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すみません、と、まるで思ってもいないような明るい声が、電話口から返ってくる。
福岡支店の水沢さんは、続けて調子良く言った。
『僕ひとりの力じゃ及ばなくて、わざわざ本社の方から来て頂くなんて、申し訳ないです』
「いいえ。
呼んで下さるということは、参加の意向はあるということですから、それだけでも十分です」
とは、答えたものの内心は、本来ならそれ以上はオマエの仕事だろ、と思う。
けれどそんなことはもちろん、口に出すなんてもっての外。
平和商事とここまで漕ぎつけただけでも、良しとしておこう。
「ところで、平和商事の反応的にはどうなんですか?」
一番重要なソコを訊ねると、水沢さんは妙に覇気のある声で言う。
『もし、やるならば、全店舗と言ってます』
「平和商事、全店舗ですか?」
『ただ、調査費用の負担も大きいですし、本社持ちではないところに納得がいかないようなんです。
だから、今回の話次第だと思っています』
「そうですね」
コレは、あたしにかかってる、ということだ。
納得させられる返答を、用意しておかなければ。
『ところで、葉山さんがこちらにいらっしゃるんですよね?』
「そのつもりですけど」
答えながら、次の予想がついてしまう。
それでも一応は、自分から訊いてみる。
「私だと、何か問題でもあるんですか?」
あー……と、耳元で、水沢さんの声が濁った。
『問題、というか、一応気をつけておいてくれたほうがいいので最初から言っておきますけど、平和商事の社長の小柴さんて、女性に手が早いってもっぱらの噂で。
僕も担当になったばかりなので、噂話を聞いただけなんですけど』
溜め息を吐き出したかった。
けれどそれを我慢して、あたしは額に手を当て、目を瞑った。
あたしが口を開く前に、水沢さんはあっけらかんと言った。
『でも、心配しないで下さい!
僕もいますし、大丈夫ですよ』
心配しないわけないじゃないか、と思う。
あんなことを石田さんから聞いているのだから。
男の誘いを上手くはぐらかしてかわすのは、得意なほうなのは確かだけど。
プライベートと、失敗をすることが出来ない仕事とは違う。
――だけど、それを見込まれて販売促進部に連れてこられたんだから。
今回の福岡行きだって、そう。
分かってて、好きな人にそんな場所へと行かされる。
今度こそ溜め息を吐き出しながら、受話器を元の場所に戻した。
拓馬にも念のため、調査の追加がO.Kか確認を取らないとならない。
パソコンのディスプレイに向かい、メールボックスを開く。
受信箱の3分の1近くは、拓馬の名前が占めている。
それを目にすると、改めてこんなにも仕事上、拓馬とやりとりをしていると思い知らされた。
嫌いなヤツと、こんなにも。
それを思うと、また胸の奥がずきっと痛んだ。
さっきの石田さんの言葉も頭の中を掠める。
――『やっぱり、男の為なんだ?』
あたしが頑張るのは、韮崎さんのためで。
自分のためでも、会社のためでもない。
好きにさせてやる、って言ったクセに――。
こんなじゃ、好きになんてなれないよ……。
迷いを振り切るようにぶんぶんと首を振ると、キーボードを打ち始める。
何を、今更――。
『佐藤様
お世話になっております。TWフードの葉山です。
本日は、ありがとうございました。
ご相談なのですが、九州の十数店舗、調査の追加は可能でしょうか?
まだ本決まりではないのですが、是非参加してもらいたい店舗なので、明日交渉してきます。
お手数ですが、ご連絡をお願い致します。
TWフード 葉山』
さっき帰ったばかりなんだから、まだ会社には戻ってないよね。
返事、すぐは来ないだろうけど……。
そう思いつつも、送信ボタンをクリックする。
気が付いたときにでも返事をくれるだろう。
次は飛行機とホテルの手配を、と、検索を始めると、メールの着信音が鳴った。
航空会社のホームページから、すぐにまたメールの画面へと引き戻される。
……携帯のアドレス?
受信ボックスには、見たことのない携帯かららしきアドレスの新着メールがあった。
一瞬、韮崎さんかとも思ったけれど、違う。
誰からだろうと疑問に思いつつも、そのメールを開いた。
『できるよ』
たった一言の、短いメール。
――拓馬、だ。
名前もないのにすぐに誰だか分かってしまう。
しかも今迄、仕事の件に関してのメールは、こんな風に馴れ馴れしい口語じゃなくて、きちんとしたビジネスライクなモノだったのに。
大体、どうして携帯からなんだろうと思ったのも、メールの転送をしているのだとはすぐに理解出来たけれど――……。
『佐藤様
お世話になっております。TWフードの葉山です。
早々のご返信ありがとうございます。
では、決まり次第すぐにご連絡致します。
どうぞよろしくお願い致します。
TWフード 葉山』
まるで友達にメールを打つみたいな拓馬に、あたしはきちんとしたメールを返した。
なのに、またすぐに届いたメールも、さっきとなんら変わらない調子だった。
『分かった。
決まったらすぐに連絡しろ。
手配があるから早めに』
何で、命令口調?
思わず、眉を顰める。
無性にムカついてきて、あたしも敬語をやめることにした。
いちいち『葉山です』だの『よろしくお願い致します』だの、打つのも面倒臭いし。
『よろしく』
一言。
これで用件は終わりかと思ったのに、違うことをやる間もないまま、またすぐに新着の音が鳴る。
『急ぎの用件はこの携帯のアドレスに送って。
もしくは電話でもいい』
また思わず眉を顰めてしまう。
会社宛てのメールアドレスじゃなく、携帯になんて、親しいみたいで何となく嫌なんだけど……。
あたしは遠回しに断るつもりで、返信を打った。
『何で?
どうせ携帯に転送してるんなら、会社用のメールでも同じじゃない?』
『オレのメールボックスに届くメールの量って、一日千通以上なんだよ。
全部に自分で目を通す時間がないから、秘書がチェックして、急ぎのモノだけ携帯に転送させてる』
――千通以上!?
そう言えば、分刻みのスケジュールだって、言ってたっけ。
最初の打ち合わせのあとも、どこかに行くみたいだったし、ウチに来たときも接待があるって言ってた。
今だって、移動中のはず。
『分かった』
そう返事をするしかないじゃない。
それに、何でこんな風に、あたし達やり取りしてるんだろ……。
そう思っていると、また新着メールの音が鳴る。
『葉山、明日の交渉って、九州行くの?』
『うん。
絶対参加させてくるから、あとはよろしく』
『頑張れよ』
拓馬の返信に、ドキッとした。
――何だ、コレ。
頑張れよ、って、拓馬の言葉?
それに、どう頑張ってこいって言うの。
身体張って、やってこいって――言われてるような、モノなのに。
急激にまた、不安と悲しさが込み上げてきた。
本当は、ヤダ。
行きたくない。
行きたくないよ。
『ヤダ』
そう二文字を打ったら、自分が情けなくなった。
何で拓馬になんか、弱音を吐こうとしてるのか。
思わず、キーボードに顔を伏せた。
何してるんだろ、ホント。
大きく息を吐き出し、顔を上げる。
すると、いきなり韮崎さんの姿が目に入って、今度は吸い込んだ息が途中で止まった。
今ようやく部に戻って来た韮崎さんが、あたしの目の前を横切っていく。
背中をみつめる。
大好きな――つい、この間、爪を立てた広い背中。
胸が、痛い。
……酷いよ。
韮崎さんは、平気なんだ……。
あたしが誰としようが、何をしようが。
あたしはもう、他の誰かと身体を重ねるなんて、考えられないのに。
ヤラれるもんか。
たとえ、そのつもりで行ってこいって言われたんだとしても。
そんなの、あたし次第なんだし。
あたしは、今打った拓馬へのメールを送らないまま、それを閉じた。