、そこには彼の柔らかい顔つきがあって。
見つめれば、すぐに見つめ返してくれる。
韮崎さんは、ほんの少しだけ不思議そうにあたしに微笑んだ。
「何?」
「ううん、ただ……」
「ん?」
「やっぱ、何でもない」
はにかんで、前を向き直した。
こういうの、幸せだって、言いたいけど。
それは、我慢。
言葉に出さなくても、自然と感じられるこの空気を壊さないでいよう。
同じように思ってくれればいいな。
エレベーターが一階に到着すると、チン、と独特のベルのような音が鳴って、ドアが開いた。
二人で一緒にロビーに足を踏み出す。
けれど、その途端にするりと手が離れた。
それは、どちらともなく、お互いに。
向こう側のソファーにある姿を見つけてしまったから。
何で……!?
テーブルで今の今迄キーボードを打っていた拓馬の手が、パタンとノートパソコンを閉じ、ソファーから立ち上がった。
そして、そのままあたし達の方に近づいてきた。
「おはようございます。
韮崎さんも、一緒だったんですか。
一人で出張だと伺っていたので……これは、失礼しました」
何事もないように拓馬は笑みを浮かべながら言い、会釈した。
突然目の前に現れた拓馬に、あたしはまるで口を奪われたかのように言葉がひとつも出ない。
何で、コイツがココにいるの……!?
そんなあたしの横で、韮崎さんは動揺する素振りもなく答えた。
「……いえ。
こちらこそ、申し訳ありません。
仕事とはいえ、昨日も接待の後、遅くまで打ち合わせを――」
「いいわけは、いいですよ」
韮崎さんの言葉を遮るように、ぴしゃりと拓馬が言った。
もともと静かなロビーが、水を打ったようにシンとする。
「いいわけ、って――」
何なのよ、と、声を上げようと思う間に、拓馬はふっと、怖いくらい穏やかな笑顔を見せた。
「仕事で夜通しなんて、私もよくあることです。
彼女のことは信用していますし。
それに、韮崎さんには婚約者もいるんですし、邪推するほうが失礼でしょう。
真面目に時間を削って仕事をしているひとに」
拓馬は韮崎さんから今度はあたしに視線を移し、続けた。
「ホテルは、石田さんに昨日訊いてたから知ってたんだ。
で、夜、チェックインしてるはずなのに、フロントから部屋に電話入れてもらっても全然出ないし。
疲れて寝ちゃったのかと思って、仕方なしにココで仕事しながら待ってたんだよ。
心配もしてたけど、韮崎さんと一緒だったなら良かった」
――何、を……。
何でわざわざそんなことを言うのよ?
しかも、全部分かっていて、聖人みたいな顔つきまでして嫌味を込めて。
本当の彼氏なんかじゃないのに!
「……何で、こんなところにいるの」
怒りを堪え、睨みながら低い声で訊くと、拓馬は大袈裟に両手を上げて渋い顔をした。
「冷たいなぁ。
昨日、出張で長崎に来てたんだよ。
で、今日は広島で仕事があるし、ついでというより、その前にわざわざ寄ったんだろ。
調査員の手配があるから、決まったらすぐに連絡して欲しい、って言ったのに、ないから」
「――あ……っ」
連絡――忘れてた!
何をやってるの、あたしは……!
韮崎さんが来てくれたことに感動して、肝心の仕事をおろそかにしてるなんて……!
確かに、簡潔で友達同士のやりとりみたいなメールだったけど、決まったらすぐに連絡しろ、って言われていたのに。
「申し訳、ありません……っ」
自分自身に呆れ返りながら、頭を下げた。
拓馬にこんなことをしなくちゃならないのは悔しいし、また彼氏の振りまでされてムカつくけど。
人の非難をするよりも先に、自分がなってないなんて――。
『出来る』と言った拓馬に、甘え過ぎてる。
隣で、韮崎さんの頭も深く下がった。
「申し訳ありませんでした」
垂れた髪の隙から韮崎さんの見たくない姿が覗き見えた。
そうさせているのは、あたし自身。
重石でも乗せたように、ずんと身体の奥の方に響いた。
韮崎さんにまでこんなことをさせる羽目になるなんて。
本当に、あたしってば、馬鹿!
きっと、拓馬だけじゃなく、韮崎さんだって呆れてる。
どうにもならないやるせなさを飲み込み、顔を上げると、韮崎さんが先に拓馬に尋ねた。
「九州の店舗の参加が決定しました。
調査の手配は、今からでも間に合いますか?」
「もちろん。
……と、言いますか、もう既に手配を進めていますので」
……えっ
拓馬は韮崎さんからあたしに視線を移し換え、言った。
「葉山なら、ちゃんと実行してくると思ったから。
今からの手配でも間に合うんだけど、他店と同時期から調査を始められたほうがいいだろうし、早めにやっておいた」
ニッ、と。子供っぽく笑う。
何を言ってるの、コイツ。
ちゃんと実行、って、信用、って――。
もし駄目だったら、どうする気だったのよ!?
呆気に取られていると、拓馬は、ソファーの上にあった紙袋をさっと取り、それをあたしに差し出した。
「それに、コレを届けに来たんだ」
見たことはないけれど、どこかのデパートのものらしき紙袋。
わけが分からないまま、あたしはそれを受け取った。
……何?
「急いでたから、プレゼント用に包んでもらわなかったんだけど、いいよな?
この間の雨の日。借りて、汚したから悪いなーとか思ってたんだよ。
同じヤツ、見つけたからさ」
拓馬がそう言ったのと、包んでいないその中身を袋から取り出してみたのは、ほぼ同時だった。
ラルフのタオル、だ。
モスグリーンの。
雨の日、拓馬がウチでシャワーを浴びて使ったタオルと、全く同じモノ。
慌てて袋に戻した。
でも、韮崎さんには完全に見られた。
あのとき、洗面所の洗濯機の上に置いてあって――韮崎さんも、見てる。
彼がシャワーを使っているときに片付けたんだから。
や。そんなの、あのときのことなんてきっと、覚えていないと思う。
その辺に置いてあるタオルなんて、目に入っても気にも留めないと思うし。
だけど――女の子っぽくない色味とか、普段はあたしが使わなそうなブランドとかが、逆に目を引いたかもしれない。
男を家に上げてシャワー使わせるなんて、当然そういうことだって思われるよね。
その上、すぐに韮崎さんを電話で呼んで――……最悪の女だ、って――。
悪い方ばかりの考えが、次々と浮かぶ。
コイツ、わざとやってるの……?
韮崎さんに、気付かせるように……?
ここに来たのも、ずっと待っていたのも、あたしと韮崎さんが一緒にいるのを知って、わざと?
つい今迄の申し訳なさも自己嫌悪もすうっと消えて、かわりに怒りが込み上げ、あたしは拳を握り締めた。
「葉山」
韮崎さんの声に急に呼ばれ、あたしはハッとして隣を向いた。
「あっ、はい」
「わざわざ見送り、ありがとう。
ここでいいよ」
「……え……」
「せっかく佐藤さんが待っていてくれたんだから、あとはゆっくりして東京に帰ってくればいい」
「えっ……あのっ」
それって、気を遣って、ってこと?
違うのに――!
それに、朝食だって一緒に食べようって言ってたのに!
何でコイツと――!
どうすれば、と、言い淀んでいると、
「いや、私もこれから仕事があるんで」
と、さっさと拓馬が断りの言葉を入れた。
あれ?
肩透かしを食う。
――だったのは、一瞬だった。
拓馬は、韮崎さんに笑顔で続けて言った。
「連絡がつかなくて心配だったのと、調査の件がどうだったか早く確認したかったから待っていただけなんで。
韮崎さん、もう行かれるなら、良かったら空港までお送りしますよ。
私、車ですから」
ちょっ……!
何言ってるのよ!
送る!?
「いや、私は――」
やんわりと断ろうとする韮崎さんを、拓馬は遮った。
「遠慮なさらないで下さい。
ここからそんなに遠くない距離ですし、私も時間にはまだ余裕もありますから。
是非、送らせて下さい」
何――考えてるの!?
車だから送る、なんて、普通のことかもしれないけど。
拓馬と韮崎さんを二人きりなんかにしたら、コイツが何言うか……!
「佐藤さん!」
行かせたくなくて、思わず呼び止めてしまった。
「えっ……と、お時間があるなら、仕事の件で少しお話が――。
先日、仰ってましたよね? 調査した店舗の売り上げを必ず上げるってお話。
今回はコンサルティング料を取らない、って。
その点の提案とご相談をしたいのですが」
笑顔を作り、顔をほんの少し傾げ、あたしは顎先で可愛らしく手を合わせた。
拓馬は一瞬眉を動かした――気がしただけかもしれないけれど、すぐににっこりと笑顔になる。
「いいですよ」
素直な返答に、あたしは顔に出さずにホッと息を飲んだ。
絶対に二人きりになんてさせるもんか。
本当に一体、何を考えてるのよ……コイツっ。
「じゃあ、申し訳ないですが、韮崎さん、そういうわけでよろしいでしょうか?」
「いえ。もともとタクシーを使うつもりでしたから、お気になさらずに。
こちらこそ、お気遣いありがとうございました。
よろしくお願いします」
拓馬に一礼したあと、韮崎さんは何でもないようにあたしに言った。
「葉山、チェックアウト頼むよ。
あとはよろしく」
「……はい」
また、ただの上司に戻ってしまった。
あんなに近くに感じたのに。
ココに来たのは、あたしのためだったはずなのに。
韮崎さんにとって、あたしの存在は何なんだろう……。
拓馬とどうであっても。親友と出来ていても。
それはそれで、本当にいいのかな……。
「では」と、韮崎さんの礼に、あたしと拓馬も同じように返す。
彼が自動ドアを潜って行くと、安堵なのかやるせなさなのか、今度は我慢せずに大きな息を漏らした。
垂らした頭の上からでも、視線が刺さってくる。
あたしは顔を上げ、睨むようにして下から見ると、すぐに目が合った。
拓馬もあたしのすぐあとに溜め息を吐き出すと、ほんの少し顎先を上げ、上から見下ろしてきた。
「……オマエ、結構、頭使うなぁ」
「………」
「オレがやらざるを得ないようにするために、わざわざ韮崎さんの前で言ったわけ?」
「……別に。嘘は言ってないし。
そう言ったのは、元々アンタでしょ」
「なかなかやるね、葉山。
何か下心でもあるわけ?」
嫌みを嫌みで返してやりたかったけれど、やめた。
あたしは一言、本当のことを返した。
「そうだよ」
拓馬は、面喰った顔をしたかと思うと、今度はくつくつと、さもおかしそうに笑い出した。
「何? 何企んでんの?」
「企んでるわけじゃないよ。
拓馬が言ったことを、本当に実行して欲しいだけ。
だって、あたしに豪語したよね?」
拓馬は何か感づいたようにあたしを見た。
まるで先見の明でもあるような、透明で、鋭い瞳。
あたしは目を逸らさずに言った。
内心、やっぱりコイツのこの目が苦手だと思いながら。
「男に二言はないよね?
しかも、M&Sの佐藤拓馬ともあろう人が」
拓馬は、ほんの少し黙ったあと、目を細めた。
「ああ、約束通り泣かせてやるよ」
そんな拓馬の言葉に、ちくん、と胸は痛んだけれど。
それでもなんら気にしていない様子をしてみせた。
あたしに意地悪するなら、あたしだって利用するまでなんだから!
もう、あのときの何も出来ない子共じゃない。
「コンサルティング料は取らないって言ったけど、具体的にどういうことをやってくれるの?」
「何でそんなに気にしてんの?」
「気になるのなんて、当然でしょ。
コレは、あたしの仕事でもあって、あたしの名誉も今後もかかってるんだもん。
調査した店舗は売り上げ上げてやるって言ったのも、コンサルティング料取らないって言ったのも、拓馬じゃん。
じゃあ、どんなことをやってくれるのかって、思うじゃない?
ちゃんと、一店一店、拓馬自身が店舗の改善に携わってくれるんだよね?」
「随分、オレのこと、買ってない?」
「買ってます」
「仕事の件では」と、強調して付け加えた。
拓馬は、ふぅん、と片目を細めてあたしを眺めたあと、いいよ、と、軽い調子で言う。
「やってやるよ。
ちゃんと、オレ自身が一店舗ずつ」
やった……!
これで、小柴社長への虚飾もなくなった!
密かに心の中でガッツポーズを取る。
それでも平然とした態度は崩さないように、どうにか堪えた。
「約束だからね」
してやったり、と思いつつそう言った途端、拓馬はニッと笑った。
まるで、逆にしてやったりとでも言うように。
「その代わり、一日付き合えよ」
「は……?」
「無料でやってやる代わりに、終わったら一日、オレに付き合って何でも言うこときけよ」
「はああああっ!?」
思わず変な声が上がる。
一日!?
言うことをきけ!?
何を言ってんの!?
唖然とするあたしに、拓馬は殊更楽しそうな笑顔を見せた。