31

無理矢理動かされていた足が、止まる。
身体も。

あたしのことが呼ばれた、と気付いたのか、強引だった小柴社長の動きも止まった。


どうして?
どうして、ココに……?


そう思ってる間に、まるでそこから奪い取るように、あたしは彼に引き寄せられた。
そして、隠すように後ろに追いやられる。

あたしの大好きな背中が、ほんの数十センチ先で半分に折れ曲がった。


「初めまして、TWフードの韮崎です。
遅くなり、大変申し訳ありません」

「はあっ?」


突然のことに小柴社長は眉を顰め、韮崎さんを睨みつけながら声を上げた。


「何なんだよ! 君は!」

「今回のプロジェクトの総合責任者です。
平和商事さんが参加して下さるかもしれないと伺い、是非ご挨拶だけでもと、出張先の香港から直行したのですが、間に合わず申し訳ありませんでした」


韮崎さんの挨拶に、小柴社長の顔つきがさっと変わる。
慌てた様子で、韮崎さんに向かって頭を下げた。


「えっ、ああ、こちらこそ。
失礼しました。いきなりで驚いて……。
平和商事の小柴です」

「今しがた、水沢から連絡がありました。
今回の調査に参加されることを決定されたそうですね。ありがとうございます。
平和商事さんはグループの中でも一目置かれていますので、ウチとしても参加して下さることは大変ありがたいです」

「ああ……はい」

「良いお返事が聞けて良かったです。
プロジェクトが成功して、より良い店舗づくりに少しでもお力添えが出来るように尽力させて頂きます。
どうぞよろしくお願い致します」


韮崎さんは、丁寧に頭を下げた。
あたしも倣って、彼の横に出て一緒に頭を下げた。

挨拶を交わしながら、動きの鈍い頭を働かせる。


出張? 香港?
挨拶、って――……


隣の韮崎さんを、ちらりと見る。


それは、もしかして――……あたしを助けるための、嘘?

もしかしなくても、今、あたしを助けてくれた。
それだけは、確かなこと。


当然同じような対応を取らざるを得ない小柴社長も、深々と頭を下げた。


「……こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

「私どもはこれから打ち合わせもありますので、これで失礼します。
本日はお忙しい中、ありがとうございました」

「……いえ、ありがとうございました」


小柴社長は、再度一礼した韮崎さんにそう挨拶すると、すぐに背を向けた。
こんな風に言われたら、退散するしかないのは当然だ。

あたしは、小柴社長の後姿を見てホッとした。
――なのに、ドキドキしてる、心臓が。さっきから、ずっと。
早く、話がしたい。


だって、どうしてココにいるの?


あたしと韮崎さんは、その場で黙って小柴社長を見送る。
自動ドアの向こう側に姿が消えると、あたしが言葉を発する前に、韮崎さんはパッとこちらを向いた。


「馬鹿野郎っ! 何で携帯切ってるんだ!」


――は?


突然怒鳴られたことに、頭がついていけない。

ぽかんと口を開けて彼を見上げる。


だって、何で怒ってるの?
訊きたいのは、こっちなのに!


「意味――分かんない、ですっ!」

「分かんない、ってなんだよ!
普通、仕事中に携帯の電源切っておくなんておかしいだろ!
何度電話したと思ってるんだ!」

「何言ってるんですか!
あんな高級なお店なら、切っておくのがマナーじゃないですか!
しかも、大事な接待のときに鳴ったらどうするんですか!」

「こういう仕事していて切ってるなんて、あり得ないだろ!」

「だって――!」


そんなの、知らないよ!
こういう接待で電話が鳴っても平気だなんて、思ってなかったし!

酷いよ。
大体、韮崎さんがあたしをこんなところに来させたんじゃない。
なのに、何で怒鳴るのよ?

あんな奴にいい顔して、色仕掛けまでして、どうにかオーケーをもらって。
挙げ句には、連れて行かれそうになったっていうのに!


「申し訳ありません……」


それでもお詫びの言葉と一緒に、頭を下げるしかない。
あくまでも、韮崎さんにとっては、これは仕事の一環の失態でしかない。


ちょっとでも期待したあたしが馬鹿だった。
もしかしたら、あたしのために来たのかもしれない、なんて……大馬鹿。


またいっぺんに色んなことを思い出し頭を巡り、涙が込み上げてくる。
唇を引き結び堪えたけれど、それでも勝手にじわじわと滲み出てきた。

見られたくなくて、あたしはくるっと彼に背中を向けた。


「無事で良かった」


その言葉が聞こえたのと同時に、後ろから抱き締められる。
また、わけがわからないまま、韮崎さんが言う。


「ゴメン」


――ゴメンって、どういう意味で?
今、怒ったこと?
それとも――。


「韮崎さんが、あたしを――来させたんじゃないですかっ!」

「相手がそういうヤツだって、知らなかったんだよ!
知ってたら、一人で行かせるわけないだろうっ!
さっき聞いて、急いで来たんだ!」

「あたしのことなんて、どうだっていいクセに!」

「どうだって良かったら、ココに来るわけないだろ!」

「どうしてっ?」


あたしは韮崎さんの方へと身体の向きを変え、上にある顔を睨む。
滲んで見える顔は、歪んだ。


「――イヤなんだよ、俺が」


顔が、見えなくなった。
胸に押し付けられて。


……ああ、もう……!


「嫌い! 
韮崎さんなんて、嫌い!」


嘘。
好き、好き、好き――。
大好き。


よくよく考えてみたら、韮崎さんは出向してきたばかりで、支店や取引先の詳しい事情まで知らないのは当然のことじゃないか。
あたしだって知らなかったんだから。

勝手に勘違いしてたのは、あたし――。

彼は、仕事を置いて、来てくれた。
今、ココに。
あたしのために。

それだけで、もう、じゅうぶん。


人の視線が刺さる。
何ごとなのか、と。
でも、かまわない。
ココは東京のように、知っている人なんて、いない。
彼女も――。


押し付けられた顔を上げる。
涙で、メイクもぐちゃぐちゃ。
それも、かまわない。
すぐに、瞼を閉じさせるから。


「今日は、帰しません」

「もう、帰れないよ」


そう言った彼の唇に、あたしは思い切り背伸びし、自分の唇を押し当てた。










どこからか、高い音が聞こえてくる。

枕に顔を伏せたまま、耳を澄ます。

心地の良い、音色。
いくつも重なって。


「……虫の声が聞こえる」


声に出そうと思ったら、韮崎さんが先に呟いた。


「あたしも、今、そう思った」

「ココ、三階だから、結構外の音が聞こえてくるよな」

「うん。でも、綺麗な音。
落ち着く……」


宿泊先のホテルに二人で戻り、韮崎さんはあたしとは別の部屋をとった。
それはもちろん、いくら急遽と言えど出張として仕事でココに来て、あたしも一緒だということは周知なのに、部屋がひとつしか取っていないなんてオカシイから。
だけどあたしは、自分の部屋になんて戻ってやらない。

石田さんに話を聞いた韮崎さんは、着のみ着のまま空港に向かい、たまたま空いていた便に乗って福岡に来たそうだ。
接待の場所も小柴社長がどういう人物なのかも、福岡支店に確認は出来たけれど、あたしには何度電話しても繋がらなかった、と。
接待のホテルの近くまでようやく来たときに、水沢さんに電話が繋がって――けれど、その電話の最中を見計らって、小柴社長はタクシーを降りたそうなのだ。
それを聞いたときには慌てた、と、韮崎さんは苦笑いした。

それにしても、一体、会社には何て言って来たのか……。
韮崎さんのことだから、皆が納得出来るような理由をつけたのだろうけど。
明日の朝には通常通り出勤するとの約束で来たために、朝一番の便で戻らないとならないらしい。
それでも、朝までは、こうして一緒にいられる。


途切れることなく、虫の音が繰り返し聞こえてくる。
小さな、音。

あたしは身体を仰向けにした。
ベッド下のライトがひとつ点いているだけの部屋は暗くて、天井も黒く遠く見える。

あたしは瞼を閉じた。


「昔、嫌なことがあると、庭に出て芝生の上に寝転がって……。
こうして、虫の音色をずっと聞いてたんです」


思い出す。
あの、小学生の頃を。

葉山の、緑に囲まれた大きな家。広い庭。
あのときは星を見る余裕はなくて。いつも目を瞑って。
だけど勝手に耳に入り込んでくる、虫の大合唱は。
大声で泣きたいあたしの気持ちを代弁するように、ひっきりなしに鳴いてくれた。


でも今は、嫌じゃない。
この音が、綺麗だと、落ち着くと思えるのは――きっと、韮崎さんが隣にいるから。


「俺も」

「え?」

「俺も……ガキの頃、毎日のように草むらに寝転がって虫の声を聞いてたよ。
虫の声って、耳が痛くなるくらい、凄い大音量なんだよな
嫌なこととか考えたくないことが、あまりの音の凄さに、かき消してくれる気がして……」

「韮崎さんも?」

「うん」

「韮崎さんにも、嫌なことなんてあったんだ?」

「そんなの、誰だってあるさ」

「……そっか」


――誰だって。
……そうだよね。
その深さはひとそれぞれだろうけど、何も悩みがないひとなんて、いないのかもしれない。


あたしは、すぐ傍にある掌を握った。
温かい。


「韮崎さんは、どこ出身なんですか?」


あたしの質問に韮崎さんはすぐに答えず、ぎゅっと手を握り返してきた。
指が、絡まる。
それが、何だか嬉しい。

一拍置いて、韮崎さんは答えた。


「凄い田舎なんだ。
山梨の、山のほう」


……山梨県。


「韮崎さんて、山梨出身なんだ?
どんなところ?」

「何もないところだよ。驚くくらい、本当に何もない。
山と、畑と……あったのは小さな工場がひとつ……。
小学校までは、歩いて40分。アイスひとつ買いに行くのにも大変だったな。
とにかく、自然だけは豊富だった」

「そうなんだ……。
何となく、今の韮崎さんからは想像し難いかも」

「毎日真っ黒になって、山ん中で遊んでさ。
服破って、よく母親に怒られたな。
樹齢何百年、ってデカイ木があって、そこに登ったり。
川ではさ、魚を手づかみで捕るんだよ。
それを、友達と火を熾して、塩焼きにして頭から食うの。
凄く美味いんだ、それが」

「手づかみ?
魚って、手で捕れるものなんですか?」

「普通は難しいだろうな。俺、こう見えて反射神経も目もいいんだ。
あ、手作りの銛もあったよ。だけど、手で捕まえるのがゲームみたいで面白いんだ。
誰が一番多く捕まえられるかって、友達と賭けてさ。
母親には、夕飯のおかずだ、って、喜ばれたな」


暗い中で、韮崎さんの目がきらきらして見えた。
懐かしそうに、愛おしく語る瞳。
でもどこか寂しげなのは、今は遠く離れているせいだろうか。


「何だか、凄く新鮮……」

「え?」

「韮崎さんの、子供のころの話」


韮崎さんは、苦笑いをして、一度目を伏せた。


照れてるのかな?

でも、本当に、嬉しい。
こんなことを話してくれるなんて。
あたしの知らない韮崎さん。
そんな時代もあったんだ、って。

初めて韮崎さんの深いところに、触れた気がする。


「瑞穂は、どこ育ち?」


もっと色々訊こうと思ったのに、それより先にあたしの話になってしまった。


「あたしは、葉山」

「え? 葉山?」

「ああ、名字じゃなくて、神奈川県の葉山町。
あたしも、山の中で育ったんです」

「そっか……。
何だか、葉山って、瑞穂にしっくりくるな。
何となく、イメージに近いっていうか」

「それって……褒め言葉ですか?
山と海しかない、ただの田舎なんですけど……」

「行ったことはないけど、イメージでは、周りに気圧されない、気高さがあるって言うか……」


「行ってみたいな」と、ぽつりと続けて彼が言う。


「……え?」

「瑞穂が育ったところ、見てみたい。
きっと、綺麗なところなんだろうな」

「――……」


そんな風に言ってくれるなんて……。

ずっと、嫌いだった。
自分が生まれ育った場所が。

帰りたいなんて、思ったこと、なかった。
嫌な思い出しか、思い出せなかったから。
だけど――。

韮崎さんが、そう言ってくれるならば、好きにもなれる気がする。
自分が生まれ育った場所を、本当はどこかで好きになりたくて。
韮崎さんのような瞳で、いつかあたしも語ってみたい。
『嫌い』を『好き』に塗り替えたい。

拓馬のことも、笑い飛ばして話せる日がくるのだろうか――。


「今度、一緒に行きませんか?」

「……え」

「葉山に。
韮崎さんと、行きたい。
虫の音、こうやって一緒に聞けるかな」


見つめると、韮崎さんは、優しく微笑んで一言言った。


「うん」


そう答えた彼に、あたしは約束の指きりの代わりに、と、唇を重ねた。
小指を合わせるなんて、子供染みたことはしない。
だって、こっちのが、あたしにとってはより深い。
彼の熱を直接感じることが出来るから。

こうしていると、錯覚さえしてしまう。

彼はあたしのモノだって。


こんなに近くにいるのに。
今、心も近づいている気がするのに。


ねぇ、韮崎さん――。

あたし達の未来は、このまま並行線で。
これ以上、交わることを望んだら、全てが崩れてしまうのかな……。

  

update : 2009.10.09