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嘘でしょ?
見てたの?
そういえば、石田さんも、あたしと同じ頃に帰る支度をしてた……!
どう答えていいかも分からないうちに、本心では思っていないのも分かるような笑い方で、拓馬が言った。
「参ったな。
見られてたんですか」
コイツ――何言ってるの!?
石田さんも、拓馬が困っていないのを承知で、くすっと笑う。
「一階でエレベーターを降りたときに、お見かけして。
電話中だったみたいなので声を掛けるのに悩んでたら、急に駆け出したから驚いたんです。
まさか、あんな場面に出くわすとは思わなくて。
緊迫していて出るに出られないし、私、思わずそこで見ちゃったんです」
と、石田さんは、そこで韮崎さんの顔を見て、説明を更に付け加えた。
「あ、すみません。主任は、わけ分からないですよね?
金曜日、エントランスで葉山さんが男の人に凄い形相で連れて行かれそうになって、それを佐藤さんが助けたんですよ。
葉山さんと佐藤さんって、小学校の同級生で、お互いに初恋の相手だったんだそうですよ。
そういう再会で付き合うって、凄いと思いませんか?」
韮崎さんは黙って話を聞いたあと、笑顔で答えた。
「そんなことがあったんですか。
初恋の相手って……素敵ですね」
――やめて! やめてよ!
勘違いしないで!
それに、社交辞令でもそんな風に言われたくない!
「違います! あたしは――!」
「葉山、そんな風に言うなよ」
ぐっと、拓馬に腕を掴まれた。
否定しようとしたのに、そこで言葉が途切れさせられる。
痛い、までは感じない力がこもった手が『言うなよ』と、脅している。
その上、拓馬はのうのうと言ってのける。
「申し訳ありません、お見苦しいところを。お恥ずかしい限りです。
実はあの日、あのあと、ちょっと喧嘩をしまして……くだらないことなんですが。
それで彼女、まだ怒ってるんですよ。
もちろん、彼女とはそういう関係ですが、仕事に差し支えないように、きっちりやりますので、今後ともよろしくお願いします」
拓馬は韮崎さんと石田さんに、頭を下げた。
ちょっと、ちょっとっ!
信じらんない!
何言ってるの!? 何考えてるの!?
今、この場で拓馬との関係をどうやっても否定しようとするなら、きっと、あたしが喧嘩して未だに怒っているとでも思われてしまうような状況じゃないか。
あまりのことに茫然としているうちにも、拓馬はまたすらすらと言葉を並べたてていく。
「ああ、今回の打ち合わせでお分かりかと思いますが、彼女とはプライベートで仕事の話はしませんし、するつもりはありません。
仕事とプライベートとは、きっちり分けるつもりですので、その点はご安心ください。
彼女は彼女で、今凄く仕事にやりがいを感じて頑張っているので」
「ああ、はい。
彼女は私から見ても、頑張っていますよ」
「葉山さんと佐藤さんが恋人同士なら、逆にうちの会社としては心強いですよ。
そうですよね? 韮崎さん」
石田さんが、韮崎さんに調子良く言った。
「期待してます」
韮崎さんも、答える。
あたしを取り残して、話がどんどん進んで行ってしまう。
信じられない!
これじゃあ、本当に否定出来ないじゃない!
完全に二人に勘違いされてる!
韮崎さんは、いつも仕事で見せる表面的笑顔だ。
感情が、読み取れない。
何を、思ってる?
相川さんの次は拓馬だって――。
誰でもいいんだって、酷い女だって、きっと思ってる……。
それなのに、今、ここで何も反論出来ない。
悔しくて、情けなくて――だけどそれよりもずっと悲しくて、ただ奥歯を噛み締める。
「では、これで失礼します」
拓馬が平然として、再度頭を下げた。
「御足労ありがとうございました」
韮崎さんと石田さんも挨拶をかわし、あたしも慌てて同じように頭を下げる。
そして、どうにか感情を抑えながら言った。
「佐藤社長、下までお送りします」
乗り込んだエレベーターのドアを閉めると、狭い箱の中に二人きりになる。
前回再会したときは怖いと思っていたのに、今はもう、そんな気持ちは怒りで吹き飛んでいた。
逆に、さっさと二人になりたいと思っていたくらいだ。
あたしは一階へのボタンを押すと、拓馬を睨みつけて言った。
「どういうこと?
何考えてんのっ?」
拓馬は怯む様子もなく、ふん、と鼻を鳴らして上からあたしを見下げた。
「ムカつくじゃん?」
「は?」
「オレ、あーゆー男って、嫌いなんだよ」
「はあっ?」
あたしの上げた声と同時くらいにポーンと軽快な電子音が鳴って、話はまだ始めたばかりだというのに、いとも簡単に一階に到着してしまった。
拓馬はあたしの声を無視して、さっさと開いたドアから正面玄関に向かって歩き始めた。
あたしも急いでその後ろを追いかける。
「ちょっと……! 待ってよ!」
「どうせ、オレが帰ったあと、アイツが来て泊まってった、とかだろ?」
「―――」
……そうだけど。
あたしは敢えて答えなかった。
拓馬はそれも無視して、前を向いたまま歩き続ける。
入り口の自動ドアが開いて外に出る。
さっき拓馬が言っていたように、今日は本当に暑い。
心地良い温度のビルの外は、一転して熱気を持つ日差しがつき差してくる。
背中でドアが閉まると、拓馬は急に足を止め、振り返った。
「オマエとヤッたあと、平気で婚約者と会って、いい顔して、ソイツともヤッってんだぜ?」
「――っ!」
「バッカじゃね?」
「………」
「つーか、こっちのがアイツにとっちゃ、都合いいだろ?
婚約者がいるって、オマエの目の前で笑って言ってんだよ。
オマエにオレっていう彼氏がいて、二人の関係はただの大人の割り切った関係、ってお互いに認めてる方が、重たいオンナよりも、ずっといいに決まってる」
唇を噛んだ。
半分は的を射ているから。
昨日、彼女と会ってたのは事実なのだ。
仕事だって、言ってたのに。
婚約しているのは彼女で。
大事にしているのも、彼女。
拓馬の言う通り、あたしは大人の割り切った関係にすぎない。
初めから、そういう約束。
だけど……。
「……相川さんは……、金曜の彼は、韮崎さんの親友なの。
きっと韮崎さんは、酷い女だって、思ってる」
「親友を裏切り続けてるより、ずっといいじゃねーか」
「だからって――!
アンタとどうして付き合ってることにしなきゃならないのよ!?」
思わず出た大きな声に、やっぱり拓馬は顔色一つ変えない。
その上、上から見下ろすようにあたしを見てくる。
昔もこんな風にいつも上から目線で見られたと思い出すと、拓馬が言った。
「面白いから」
「は――」
「全く、石田さんのお陰で、面白い展開になってくれたな。
いいじゃん。アイツにも同じ気持ち、味わわせとけよ。
オレを利用しときゃ、いいだろ?」
「わけわかんないこと、言わないでよ!」
「じゃ、ホントのこと、言えば?
好きなのは、韮崎さんだって」
「えっ……」
「何、驚いてんの?
オレとは何でもなくて、本当に好きなのは韮崎さんだって、言えばいいだろ?」
「―――」
「何だ。またカマかけたの当たっちゃった?
やっぱ、好きだって言ってないんだ? ホント、オマエって馬鹿。
ま、でも、そう言ったら、困るだろうな。
それに、言ったって、信じるか信じないかなんて、オマエと韮崎さん次第だし?」
「あのねぇっ!」
「それに、オマエに選択権ってあったっけ?
オマエらのことバレるよりは、ずっといいと思うけど?」
ニッと、意地悪く微笑む。
――こいつってヤツは――ホントに――!
「勝手にすればっ」
「勝手にするよ」
「仕事にだけは、影響させないでよっ」
「仕事については、協力してやるって言ってるだろ?
もうソレ、十分わかったろ?」
ぐっと、言葉を飲んだ。
本当に、ムカツク男。
本当に、意地悪な男。
大人になったのは外見だけで、中身なんて昔と変わってない。
ただ、いじめ方が変わっただけ。
だけど、今のあたしは、もう小学生のあたしじゃない。
違うんだから!
「本日は、ありがとうございました!」
あたしはわざと丁寧に礼をした。
そして、拓馬が何かを言う前に、自動ドアを潜ってやった。
電話の音や話し声、パソコンのキーを打つ音が、途切れることなく流れている。
部に戻ると、いつもと変わりなく、皆慌ただしく仕事をしていた。
韮崎さんも、石田さんも。
忙しない人の動きの向こう側の韮崎さんを、自分デスクの前で立ったまま見つめた。
耳に電話を当てながら、マウスに添えた手が動いている。
受話器が電話に戻された思うと、いきなり韮崎さんの顔がこちらを向いて、目が合った。
立ち上がって、こちらに向かってくる。
「葉山さん」
どきっとする。
「えっ……はいっ」
「ちょっと、いいかな」
「……はい」
「話があるんだ」
韮崎さんは、あたしの横を通り過ぎざまに「隣で」と言った。
話――?
隣りの部屋でって、他の人には聞かれたくない話ってことだよね?
まさか、拓馬のこと? 相川さんのこと?
心臓が、バクバクしている。
何て説明したらいいのか――。
相川さんとは、身体の関係はあったけど、本当は付き合っていなくて。
拓馬とも、成り行き上そう言っただけで、付き合ってなんていないって。
――そう言ったら、信じてくれるの?
それとも、拓馬の言ったように、あたしが拓馬と付き合っているほうが、韮崎さんにとっては都合がいい?
もし――好きって言ったら、どう答えるの……?
黙ったまま、後ろをついて歩く。
さっきまで四人いた応接室に、二人で入った。
韮崎さんはあたしがドアを閉めた間に、ソファーに腰掛けた。
「座って」と言われ、あたしも腰を下ろす。
緊張する。
こんなことで。
自分から話していいのかも分からず口を噤んでいると、韮崎さんも何か考えているように少しの間押し黙っていた。
そして、彼はゆっくりとテーブルの上で手を組みながら言った。
「明日、福岡に行って欲しいんだ」
「えっ……?」
「つい今、福岡支店の水沢さんから電話があって、九州大手の特約店が、どうしても本社の人間と話をしたいってことなんだ」
思っていたこととは全く違う話に、拍子抜けする。
韮崎さんは、やっぱりどこまでも韮崎さんで――。
仕事中は、仕事の話しかしないんだ。
あたしのことなんて、大して気になってなんて、いないんだ……。
溜め息を吐き出したい衝動を飲み込み、あたしは代わりに息を吸い込んだ。
「九州の大手って、平和商事ですか?」
「ああ。瑞穂、今回の調査の参加アプローチ、ずっとしてたろ?
あそこは基本的にどの店舗も売り上げがいいからって。
どうも参加費用について、いま一つ納得出来ないようなんだ」
「じゃあ、参加の意向があるってことなんですか?」
「その方向に考えているみたいだ。
今ならまだ調査に間に合うし、平和商事が参加してくれると、かなり大きい。
だから、それを君に納得させてきて欲しいんだ」
あたしが。
ひとりで……。
「分かりました」
「打ち合わせの場所等は、水沢さんが手配してくれるから。
明日夕方だそうだから、昼過ぎの便でも間に合うはずだ。
急いで自分の飛行機とホテルの手配をしてくれ。
あとは、水沢さんと連絡を取って欲しい。
それと、佐藤さんにも、あと十数店舗の参加が可能か、念のため確認を取ってくれ」
「はい」
「必ず、落としてきてくれ」
「……はい」
返事をすると、急にシンとした。
重たい、沈黙。
もう、話は終わりなの……?
仕事の話だけ?
韮崎さんの言いたいことは、本当にそれだけ?
黙ったまま見つめると、韮崎さんは優しく言った。
「今日は、よくやったな」
「………」
「よく、頑張ってると思うよ」
彼が立ち上がったかと思うと、大きな掌があたしの頭の上を跳ねた。
そして、見上げた彼の身体が、すっと横を通り過ぎていく。
嬉しいはずの、言葉。
なのに――今は、嬉しくなんて、ない。
「韮崎さん!」
ドアに手を掛けた彼の背中を、思わず呼び止めた。
だって――ねぇ、本当に気にならないの!?
「何も、訊かないんですか?」
「………」
「あたしが誰と付き合おうが、何しようが、韮崎さんはどうでもいいんですか!?
あたしは――!」
韮崎さんのこと、気になって、仕方ないよ!
息を吐き出した彼の背中が揺れた。
そして、ゆっくりと振り返った。
「相川から、聞いたよ。
電話がかかってきた」
相川さんから――?
「だからあの日、様子がおかしかったんだな。
俺を呼んだのは……」
韮崎さんの言葉は、そこで途切れた。
何か言いたげに薄く開いていた唇が、きゅっと引き結ばれる。
「あたし、佐藤さんとは――!」
「俺は、瑞穂に干渉する権利もつもりもない。
瑞穂が自分で決めることだろう?」
「――!」
「俺には婚約者がいる。それは、変わりようがない。
君は君で――それで、いいと思ってる」
冷たい目が、あたしを見た。
優しい声をして、よくやったと言ったモノとは、がらりと変わった目つきが。
分かってたはずなのに。
干渉するなって、言っちゃ駄目だって。
言ったら余計に、自分が傷付くだけだって。
そういう女だって思ってくれればいいって――自分でそう願ったのに。
認められたら――結局、痛いほど苦しい。
馬鹿みたい。
馬鹿みたい。
馬鹿みたい。
好きだなんて――言わなくて、良かった。
「……っ、失礼、しますっ」
涙が膨れ上がった瞬間、あたしは頭を下げた。
泣いた顔を見られたくなくて、彼を横切り、先にさっとドアを開けてそのまま廊下に出た。
泣くな! こんなところで!
誰かに見られないようにと目元に腕を当て、歯を食いしばる。
熱くなる瞼を、ぎゅっと強く瞑った。
大きく息を吸い込むと、驚いたような声が聞こえた。
「葉山さん……?」
ぱっと腕をどけて、顔を上げた。
「……石田さん」
彼女は書類を手にしていて、これからどこかに持っていくらしい。
涙、見られた……?
誤魔化すように俯き、会釈をすると、彼女は不思議そうに近づいてきた。
「主任に、何か言われたの?」
「……いえ」
「まぁ、いいけど……」
訊かれたから答えたのに、そんなことはどうでもいいように、石田さんは片目を細めてあたしを見た。
「それにしても……」
「え?」
「まぁ、そうなんだとは思ってたけど、本当に佐藤さんと付き合ってるとはね。
仕事に熱を入れてる理由もよく分かったわ。
やっぱり、男の為なんだ?」
ズキッと、胸に言葉が刺さった。
男の為――。
そうだけど。
自分の為なんかじゃないけど。
でも――。
「佐藤さんは、関係ありません」
「ふぅん。まぁ、いいけどね。
仕事さえ、ちゃんとやってくれれば」
石田さんは、大袈裟に語尾を強くして言って、これまた大袈裟に溜め息を吐き出す。
本当に、嫌みな女。
どうせ、拓馬が彼氏じゃないって言ったって、信じないくせに。
言い返してやりたかったけれど、喉元で押し留める。
彼女とは仕事上、上手くやっていかないとどうしようもない。
しかも、明日と明後日のあたしの不在中、代理でやってもらうことは山ほどある。
ここで更に機嫌を損ねさせるのは、マイナスにしかならない。
あたしは仕方なしに気を取り直して言った。
「石田さん、明日――あたし、福岡に行くことになったんです。
平和商事に調査参加の意向があるらしくて、接待に行ってきます。
あたしがいない間、石田さんにお願いしたいこともあるので、よろしくお願いします」
「平和商事?」
石田さんは、驚いたような声を上げた。
「はい。
あそこは売り上げがいいから、絶対に参加してもらいたいんです。
主任にも、必ず落として来いって言われたところです」
「それって、葉山さん一人で行くの?」
「そうですけど……」
何かあるの? と、答えながら疑問に思うと、石田さんは意味深に唇の端を上げて見せた。
「葉山さんなら適任って、主任も分かってるんだ?」
「何のことですか?」
「あそこの社長、とにかく女に手が早いの。だらしなくて有名よ。
大きな問題にならないのは、とにかく強引だけど、合意の上でさせるって噂。
だから、女の担当はつけないっていうのが、今は暗黙なの。
それなのに、あなたに行かせるなんて。
佐藤さんと付き合ってるのも知って、それでもなんて、ちょっと主任も酷よね」
女に手が早い?
だらしなくて有名?
暗黙?
何なの、それ……。
韮崎さんは、だからあたし一人に行かせるの――?
「まぁ、頑張ってね」と、石田さんは嫌みっぽく微笑んで、あたしの肩にぽんと手を置いた。
指先が冷えていく。
震え出した掌を、二つ握り締めた。
あたしを経理部から引き抜いてきた理由。
分かってた、はずなのに。
韮崎さんにとって――あたしはやっぱりそういう女なんだ。