25

返事はすぐになかった。
耳に当てた携帯電話から流れ込むのは、駅構内の音だ。
電車の音が微かに漏れてくる。

駅にいるんだ、と思うと、韮崎さんが言った。


『どうかした……?』


あたしは咄嗟に目元を拭った。
見えるわけ、ないのに。

でも……少しでも気にしてくれるんだ、あたしのこと。
それなら、お願い、会いに来て。


「ただ、会いたいだけ」


電話越しに、沈黙が落ちた。

こんなにいきなり、わがままだろうか。

自分の衝動的な行動と言動に、急に不安が膨らんで、携帯をぎゅっと握り締める。


『行くよ』


ハッキリとした声が、耳元に響いた。


「え……?」


望んでいた返事なのに、思わず訊き返してしまう。


『今から行くよ。今日はもう仕事も終わったし。
ちょうど、帰り道なんだ』

「ホント、に……?」

『なんだよ。会いたいって言ったの瑞穂だろ?
今、もう駅なんだ。電車降りたトコロ。
家、行っていい?』


ウチに……?


「はいっ」








インターフォンが、短く鳴った。

いくら近所とはいえ、マンションの場所までは分からないだろうと思っていたけれど、軽く説明しただけで、韮崎さんはすぐに理解したようだった。
電話を切ったあと、10分くらいして最初にホールからインターフォンが鳴ったときは「知ってる」と言っていた通り、本当だったんだ、と少し驚いた。

あたしは、受け答えせずに、それよりも早く、と玄関へ向かった。
さっき閉めたばかりの鍵を開け、ドアを開くと、韮崎さんが立っている。


「お待たせ」


そうはにかんだ彼に、あたしは堪らなくなって、答えるよりも先に抱き付いた。


「――うん」


薄いシャツを通して、心臓の音が聞こえる。
彼の温かさも伝わってくる。
今は、あたしの腕の中に、いる。


「何か、あった?」


響いてくる問いかけに、あたしはかぶりを振った。


やっぱり、少しは心配してくれたんだ?


「ホントに、会いたかった、だけ」

「………」


数秒の沈黙が落ちて、韮崎さんはあたしの髪に触れてきた。
柔らかく大きな掌が滑っていく。
その手が髪先を荒々しく掴んだのをかわきりに、どちらからともなく唇が合わさった。

覆いかぶさる重みに、足元がふらついた。
けれどしっかりと抱き留められていて、唇は離れることはない。

後ろで、玄関のドアが閉まった音がした。

同時に舌も絡めて。
そこでお互いを弄って。
何度も何度も、離れては触れて。

どうしてよ、と思う。

頭も身体も、痺れていて。
あまりにも甘く深いモノなのに、またどこか奥の、ずっとずっと奥のほうが、痛い。


こんなキス、どうしてあたしにするの?

彼女にも、こんな風にするの?
誰にでも、出来るの?

あたしだから、あたしだけ、って言って欲しいのに……!


どうにも締めつけられて、息も出来ないほど苦しくなって。
思わず声を漏らすと、唇が離れた。

息が上がって、深く空気を吸い込む。
吐き出したときには、鼻先に唇が落ちてきた。
今度は頬に、次は耳に、首筋に、と順に。
そして、ぎゅっと強く抱き締められた。


ああ……好き。
やっぱり、凄く、好き……。


苦しさよりも好きな気持ちが勝って、彼の胸に顔を埋め、背中へ回している手にあたしも力をこめた。

感じる熱は、あたしに対してのモノ。
抱き締めてくれる腕も。
今は、あたしの。

ずっと、こうしていたい……。
全部、あたしのものにしたい……。


「瑞穂……」

「………」

「髪、濡れてる……」


どきっとして、思わず顔を上げた。
間近で見下ろす瞳と、すぐにあたしの目がかち合う。
頭の中に、拓馬の顔が過った。


「あー……と、雨に、濡れて……」

「傘、持ってなかった?」

「う、ん……」


嘘は、吐いてない。
何かがあったわけじゃない。
それなのに、奇妙な罪悪感が心の中をざらつかせる。

つい、数十分前に、アイツはココにいたって。
相川さんには、新しい恋人だと思われてるって。


それ以上何も言わないでいると、また頭を引き寄せられ、彼の胸にすっぽりと顔が埋まる。

韮崎さんの唇がそっと髪に触れ、そこに吐息がかかった。


「風邪ひくぞ」

「着替えはしたし、大丈夫」

「待ってるから、シャワー入ってきな」


思わずびくっとなった。


アイツがついさっき、使ったシャワー。
思い出して、寒気が走る。


「嫌」

「何で?」

「今、こうしてたいから」


あたしは背中のシャツをぎゅっと掴んだ。

この場でも、何でも、とにかく抱いて欲しい。

それにこう言えば、これ以上はもう入ってこい、なんて言わないと思った。

なのに、抱き締められていた腕が緩んだかと思うと、いきなり身体が浮いた。


「なっ! 何っ!?」


お姫様抱っことか、そんな可愛いモノじゃない。
引っ越しの重い荷物のように、肩に担がれた。
あの病気のとき、道で拾われたみたいに、くの字にさせられて。


「いいから、温まってこい。
腕、冷たいし、鳥肌立ってる」


それは……! 違う!
冷えたからじゃないのに!


「や、ヤダってばっ」

「何で?」

「何でも!」

「ソレ、理由にならないし」

「だってっ、今離れたくないのっ」


反抗しても、腰に回された腕はびくともしない。
韮崎さんは勝手にバスルームの方に進み、ドアの前でようやくあたしを床に下ろした。
そして腰を屈め、あたしに目線を合わせる。


「ちゃんと、ココにいるだろ」

「………」

「風邪、ひかれるほうが困る」

「………」

「帰らないから、ちゃんと温まっておいで」


くしゃくしゃと、あたしの頭を撫でる。
これじゃあまるで、駄々をこねている子供をあやす扱いだ。


「わかった……」


渋々承諾すると、韮崎さんは、ようやく優しく微笑んだ。






バスルームのドアを開けると、むっとした熱気が流れ込んできた。
換気扇は回してあったけれど、大したことのない機能のウチのモノじゃあ、たった数十分では完全に換気しきれない。

足を踏み入れると、濡れた床がひやりとして、身体中が粟立った。
シャンプーとボディソープの甘い香りがつんと鼻についた。
いつも自分が使っているモノなのに、まるで違う匂いのように感じてならない。

どうにもならないフラストレーションのようなモノが湧き出てくる。
自分の家の、自分のバスルームの、自分のシャンプーなのに。
全部アイツのモノみたいで。
身体中に見えない何かが纏わりついているようだ。

もちろん、このあと韮崎さんと、スルだろう。
早く、抱いて欲しい。
だけど、念入りに身体を洗う余裕もなかった。
とにかく一刻も早くココから出たくて、あたしは全てをざっと洗い上げた。



バスルームを出てタオルを手に取ると、ちょうどそこから見える位置にある洗濯機の上のモスグリーンが目に入った。
さっき、拓馬が使ったタオルだ。
洗濯機の上に、如何にも使いましたと主張するように、乱雑に置いてある。

すっかりそんな存在を忘れていた。
こんなところに置いてあったなんて。

モスグリーンのラルフのバスタオルは、今年の夏のセールで買った。
厚地で柔らかくて使いやすかったのに。
だけど、アイツが使ったモノなんて、もう気持ち悪くて使うことなんて出来やしない。
韮崎さんが見てないところで、捨てなきゃ。

……て。
随分静かだけど、何してるんだろう……?


向こうからは、物音一つ聞こえてこない。


まさか、いなくなってないよね!?


慌ててそのままリビングを覗いた。

すると、韮崎さんは窓を開け放って、バルコニーに立っていた。
何かあるといつもあたしが立つ場所に。
濡れた手すりに手をかけて、ただじっと向こう側を見ている。
ここからではよく見えないけれど、いつの間にか、雨は弱まっているのか止んでいるらしい。

帰っていないことにホッとして、あたしは急いで髪と身体を拭き、服に着替えた。
髪は濡れたままでも、さすがにノーメイクでいるわけにはいかないから、化粧水とクリームをつけて、軽いメイクを手早く施し始める。

化粧下地に、ファンデーションとアイブロウ。
アイシャドウはホール全体にナチュラルな色を乗せるだけ。
アイラインは、睫の隙を埋めるようにペンシルで細く引いてからぼかす。これで目はハッキリするけれど、引いているようには見せない。
チークも薄っすら、目立たない程度で。

風呂上がりなのだから、メイクをしていないと思わせるほど、ナチュラルじゃないとならない。


そういえば、さっき泣いたせいで、酷い顔を見られてる……。
ブスだって、思われなかったかなぁ……。


こんなときにまで、素顔を見られることを重たく感じる自分は、おかしいのか。
たまにそう思うけれど、怖くて仕方ない。
それに、あの病気のときのあたしが同一人物だと、韮崎さんにバレたらいけない。

最後に、透明のリップを唇に引き、洗面台の鏡に映る自分をみつめながら、思う。


今のあたしは、じゅうぶん綺麗。
自分で認められるくらい。

……なのに。



「韮崎さん」


声をかけると、韮崎さんはゆっくりと振り向いた。
窓に近づくと、まだ雨は上がっていないらしく、紺色の中に細い糸のような線が浮き上がって見える。


「濡れますよ」

「ああ、ゴメン、勝手に。
雨、小降りになってるし、ひさしが大きいから部屋には吹き込まないかと思って」

「違くて、韮崎さんが。
ほら」


足、と、指差すと、韮崎さんはまるでそこで気が付いたように、足元を覗き込んだ。
いくらひさしが大きいからといって、あれだけ雨が降ったならば、バルコニーの上は水が溜まるほど濡れている。
案の定、彼の靴下はびっしょりだ。


「髪も」


腰を屈めている彼の髪に触れた。
黒く細い髪には、小さな小さなビーズのような雨粒が無数に散りばめられていて、しっとりとしている。


「ヤダな。
このままじゃあ、あたしじゃなくて韮崎さんが風邪ひいちゃいますよ」

「ああ、ゴメン……」


韮崎さんは、さっと靴下を脱いで部屋に上がった。
部屋の灯りに晒されると、一層濡れているのが分かった。
髪も、顔も、服も。


一体、どうしたんだろう。
彼らしくない気がする。


「今、タオル持ってきます。
……って、韮崎さんも、シャワー入ってきてください」

「えっ」

「だって、このままじゃあいられないでしょう?
服、乾かしておきますから」


言ってからドキっとした。
これじゃあまるで、さっきの拓馬と同じじゃないか。


「……ああ、悪い」


答えが返ってきたら、輪をかけてそう思えてしまう。


韮崎さんとアイツが、同じなんて嫌だ。
そんな風に思わされる自分も嫌だ。
アイツのコトなんて、考えたくもないのに!


必要のない余計な言葉まで、また頭の中に浮かんでしまう。


「いっそのこと、洗濯しちゃいましょうか?
二、三時間で乾いちゃうし。
ゆっくり、していって、くれるんですよね……?」


あたしはアイツの声を打ち消すように、韮崎さんのネクタイに指を伸ばした。

 

update : 2009.07.16