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「何シケた顔してんの?」


いきなり上からミカの顔が垂れて覗き込まれ、心臓が止まるかと思うほど驚いて、ひゃっと息を飲んだ。


「びっくりした……。急に現れないでよ」


ほーっと、大きな息を吐き出す。
ミカは、A定食の乗ったトレーをテーブルに置きながら、あたしの隣の席に腰を下ろした。


「なーに言ってんの。ぼーっとしてるからじゃん。
ちゃんと向こう側から手ぇ振ったし。
それに、社食来るなら言いなよ。
メールもないし、今日は誰かさんと外にランチでも行ってるのかと思った」

「行かないよ。
つーか、会社じゃ誘われないし」

「じゃ、ってことは、オフでは誘われてるって?」

「……ないけど、さ……」


口を尖らせると、ミカは「なんだ」と、呆れたように言った。


「あーの瑞穂ちゃんが、韮崎さんには形無しだね」

「ほっといて……」


本当に、形無しだ。
自分でも分かってる。
こんなの、元々あたしのスタンスじゃない。
だけど、どうにもならない。

あのあとも――土曜日、朝食の片付けをしたあと、あたしはあれ以上の追及もせず、文句も言わず、仕事が残っているという彼をそのまま家に帰した。
あの日、あたしの元に来てくれて、一晩一緒に過ごしてくれただけでも十分。
もちろん、日曜日だって、会っていない。

その代わり、あたしも拓馬が置いていってくれた新しい報告書のシートから、仕事を進めることも出来たけど。


韮崎さんは、本当は……どんな気持ちでいてくれてるんだろう。
分かんないよ……。


ミカからわざと顔を叛けると、向こう側に菜奈の姿が見えた。
トレーを持った菜奈は、あたしに気が付くと、笑顔を見せながらこちらに向かってくる。


「瑞穂、ココにいたんだ?
メールないから、今日は来ないのかと思った」

「ミカと同じコト言ってる」


菜奈は、ふふっと笑って、あたしの対面の席に着いた。
テーブルに三つ、同じモノが乗ったトレーが並ぶ。


「なんだ、瑞穂もミカもA定?」

「菜奈もか。
だって、今日のB定、美味しくなさそうだったしさー。
まぁ、コレもコレだけど」


ミカは、諦めた調子でトレーを指差した。
今日のA定食は、酢豚にしゅうまい、わかめの味噌汁につけもの。
何回も食べたことのあるメニューだから、味がどんなモノかも想像がつく。
酢豚はかなり甘め。にんじんもピーマンも固いのに、たけのこだけは水煮を使っているせいで妙に柔らかい。
しゅうまいは、よくある冷凍品。

そんな期待の出来ない食事を前に、いただきます、と、菜奈とミカは手を合わせる。


「……甘い」


あたしと同じ感想を、菜奈が眉を顰めて言った。


「ほんっと、相変わらずだよね。
……って。そう言えば瑞穂、美味しくなるって言ってたよね?」


ミカの言葉に、ドキッとする。

ついこの間、二人に言い切ったばかりなのに。
今更「出来ない」って言われたなんて、言い出しにくい。


「ああ、それ……」

「楽しみにしてるんだからね」


言い掛けると、二人の期待に満ちた声が被った。


「瑞穂が言ったなら、そうなるんでしょ?」


そこでもう、言葉が止まってしまう。
ならないなんて、どうして言える?
プライドの高いあたしが、確証もないことを言ったなんて思ってもいない二人に。

結局答えられないあたしは、席を立った。


「ゴメン、あたし、もう行くわ」


まだ殆ど手をつけていないA定食のトレーを持ち上げると、菜奈もミカも不思議そうに見上げてくる。


「え? もう?
あんまり食べてないし、始業までまだまだ時間あるじゃん」


一度手に取った箸をトレーに置き直した菜奈に、あたしは苦笑いをして見せた。


「今日これから、M&Sとの打ち合わせが入っちゃって。
その準備とかもしなきゃならないんだ」

「そうなの?
仕事、大変そうだね」

「うん、まぁ」

「頑張ってね」


そう言ってくれた二人へ、返事の代わりにもう一度微笑んで見せた。
そして、トレーを返却口に返しに行き、二人から見えない場所まで来ると溜め息を吐き出した。




嘘じゃ、ない。

ミカ曰く“シケた顔”の原因は、韮崎さんのことだけではなかった。
午後一番に、M&Sとの打ち合わせがある。


この間あんなことを言われたばかりで、またすぐに顔を合わせなきゃならないなんて……。


ずっと二度と会いたくないヤツだったけれど、殊更どんな態度を取っていいのかと悩んでしまう。
だけどもう、アイツにこれ以上の弱みなんて見せたくないし、仕事上でも今回は失敗なんて出来ない。

あたしは、デスクの上のオレンジ色の封筒を手に取った。
拓馬の言った通り、彼が『華のき』に行って煮詰めた報告書のサンプルシートは、最初に受け取ったものよりもずっと店に合った良いものになっていた。



――『オマエが望んでることだろ?』


そうだ。
迷う必要なんて、苦しむ必要なんて、ない。
そうしたいって、あたしが決めたんだから。
拓馬のことだって、利用してやればいい。


意気込んだはずなのに、それでもどうしても妙に胸のあたりがざわざわとして落ち着かない。
時間の経ち方も普段よりもずっと遅く感じて、時計が気になって仕方なかった。
予定の時間ぎりぎりなのは変わらないようで、それが余計にあたしの緊張度を高め、疲労感が増す。

待ちに待ったのか、そうじゃないのか分からない、拓馬の来社を知らせる電話が鳴り、あたしはまず石田さんに伝えてから、韮崎さんのデスクに向かった。

韮崎さんとも、今日、口をきくのは初めてだ。
ううん。週末、彼が帰ってから、と言った方が正しい。

今緊張しているのは、拓馬に対してなのか、韮崎さんに対してなのか、どちらともつかない。


「主任、M&Sの佐藤さんがいらっしゃいました」

「ああ、御苦労さま。
じゃ、行こうか」


韮崎さんは立ち上がると、デスクの上の資料を掴み、あたしの一歩前を歩き出した。


やっぱり、変わらない。いつもと。


予想はしていたけれど、そんな態度を目の当たりにさせられると、微妙な心境だ。
会社では、そうした無関心の態度の方が良いということは、百も承知なのに。
それなのに、どこかで特別にして欲しいと思う自分がいる。

先に韮崎さんと石田さんが応接室に入り、あたしは入り口で拓馬を出迎えるためにそこで待った。
ほどなくして、拓馬が到着したエレベーターから姿を見せた。
こちらを向いた瞬間、どきりとする。


……また、何か言ってくるんじゃないでしょうね……。


身構えながら、あたしは深々と頭を下げた。


「こんにちは。
御足労ありがとうございます」


なのに、実際拓馬と対面すると、拍子抜けするほどビジネスライクな対応だった。
あたしの目の前で立ち止まったかと思うと、同じように深々と頭を下げられた。


「こんにちは。
今日は外、暑いですね。
韮崎さんと石田さんはもうお揃いですか?」

「え、あ、はい……」


何だ、コレ……。
仕事、って、割り切ってるだけ……?


「こちらです。どうぞ」


不審に感じながら、あたしも普通を装い、拓馬を室内へと案内する。
拓馬は、韮崎さんと石田さんと顔を合わせると、さわやかに感じ良く挨拶をかわしている。


ホントに、何なんだ、コイツ……。


だけど、何となくホッとした。
やっぱり、仕事は仕事なのだ。


あたしも、しっかりしないと。


そう思うと、韮崎さんと雑談をしていた拓馬が、いきなりこちらに振ってきた。


「葉山さん、作り直した報告書のサンプルシートはいかがでしたか?」

「えっ……あ、凄く良かったです」

「良かった。
では、細かいことが決まれば、すぐに調査の方に入れますね。
葉山さんの指示どおり、調査員の手配はほぼ出来ていますから」

「ありがとうございます。
ただ、もう少し調査から再来店へ繋げる何かが欲しいんです。
満足度だけでなく、味や接客や設備に満足したからまた来たい店だと思って貰えるのかどうかは分からないので」

「……そうですね。
では、再来店の評価と、コメントも入れましょう。
総合評価だけでなく、どの点が再来店に繋がるのか、店舗側も分かりやすくなると思います。
その点、もう一度話し合いましょうか」


拓馬がにっこりと微笑むと、皆席に着き、そのままの流れで打ち合わせが始まった。
仕事の話を振ってくれて、そこから始まったお陰で、今度こそ失敗したらいけないとか、何から話し合おうとか、そういった緊張も緩和してくれた。

打ち合わせ中の拓馬のリードは、さすがだと思った。
今迄にいくつもの店舗や会社をみてきているだけあるのか、ウチの要望にも柔軟で、的確で、全ての仕事に対して早い。
担当者として、何をやっていいかが分からないと困るから、あたしは自分なりにミステリーショッパーや、似たような会社についても調べてみた。
もちろん、拓馬についても。

韮崎さんや、菜奈の言っていたことも、確かに理解出来た。
コイツが、仕事には熱意があって、出来るヤツだって。
他の会社とは比べ物にならないほど、短期間、ローコストで、伸び率も高い。

悔しいけれど、メディアに取り上げられたり、ビジネス本を出版するのも、納得できるだけのことは書いてあった。
――認めたくなんて、ないけど。

この間の打ち合わせでは、動揺して話の半分も理解出来てなかったけれど、韮崎さんがあたしの好きなようにやっていいと言ってくれたのは本当で、今回はほぼ、あたしの意見と拓馬の意見で決定した。
韮崎さんは、あたしの一存では決められない予算等の件に関してをまとめてくれ、円滑に進むように口添えやサポートもしてくれた。




「では、来週早々から調査に入ります。
予定表は、暫定のものはあとでお送りします。
調査の日付は、くれぐれも店舗側に漏れないようにお願いします」


拓馬がそう言って、目の前の資料をまとめ始めた。

今回は、本当に無事に終わった。
自分の意見もきちんと言えたし、全てスムーズにいった。


「はい、よろしくお願いします」


心の中でホッと一息吐きながら、頭を下げた。
続けて韮崎さんと石田さんも頭を下げる。
拓馬も立ち上がって、一礼した。


ああ、本当に、終わった。


安心して、ふと韮崎さんを見ると、よくやった、とでも言わんばかりの笑顔を向けられた。

ほんの少し、認められた気がする。
何も出来なかった、出来ないと思われていたあたしが。

良かった、と思うと、拓馬が思い出したように言った。


「そう言えば、昨日、韮崎さんのこと、銀座で見かけましたよ」


拓馬の言葉に、韮崎さんの表情が一瞬固まったように思えた。


何……?


嫌な予感がした途端、続けて拓馬が言った。


「遅ればせながら、ご婚約おめでとうございます。
お噂はかねがね。東和重工の副会長のお孫さんがご相手だって、有名ですよ。
素敵な方で驚きました」


――何、を……


隣で石田さんが、ええっ、と、大きな驚きの声を上げた。


「韮崎さん、婚約者がいるんですか!?
しかも、東和重工の副会長のお孫さんなんて!」

「え……っ、ああ……」

「ああ、石田さんは知らなかったんですか。
これは失礼しました。
でも、目出たいことですから、いいですよね?」


歯切れの悪い韮崎さんに、拓馬は邪気なく言い、にっこりと笑った。
あたしは、息が止まりそうになって、ごくりと固唾を飲んだ。


何でこんな席で……。
まさか……。


拓馬をちらりと見ると、あたしと目が合った。
唇の端が意地悪く上がったかと思うと、また韮崎さんに向かって微笑んだ。


「薬指のダイヤが、遠めでも大きくて目立っていていましたよ」


――薬指の、ダイヤ――?


指先が、冷えていく。震える。
拓馬への怒りと、彼女への嫉妬と、両方が込み上げる。


わざわざそんなことを、こんな席で――。
あたしに対して、わざと意地悪してる。


けれど何かを言うことなんか出来なくて、あたしはただ掌を握り締めた。


「声をかけようかな、とも思ったんですけど、あんまり楽しそうに歩いてたので、つい邪魔しちゃいけないな、と、かけそびれました」


拓馬はまるで、あたしと韮崎さんの反応を楽しむように続け、韮崎さんは少し困ったような、けれど当たり障りのない笑顔で答える。


「そんなことないですよ。
声、かけて下されば良かったのに」

「いや、いや。
今、一番楽しいときですよね、きっと」

「いえ……。
色々、まだクリアーしなきゃならない問題もありますので」


やめてよ! やめて!

分かってる――
だけど、あたしの前で、そんな風に話さないでよ!


目を逸らすと、快活に拓馬が言った。


「韮崎さんたちなら、大丈夫でしょう?
もう、結構、長い付き合いだとか」


ずきりと、言葉が刺さった。


――長い付き合い?

そんなこと、知らない。


「羨ましいですね、そういうの」


微笑んでそう言いながら、拓馬は「ですよね?」と、あたしを見た。

韮崎さんに受け答えさせるだけじゃなく――あたしにも、答えろ、と。
本当に、なんてヤツ!


「そうですね」


答えながら両手を重ね、震えを抑える。
どうにか笑っているけれど、どうにかなりそうなほど、雑多な黒い気持ちが胸につかえて仕方ない。


韮崎さんは、平気なの?
どんな気持ちで答えてるの?

それに拓馬は――
本当に、一体、何を考えてるのよ!


そう思うと、石田さんが「佐藤さんだって」とほがらかに言った。


「私も金曜日、会社のエントランスで偶然見かけましたよ。
佐藤さん、男の人から葉山さんを庇うなんて、格好良かったですね。
同級生だとは伺ってたんですけど、お互いに初恋の相手で、再会して付き合うなんて、何だか運命的ですね」


石田さんの言葉に、今度はあたしが固まった。

 

update : 2009.09.02