26
ふと眠りが途切れて瞼を開くと、そこには韮崎さんの寝顔があった。
カーテンの隙から入り込んだ朝の黄色い光で、部屋の中は薄ら明るい。
あたしは覚め切らない脳みその状態で、ただ、ぼうっと目の前の顔を見つめた。
気だるい。
手も足も。身体中に甘い痺れが残っている。
韮崎さんと過ごした夜の名残が。
それに、首が痛くて、思わず声が漏れそうになる。
でも、動かす気にはなれなくて、そっと自分の指先を首筋に当てた。
腕枕をされて寝たなんて、初めてのこと。
こういうのって疲れるだけで、はっきりいってウザいって言うか……枕で快適に寝たほうがずっといいと思ってたけど……。
好きなひとだったら違うんだなぁ。
痛みも、重みも、温もりも。
今迄知っていたものとは違う。
誰かと肌を合わせることで、あたしは自分の存在を確認していた。
あたし自身が必要とされているようで。自分に自信が持てたから。
だけどそれは、身体を重ねる大切さが分かっていなかったから、そう感じていただけ。
好きだから、触れたい、触れて欲しい。
どこまでも、深く。
相手が好きなひとというだけで、これほどまでに心を満たして幸せだと感じさせてくれるなんて。
自分が女で良かった……。
顔の下にある腕を見ると、愛しさが湧いてくる。
あたしのために差し出された腕。
もう片方は、包み込むように肩から背中に回されている。
きっと、痺れてるよね……?
十数センチ先には、瞼を閉じた顔。
抱き締められたまま、いつの間にかお互いに眠りに落ちてしまったらしい。
最初のときも、この間家に行ったときだって、あたしの前で眠った姿を見せなかったのに。
こんな風にあたしの横で眠ってくれるなんて、思わなかった。
それとも、余程疲れているのかな……。
いつもほとんど寝ないで仕事してるみたいだし。
緩やかに呼吸をする無防備な顔を見ていると、キスしたくなる。
可愛いな。
普段は男っぽいのに、食べちゃいたいくらい可愛い。
我慢なんてせず、あたしは軽く唇を合わせた。
そして、起こさないようにと、そっとその回された腕から抜け出し、ベッドから降りた。
シャワーを浴び、髪を乾かし軽いメイクをしてから台所に立ち、韮崎さんが起きてきたのは、ちょうど朝食が出来た頃合いだった。
物音に途中で起きるかな、とも思っていたけれど、全くそんなこともなく、今の今迄ぐっすりと眠っていたことにはあたしも驚いた。
「朝から凄い豪華だな」
テーブルにお皿を並べているあたしを見て、韮崎さんが言う。
あたしは何だかくすぐったくて、ふふっと笑った。
「家にあった物で作ったから、豪華じゃないですけど」
「家にある物でこれだけ作れるなんて、凄いな」
「そんなことないですよ、全然。
お口に合うか分からないですけど」
顔の前で両手をぶんぶん振ってみせる。
体裁として謙遜してはおいたけれど、実はあたしは料理が大の得意だ。
母の教室や台所に立つ姿を常に見て育ったせいか、手伝いくらいはしていたけれど特別に習ったわけでもないのに、自然と色んなことを覚えていた。
それとも、血は争えないのかもしれない。
男って、料理の出来る女に弱いって、それは本当。
特にあたしみたいに、いかにも出来なさそうな女が出来るっていうギャップもいいんだよね。
ちょっと凝った料理を作ってやれば、コロッといっちゃう。
それに、和食が作れるっていうのも、ポイントが高い。
今日は朝だから簡単なモノだけど、それでもトーストにコーヒーよりは、ずっと見栄えはいいはず。
鰺の開きに大根おろし、そこに添えたかぼす。
わかめと豆腐の味噌汁に、根菜の煮物、きゅうりとなすの浅漬け、焼き海苔。
それに、茶碗蒸し。
彩りとして、明太子も。
ひと手間を抜かないのが、美しく見える基本。
それは人も料理も同じ。
大根おろしも、かぼすも、それを添えるだけで、ないものと比べるとずっと凝って美味しそうに見えるのだ。
どうぞ、と勧めると、韮崎さんは手を合わせた。
「いただきます」
あたしも一緒に手を合わせる。
韮崎さんが味噌汁から手を付けたのを見て、あたしも同じようにお椀に口付けた。
うん。
我ながら上出来。
「凄い、美味い……」
感動したように言う韮崎さん。
同じように言われたことなんていくらでもあるのに、彼に言われるのは、本当に嬉しい。
ふわふわすると言うか、くすぐったくて、その上温かい。
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
「ダシがよく利いてる」
「かつお節と昆布で取ってるんですよ」
「マジで美味い。いくらでも入るな。
つーか、めちゃめちゃ腹減ってたんだった」
「昨日、夕飯食べてないですもんね」
あたしは意味深に、微笑んでみせた。
昨日はあれから、食べることも忘れて抱き合ってそのまま寝てしまったから、ずっと何も口にしていない。
来たときだって既に遅かったし、お互いに夕食も取ってなくてお腹は空いていたはずなのに。
食事よりも、あたしを求めてくれた。
「瑞穂のほうがいいよ」
韮崎さんが食事の手を止めて、さらっと言う。
本心がそうであって欲しいとは思っていたけれど、まさかそんな風に言われるとは思わなくて、あたしの手まで止まってしまった。
ホント、この人ってば――。
あたしも上目遣いで熱い視線を送り返す。
「あたしも」
韮崎さんは満足げな笑顔を見せたあと、次々にあたしの料理を口に運んでいく。
いかにも美味しそうに食べてくれて、そんなことがいちいち嬉しい。
「瑞穂、料理上手いんだな」
「意外、とか思ってるんでしょ?」
「ちょっとだけな」
「ひどーい。これでも毎日自炊してるんですから。
それにあたし、料理好きなんです」
わざとムクれて見せると、韮崎さんは楽しそうに笑って、それを収めながら言った。
「誰かに習ったの?」
「習った、ってほどじゃないんですけど。
母が料理教室をやってたんで、自然に覚えちゃって」
「お母さんが?」
「だから、料理なら何でも得意ですよ」
「へぇ、そっか。いいな、それって。
瑞穂と付き合うヤツってラッキーだな」
「韮崎さんもでしょ?」
「うん、ラッキー」
冗談交じりに笑いながらも、ウマイウマイと、韮崎さんは感心したように首を幾度か縦に振った。
そしてまた、ご飯を口にする。
ひとくちが大きくて、ペースも速い。
男の人の食べ方だ。
何だかいつもとイメージが違うようにも思える。
だけど、澄ました綺麗な食べ方より、何だか嬉しい。ずっと自然に見えて。
こんなのって、いいな、って思う。
いつも張り詰めていて、気を許さない表面だけの韮崎さんよりも、ずっと。
あたしに、本当の姿を見せて欲しい。
だけど――……。
「韮崎さん」
「ん?」
「何か、あったんですか?」
テーブルの上のお皿が全て空になると、あたしは今の今迄雑談をしていた顔つきからがらりと変えて訊いた。
突然の質問に、韮崎さんは面喰った顔をした。
そうかと思うと、ふっと苦笑いする。
「何かあったのは瑞穂だろ?」
「すり替えないでください。
見てれば分かります」
昨日、電話したらすぐに来てくれたことも。
ベランダに出て雨に濡れていたことも。
いつの間にか眠って、ぐっすりとこんな時間まで起きなかったことも。
何があったの?
じっと彼の目をみつめた。
韮崎さんも、あたしの目を見ていたけれど、そのうちに彼の方から目を逸らした。
「何もないよ」
「嘘」
「ないよ」
「あたしには、言えないこと?」
言ってから後悔した。
韮崎さんの表情が止まって、あたしも目を逸らした。
言えないのは、きっと彼女のことだから。
訊くべきじゃなかったんだ。
あたし達の関係は、そういうのじゃないのに。
深く追求するなんて、ウザいだけだ。
落ち込んでいるなら、ただ黙ってホッと出来る場所を提供するだけのほうが、彼にとってはいいに決まってる。
あたしは彼にとって、そんな存在でしかないのに。
一度きゅっと唇を噛むと、立ち上がった。
「コーヒー淹れますね」
あたしは薄く笑みを作りながら、空になった食器を重ね合わせ片付け始めた。
まるでそんな話はなかったみたいに。
楽しかった空気が一転して、重い沈黙に変わってしまった。
カチャカチャと食器の立てる小さな音が、部屋の中に異様に響いている気がする。
「ゴメン」
「え……」
言われた言葉にどきっとして顔を上げる。
「瑞穂に話さなきゃならないことがある」
「話……?」
「社食の話、無理そうだ」
言われた内容がすぐに飲み込めず、食器を重ね合わせる手をそこで止めた。
――社食の話?
それって……
「この間の、改善の、話……?」
「ああ」
「会議で、駄目だったんですか……?」
「………」
韮崎さんは、ほんの少し口を噤んでから答えた。
「あんな風に言ったくせに、本当に悪いと思ってる。
すまない」
あんなに自信たっぷり言ってたのに。
どうして……?
あたしのため、って、凄く嬉しかったのに。
そんなに簡単に諦めちゃうの?
そんなに適当だったの?
あたしは――韮崎さんが、他の女と結婚するために仕事をして。
仕事の相手がオヤジだろうが、拓馬だろうが、どんなに嫌な奴でもちゃんとやり遂げてやるって思ってるのに。
いくら頑張ったって、プロジェクトをいくら二人で作り上げたって、成功した時点で彼はいなくなってしまう。
最終的に、あたしの手の中には何も残らない。
彼女のためじゃなくて、あたしのために――
ひとつくらい、何か、してよ! 残してよ!
あたしの笑顔が見たいって、言ったじゃない!
そんなに簡単になんて、諦めないで!
まるで、あたし自身を簡単に切り捨てられた気分だった。
きっと、あたしが関係を終わりにしようって言ったら、本当にそこで終わり。
引き留めてなんて、くれない。
簡単に手放すのだろう。
「嫌……」
「え……?」
「嫌だ、諦めないで……!
どうしてっ!?」
思わず口から吐いた言葉と同時に、あたしの手の中から持っていた皿が滑り落ちた。
カシャンとガラスの高い音がした。
落ちた皿が、グラスを倒した。
テーブルの上に、グラスから透明の波紋が広がっていき、足の上に滴り落ちる。
冷たい。
ぽたぽたぽたぽた。
垂れているのは、水だけじゃなかった。
自分が泣いていると気が付いたのは、もっとずっと上から落ちた大きな雫が目に入ったから。
顔が、上げられない。
何やってるんだ、あたしは。
こんな女、困るに決まってるじゃない!
慌ててそれを拭う。
「ごめんなさい。
そんなこと言われても、困りますよね」
どうにか笑顔を作りながら倒れたままのグラスを起こし、落とした皿を手に取る。
見ると、大袈裟に割れてはいないけれど、端が欠けてひびが入っている。
気に入ってたのに。
壊れるのなんて、使い物にならなくなるのなんて、ほんの一瞬。
一言が取り返しのつかなくなることだってある。
細い糸を結んだような、あたしたちのあやふやな関係なら尚更。
じわじわとまた涙が浮かんでくるのをぐっと堪え、あたしは皿を下げるのにキッチンへ向かおうと背を向けた。
これで泣き顔はどうにか見られないで済む。
そう思って一歩を踏み出すと、いきなり後ろから腕を引かれた。
瞬間、手に持っていた皿が落ちた。
今度こそ派手な音が立ち、破片も食事の残骸もが床に飛び散った。
それなのに、お構いなしに引き寄せられ、抱き締められる。
――何で……。
何でこんな風にするの……?
どんな気持ちで、あたしを抱き締めてるの……?
韮崎さんは、黙ったまま何も言わない。
あたしも、訊けない。
ただ、回された腕は痛いほど強くて。
あたしは温かい胸に抱かれているだけ。
あたしのこと、少しは好きでいてくれてるから?
だからなの?
こんなとき、好きって言えればいいのに……。
言いたいのに……。
今、しっかりと抱き締められているのに、苦しくなる。
本当の気持ちを伝えられないことが、こんなにも辛いなんて――。
あたしは踵を上げると、彼の頬に手を当て、唇にキスをした。
抵抗も反応もない。
押し付けた唇を離すと、今度はまた強く抱き締められた。
あたしの肩に、彼の顔が埋まる。
「……ゴメン」
耳元で、彼の声が言う。
それって、どういう意味――?
喉の奥が詰まった。
そんな風に言われたら、もうこれ以上何を言っていいのか分からない。
それが何を意味しているのかさえ、訊けない。
あたしは、ただ黙ってかぶりを振った。