24
雨の音に似ていると思った。
狭いあたしの部屋では、どこにいてもアイツの使うシャワーの音が聞こえてくる。
それに反抗するように、わざと大きな足音を立てて脱衣所に向かった。
ほの白いすりガラスの向こうに、薄っすらと肌の色が透けて見える。
視界に入れたくなくて、あたしは顔を逸らし、そちらを向かないようにした。
どうしてこんなことになってるんだろ。
もう、本当に信じられない……。
イラつきも、胃のムカムカも治まらない。
頭痛のする部分を掌で抑え、反対の空いた手で、あたしは乾燥機のボタンを押した。
ゴウン、と、機械的な音が立ち、ガラス越しの水音を少しだけ紛らせる。
気が晴れるわけでもないのに、またドカドカとフローリングに足音を立ててリビングに戻ると、今度はアイロンのコードを差し込んだ。
ソファーに掛けてある濡れたジャケットを手に取り、アイロン台の上に広げる。
溜め息を落とすと、床に座り込んだ。
赤い小さな光をチカチカさせていたアイロンは、その点滅が止まった。
どうやら、適温まで温まったらしい。
あたしは、ぼんやりしながらアイロンを手に取り、拓馬のジャケットに当て始めた。
拓馬はあたしに先にシャワーに入ってこいと言ったけれど、もちろん、頑なに断った。
髪をタオルで拭いて着替えれば、別になんてことはないし。
何より、アイツがいるのにシャワーなんて入れるわけがない。危険すぎる。
だけど――。
本当にアイツがあたしに手を出すか、って言ったら、どうだろう、と思う。
だって、アイツは、昔のあたしを知っている。
ずっと“ブス”といじめたくらいだ。
いくら今大人になったからって、その固定観念が消えるなんてことなんてないんじゃないか……。
ずきりと、胸の奥が痛んだ。
昔の自分。
ブスで可愛げもなくて――拓馬の言うように、辛気臭い女。
いくら上塗りしても、絶対に消えることはない過去。
またいつの間にか、溜め息が零れる。
ドアが開く音がして、ハッとした。
ばさばさと、タオルで身体を拭く音が聞こえてくる。
「何か、飲み物ある?」
こちらに来た拓馬は、トランクス一枚に、首からタオルをかけている。
あたしは顔を逸らして、続けてアイロンをかけた。
「冷蔵庫に水とお茶のペットボトルがあるから。
勝手に出して飲んで」
「あー。
てか、オマエ、何意識してんの?」
ひょいと、腰を屈めてあたしを覗き込んでくる。
あたしは、逸らしていた顔を拓馬の方へ向け、上目遣いに睨んだ。
顔だけを見ているつもりでも、どうしても素のままの身体が目に入って、心臓のあたりがざわざわする。
今迄、何人もの男と身体を重ねて、こんなもの見たって別に何ともないはずなのに。
相手が拓馬だというだけで、どうしようもなく落ち着かない。
だけど、意識してるなんて、思われたくない!
「普通、そんな格好でうろうろされたら困るに決まってるでしょ!
あたしの視界に入んないでよ!」
「エロいな、葉山」
「ばっかじゃないっ」
拓馬は、あははっと楽しそうに笑って、キッチンの方へと向かった。
冷蔵庫が開く音がする。
イライラさせられて仕方がない。
どこまでコイツは人の神経を逆撫で出来るのだろう。
それでもあたしは、悟られないように普通を装って、今度はスラックスにアイロンを当て始めた。
嫌いな男の服に、アイロンをかけるなんて。
焦がしてやりたいくらいだ。
「葉山」
「何?」
顔を向けないまま返事をすると、見ろよと言わんばかりに、目の前にオレンジっぽい書類袋が差し出された。
「コレ」
あたしはアイロンの手を止め、500mlのミネラルウォーターのペットボトルを片手で飲みながら無愛想にそこに立つ拓馬を見上げる。
「何?」
「もう一度、煮詰めた調査票」
調査票?
それならもう受け取っているはずだ。
何度もメールでやりとりして、何度も手直ししたものは、すでに昨日、韮崎さんにも石田さんにも渡してある。
「だって、もう出来たの貰ったよね?」
「だから、もう一度煮詰めたんだよ。
『華のき』に今日の昼間行ってきて、店の雰囲気とかを実際見て、もっと店に合うものにした。
昨日提出したものより、良くなってるはずだよ」
「えっ……」
「今日、持ってくるって約束したしな」
今日……。
わざわざ、店を見に行った?
それはもちろん、仕事の一環だろうけど……。
持ってくる約束、なんて。
だって、コイツにとったらもう済ませてあることで、別にしなくてもいいはずのこと。
それに、どうせ適当に言ったことだろうに……。
黙ってみつめていると、拓馬が言った。
「コレがないと、会いに来づらかったし」
「は……」
何を言ってるの?
それも、何かあたしを惑わす作戦?
恐る恐る、目の前のオレンジを手に取ろうと、手を伸ばした。
袋の端を掴んだ、と思った瞬間だった。
指先は空を切って、目の前からすっとオレンジ色が消えた。
「何……っ?」
その手を握りしめ、書類袋をぶらぶらと揺らす拓馬を睨み上げる。
ヤツは、楽しそうに目を細め、あたしを見下ろしてくる。
「オマエがこの仕事頑張る理由って、韮崎さん?」
「何を――」
拓馬は揺れていた袋はぴたりと止め、ペットボトルを持つ方の手を腰に当てた。
「韮崎さんが、何でオマエの会社に出向してるのか。
東和重工の副会長の孫娘との結婚も、この先のポジションもかかってる。
オマエ、知ってんの?」
「……それくらいは、知ってる」
拓馬はあたしの返答に、ふうん、とほんの少し顎先を上げた。
「彼女の両親は、韮崎さんとの結婚に賛成らしいじゃん。
反対してるのは、爺さんの副会長だけらしいな。
だから、今回オマエの会社の業績改善できて認められれば、すぐに結納して、式も挙げるって噂」
「―――」
すぐに結納? 式?
目の前のオレンジが、歪んだ。
「この仕事が成功すれば、即、アイツは他人のモノになるって」
「………」
「オマエはそれでいいんだ?」
煽るような声色に、ドン、と、台の上に持っていたアイロンを乱雑に置き、あたしよりもずっと上にある顔を睨みつけた。
「ほっといて!」
「ほっとくもなにも、オレだって関わってるし」
「アンタはアンタの仕事をきちんとこなしてくれればいい。
あたしは自分の仕事をやるだけよっ」
「知ってるよ。
オマエがずっと、今迄経理部にいたこと。それも腰掛けOLだったって。
ちょっと調べりゃすぐ分かる。
だけど、まったく初めてのオマエが、軽く発破かけてやったらきちんと自分で調べてきて。
ここ数日のやりとりでも、真剣に取り組んでやってるのも分かった。
じゃあ、何そんなに頑張ってんの?」
「―――」
「ぶっ潰してやろうとか、思わないわけ?
オレが、してやろうか?」
「やめてよっ!」
一瞬、拓馬は表情を固めたかと思うと、違った。
ただ、あたしのあまりの勢いに驚いただけのようで、すぐに大きな声を立てて笑い出す。
「ばーっか。
オレが自分の顔まで潰すようなこと、するわけねーじゃん。
つーか、オマエが本気なら、オレも本気になってやるよ」
「は……?」
「調査した店舗が必ず業績伸びるようにしてやる。
本来なら、コンサルティング料も戴くところだけど、オマエに免じてタダで。
オレが本気でやるって言ったら、絶対に、変わる」
「何で――……」
拓馬は「何で?」と反問してから自答した。
「オマエが泣くとこ、みたいから」
「はあっ……?」
「仕事が上手くいってぇ、韮崎さんが認められてぇ、結婚も無事に決まってオマエが泣くとこ」
「ふざけないでよっ!」
思わずまた大声を上げた。
けれど、全く応えていない顔つきで、拓馬は言った。
「何で怒るんだよ?
オマエが望んでることだろ?」
ニッと、意地悪く笑う。
――あたしが、望んでる、こと。
反論、できなかった。
言葉なんて、出なかった。
あたし達のプロジェクトの成功で、彼の夢が叶う。
だけどそれは同時に、彼は彼女のモノになる。
絶対に届かない場所に、行ってしまう。
そんなの、もうとっくに分かってること。
それでも、あたしは彼の夢を叶えたいって――。
胸が、痛い。
届かないはずの場所を、これ以上ないくらい押し潰したみたいに痛くて苦しくて、あたしは、ただ唇を噛んだ。
さらさらと聞こえてくる雨音の中に、ピーピーと忙しない音が割り込んだ。
拓馬は何事もなかったかのように、音の方へと振り向いた。
「乾燥、終わったみたいだな。
つーか、アイロンも終わったのかよ?」
「………」
黙ったままでいると、拓馬は自らシャツを取りに行き、戻ってくるなりアイロン台の上にそれをバサッと落とした。
「コレも早くやって」
「――っ。
終わったら、すぐ帰ってよねっ」
「言われなくても帰るよ。
接待がある、って言ったろ」
「じゃあ、あたしのところなんか、来なきゃいいじゃないっ」
「楽しいから。
ようやく、再会できたんじゃん?」
「――!」
このっ……!
殴ってやりたい衝動を飲み込み、ぎりっと奥歯を噛み締める。
本当に、何を考えているんだか。
そんなに、あたしのことをいじめて楽しいのか。
悔しさと情けなさで、涙が出そうだった。
だけど、絶対に、コイツの前で涙なんて見せたくない。
昔もそうだった。
いつもいつも、何を言われても何をされても、絶対に泣いてやるもんか、って――。
黙ったまま、またアイロンをかけ始めると、拓馬は書類袋をあたしの横に置き、ソファーに腰を下ろした。
そしてヤツも黙ったまま、そこからあたしがアイロンをかける様子を、ただじっと見ている。
雨の音。
アイロンから上がる蒸気の音。
アイツの動きに合わせてソファーが軋む音。
視線を上げれば、アイツの姿が目の端に入って。
落としても、オレンジがちらつく。
どれもこれも、息苦しくて、仕方ない。
シャツのアイロンかけが終わると、拓馬はすぐにそれに袖を通した。
裸に近い状態だったのが服を纏うと、それだけで少しほっとする。
拓馬は、鏡の前で手慣れたようにネクタイを締め上げると、自分の荷物とジャケットをさっと持ち「帰るよ」と、一言言って玄関へ向かった。
見送りたくなんてなかったけれど、帰ったことをきちんと確認しないのも怖い。
それに、さっさと鍵も閉めたいし、あたしも後を追った。
「サンキュ」
高級そうな革靴を履きながら、拓馬が言った。
靴の先が雨で濡れて変色している。
そう言えば、コイツ、傘持ってないんじゃん、と、どうでもいいことを思う。
「……じゃあね」
ドアを開けた拓馬に、ようやく終わりの言葉を告げる。
さっさと帰ってよ、と、背中に向かって心の中で唱えると、まるで聞こえたかのように拓馬は眉を顰めて振り向いた。
「気のねぇ返事だなぁ。
もっと可愛らしくお見送り出来ない?」
「見送るだけマシよ」
「まぁ、いっか。
じゃあ、来週な」
来週――打ち合わせ、か。
また会わなきゃならないなんて。
仕方ない。
こっちに関してはビジネスだ。
「よろしくお願いします」
あたしは割り切って頭を下げた。
ビジネスのほうが、幾分もマシ。
「葉山」
「はい?」
顔を上げると、拓馬は真剣な顔をしている。
そして、あたしの目を見て強く言った。
「絶対に成功させてやる」
「………」
「オマエが、そうしたいんだろ?」
「―――」
「叶えてやるよ。
オマエの泣き顔、見てやるからな」
――!
何か言葉を返す前に、拓馬によってドアが閉められた。
閉じられる瞬間の隙間から見えた顔は、冷笑だった。
「……っのっ!!」
どうにもならないほど湧き上がった怒りに、たたきにあった自分の靴を咄嗟に取って投げつけた。
玄関の厚いドアに当たったそれは、跳ね返って虚しく自分の足元に転げ落ちる。
怒り?
ううん、そうじゃない。
怒りよりももっともっと大きなモノが、ずっとずっと占めている。
「……っ」
堪らなくなって、口元を押さえた。
それでも、勝手に嗚咽が漏れる。
足元も、ぐらつく。
拓馬の言う通り、そうしたい。成功させたい。
それを望んでるのに。
じゃあ、どうしてこんなに苦しいのよ……。
今足元に落ちた靴に、涙の粒が跳ねた。
本当の、本当は、どうしたいの……?
次々と湧き出てくる涙を拭って、ふらふらと部屋に戻る。
そして、バッグの中から携帯電話を取り出し、迷わずに電話をかけた。
かけたいと、かかってきて欲しいと願って、何度もディスプレイに表示させた番号。
けれどまだ一度も、通話ボタンを押すことの出来なかった番号。
数回のコールのあと、それが途切れた。
『はい』
落ち着いた、彼のバリトン。
耳に優しく響いて、胸が苦しくなった。
あたしは、これ以上考えることが出来ずに言った。
「韮崎さん、会いたい……」