22
「参加店舗数は、全部で126店舗です。
一応今のところはその数で決定なんですけど、ギリギリのところで数店舗増えるかもしれません。
こちらがそのリストです」
デスクの上にプリントアウトした資料を差し出すと、韮崎さんは、うん、と頷きながら、それを手に取った。
金曜日の今日は、休日前のおかげで、部に残っている社員は既に少ない。
あたしもOKが出たら、今日の仕事は終わりだ。
「ご苦労様。目を通しとく。
週明けに、もう一度佐藤さんと打ち合わせしようと思う。
それは、オレから連絡しとくから」
「はい」
……週明けに、打ち合わせ……。
その言葉に、ホッとした。
これで今日、あたしが拓馬と会う理由は綺麗に消え去ってくれたから。
もう19時近くなっているし、普通の会社なら就業時間は過ぎている。
そんな時間にわざわざ仕事がらみで会いに来るとは思えないし、大丈夫だとは分かっていても、それでもどこか不安があって。
次の打ち合わせが拓馬と二人だけではないことにも、安堵の息を小さく吐き出す。
韮崎さんは、今あたしが渡した店舗リストを見ながら、目も上げずに言った。
「一段落ついた感じだな。
終わったなら、上がって」
「あ、はい。じゃあ、お先に失礼します。
お疲れ様でした」
ぺこりと頭を下げる。
見ていないのは分かっているけれど、目の端くらいには入っているだろう。
……やっぱり、ね。
誘ってくれるはずなんか、ないよね。
明日も明後日も、あたしの予定は空いたまま。
あたしから誘おうとは思っているけれど。
出来れば韮崎さんから誘って欲しいのは、もちろんのこと。
今迄は男の方から誘うのは当たり前だったのに、このひとにとっては違うなんて。
ないとは分かっていても、どこかにほんの少しの期待があって。
自分の中のそんなくだらなさが、嫌になる。
それに、社食のことも。
どうなったか以前に、会議にかけてくれたのか、それさえも聞かされてない。
そんなものなのかなぁ、あたしの存在って……。
あたしのため、じゃなかったのかなぁ、やっぱり……。
韮崎さんにとっては、会社を良くするための、ただのひとつの案にすぎないの?
これから相川さんに会うのは、余計に憂鬱な気分にさせられる。
溜め息をひとつ落とし、韮崎さんの席から今度は石田さんの席へと向かう。
コレも、憂鬱の種のひとつだ。
石田さんは、一応は仕事をしてくれる。
……そう、言葉にして、一応。
言ったことやお願いしたことは、完璧にこなしてくれる。
けれど、あたしの下でやりたくないというのは、言葉には出さなくても、ありありと感じられる態度を取ってくる。
もちろん、この間の暴言の件に関しても、謝ってこない。
だから、オンナってのは……。
仕事に私情をはさむなんて。
余計に気が張って、胃がきりきりする。
仕事は仕事、って割り切って欲しい。
言っとくけど、あたしだって、嫌いなんだから!
何であたしが気を遣わなきゃならないのよ!
だけど、自分が一応責任者となって引っ張っていかなきゃならないなら、円滑に出来るようにするのも仕事のうち。
こういうの、上に立ってみてようやく分かる。
自分の下を如何にして上手く使うか。
結局はそれも、自分の力量なんだろうけど……どうも、駄目。
「石田さん」
これまたこちらを見ていないのは分かっていても、笑顔を差し出しながらデスクに向かっている石田さんに声をかける。
「参加店舗が決まりました。
これ、リストです」
あたしがそう言ってから、ようやく石田さんは下から視線を這うように上げ、こちらへとゆっくり首を捩った。
そして、明らかに面倒くさそうな表情をして見せてから、資料を受け取った。
「これ、決定ですか?」
「いえ、暫定です。
参加は126店舗あって、そこは決定で、あとは追加で参加する店舗があるかもしれないです」
「結構多いのね」
「そうですね。
でも、出来るだけ参加店舗は多い方がいいですし。
これからでももう少し増えて欲しいですよね」
「やる気満々ね」
石田さんはふふっと笑った。
それは、嫌み?
あたしだって、一応は会話を増やそうと努力してる、って言うのにさ。
言い返したいのは山々だけど、まだ結果を出せていない分、仕方なく黙っておく。
「あ、あと、週明けにまたM&Sさんとの打ち合わせをするそうですから」
言った途端、石田さんは「ふうん」と嫌悪感剥き出しの顔をした。
「佐藤さん、ね」
だからぁ……。
……違う、っつーのに。
あんなヤツと勘違いなんか、して欲しくないっつーの!
あたしは、今度は引き攣りそうな笑顔を堪えた。
「じゃあ、よろしくお願いします。
休み中でも、何かあれば連絡してくださいね」
「今日は金曜日ですもんねぇ。早く帰らないと。
お疲れ様です」
ふんと、鼻を鳴らして石田さんは立ち上がり、デスクの上の書類をざっと纏める。
彼女もどうやらもう帰るらしい。
……ったく、ホントにいちいち嫌みったらしい女だな。
「石田さんも、週末はゆっくり過ごしてくださいねぇ」
上から目線でにっこりと笑ってから「お疲れ様です」と会釈する。
石田さんが眉の形を歪めたのを見届けてから、あたしは自分のデスクに戻った。
残業で残っている男性社員たちは、あたしたちの応酬は聞こえているはずだけど、それが不協和音だとは気付いていないらしく、全く無関心に仕事をしている。
――19時5分前か。
デスクに戻ると、左腕の時計に目を落とす。
相川さんとは、駅前のカフェで19時半に待ち合わせをしている。
時間的には、軽くメイクを直して、ちょうどいい頃合いだ。
「あ、雨……」
レストルームに寄ってからロビーに向かうと、厚いガラスの自動ドアの向こう側は大粒の雨が降っていた。
いつの間に降り始めたのだろう。
この時間は会社のひと気も大分なくなっていて静かなせいか、雨音がさらさらと聞こえてくる。
今、女子社員がひとり入り口のドアを潜り、薄暗い中にぱっと赤い傘の花を開かせた。
傘のないあたしは、その姿をここから見送る。
朝は天気が良かったのにな。
参ったなぁ……。
考えてみればここのところ、天気予報さえろくすっぽ見ていない。
家でも仕事を遅くまでするようになって、朝は以前よりもぎりぎりに起きて支度をするせいで、ニュースは付けっ放しにしているとはいえ、気が付いたときには天気予報はいつも終わっている。
それでも自分の中のスタイルは完璧にしておかないと気が済まないから、疲れていても必ずメイクもスタイリングも完璧に施す。
ネイルが剥がれていれば、塗り直しだってする。
もちろん、オシャレが好きだっていうのも大きいけれど。
何より、韮崎さんの言葉が耳に残ってる。
――『女として――惹きつけられて、仕方ないんだろうな』
……オンナで、いなきゃ……。
そうじゃないと、あたしの価値がなくなる。
ガラス越しに映る雨を見つめる。
大きな雫が、ひっきりなしにひさしから垂れ下がって滴り落ちる。
完全なる本降りらしい。
地下道まで走るしかないな……。
途中で傘も買わなきゃなぁ。
走ろうと意気込んで、入り口の自動ドアを潜った。
「瑞穂ちゃん!」
外に出た途端声をかけられて、勢いよく飛び出したあたしは、前につんのめりそうになった。
ひさしの内側で体勢を整えていると、雨水を踏みしめる足音が近づいてくる。
「大丈夫?
ゴメン、急に声かけて」
「相川さん、カフェで待ってたんじゃ……?」
「急に雨降ってきたしさ、天気予報じゃ降るなんて言ってなかったし、瑞穂ちゃん、もしかして傘持ってないんじゃないかな、って。
さっき一応、メールも入れておいたんだけど、気付いてなかった?」
「あ……」
バッグから急いで携帯電話を取り出すと、言われた通り、メールの着信マークが点いている。
「ごめんなさい、気付かなかった」
「いいよ、いこうか?
コンビニのビニ傘で悪いんだけど」
相川さんが差している透明の傘が、あたしに傾けられた。
すぐ目の前には、白いプラスチックの柄を持つ腕。
……って、相合い傘?
そりゃあ“カノジョ”って思ってるんだから、当然なのかもしれないけど……。
でも、ココ、会社の前だし、ちょっとなぁ……。
そこに入ることに躊躇しているうちに、相川さんがあたしの向こう側に向かって、唇に薄く笑みを浮かべて軽く会釈した。
その視線の先を、まさか、と振り返る。
思っていた人物――韮崎さんではなかったけれど、相手は菊池さんだった。
目が合うと、いやらしい笑みを浮かばせてから、さっさと行ってしまう。
何だか凄く嫌な感じ。
この間の歓迎会のことだって、皆には何も言っていないみたいだし。
あのとき酔っていたとはいえ、あたしにあんなことをしたんだから、わざわざ男関係を言いふらすようなことはしないだろうけど……。
「タクシーで行きませんか?
ほら、結構雨強いし。二人で傘に入ると、相川さんのスーツ、濡れちゃう。
それ、ポールスミスでしょ?」
あたしは差し出された傘に入らないまま、にっこりと笑顔を作る。
勿論、相手を立てることは忘れない。
持ち物を褒められるのは、悪い気はしないから。
手に持っているジャケットのタグは、確認済みだ。
なのに相川さんは、思い切り表情を曇らせた。
「……嫌なの?」
「え?」
「一緒に歩きたく、ない?」
「まさか。そんなんじゃないですよ」
「最近、変だよ、瑞穂ちゃん」
変って……。
最近もなにも、寝たのはたった1回だし。
仮に百歩譲って付き合ってるとしても、ほんの数週間程度なのに。
苦笑いをすると、相川さんが続ける。
「俺達って、付き合ってるんじゃないの?
もしかして、俺のこと、避けてる?」
「避けてなんて……」
……いるけど。
「会社で見られたくないひとでもいるの?」
「え……」
「他に好きなひとでも出来た?」
「―――」
答えようかと、数瞬悩む。
元々はそう『他に好きなひとが出来た』と言おうと思っていた。
だけど、こんなところで言う言葉じゃないことに、言いあぐねる。
俯いて沈黙に委ねたままでいると、相川さんが言った。
「……韮崎……じゃ、ないよな?」
ぎくりとして、顔を上げる。
「まさか!」
「だって、ちょっと、オカシイよ」
「だから、違いますって!」
「何、興奮してるの?
じゃあ、行こうよ」
乱雑に腕が掴まれて、強く引かれる。
相川さんの手から離れた傘が落ち、風に煽られたそれは、アスファルトの上をカツカツと擦れた音を立てながら転がっていった。
「ちょ……っ! 相川さん!」
「行こう」
「放して――」
言いかけたところで、腕に喰い込んでいたはずの指が離れた。
じん、と腕に痛みと、背後に人の気配を感じる。
「それ、オレだから」
よく知った、あの声。
――まさか。
アイツが、いた。
――拓馬。
「アンタ、何――?」
あたしが言いたい言葉を、相川さんが鋭い目つきで代わりに言った。
だけど、拓馬は飄々とした顔つきでいる。
「だから、コイツの好きなひと」
は!?
拓馬の言葉に、一瞬思考が止まる。
あたしが声も出せずにいると、相川さんは拓馬の腕を大きな素振りで振り払った。
「……オマエ……もしかしてM&Sの、社長……?」
「あー、ご存じですか?
ありがとうございます」
「韮崎が言ってた、たしか取引先だろう?
何で、瑞穂ちゃんと……」
「だから、運命的な再会をしちゃったんですよ、仕事上で。
お互い同郷の初恋の相手同士で。
この間、何年かぶりに会って、盛り上がっちゃって」
「――は」
初恋の相手同士!?
声に出す前に、拓馬がぐいっと思い切りあたしの腕を引いた。
おかげでその言葉は途中で放り出されてしまう。
信じられない!
ありえない!
相川さんから逃れる嘘だって分かってるけど、たとえ嘘でもコイツとなんて――!
「同郷? 初恋?」
本当なのかとでも確認を取るように、相川さんがあたしを見た。
「そんなの……」
嘘に決まってる。
心の中でそう答えて、だけど仕方なくあたしは「はい」と首を縦に振った。
ここは会社の目の前で、さっきから帰宅する社員の視線がある。
拓馬の嘘に乗ってしまうことが、これ以上ココで事を荒立てないで、一番円満に別れられると思ったから。
これで違うと言ったら、じゃあ何なんだ、ってなるだろうし。
このあと二人きりで話し合うとしたら、余計ややこしくなっていることを纏めるのに大変だろうし。
何より、温厚で優しいはずの相川さんが――今、少し怖い。
だけど、相川さんをそんな風にしてしまったのは、あたしだ。
「ごめんなさい」
あたしは、黙り込んでしまった相川さんに、頭を下げた。
男と別れるときに、全て円満か、って言うと、もちろんそんなはずもない。
今迄、お互いに本気じゃない恋愛が大半だったけど、相手はそうじゃないことも、あった。
きちんとあたしを好きでいてくれたことも。
だけどそのときは、ただ早く別れたいって――相手の気持ちなんて思いやるカケラもなくて。
こんな風に嘘を吐くことだって、何ともなくて。
なのに、今。
これ以上何も言わない相川さんに、胸がちくちくと痛んだ。
「とにかくそういうことなんで、申し訳ない」
拓馬は、言葉を失ったように黙りこんだままの相川さんから、容赦なくあたしを連れ出した。
相川さんは何も言わないし、追ってもこない。
後ろも――振り向けない。
大股で歩く拓馬はペースも速く、雨が顔に刺さるように当たって、あたしは目を細める。
これで、いいんだ……。
酷い女だと思われれば、忘れやすい。
「乗って」
会社のビルからすぐの通りへ出ると、拓馬の車らしき前で足が止まった。
トヨタのマークが付いている、黒い大きなワンボックスだ。
繋がれていた手が放され、拓馬は助手席のドアを開けた。
触れていた部分に拓馬の感触が残っていて、あたしは我に返ったように、今一緒にいるのが拓馬だと再認識して、ぞっとした。
それって、乗れってことでしょ?
何でこれ以上一緒にいなきゃなんないのよ。
「ここでいい。
悪かったわ、ね」
助けられたかというと複雑にさせられた気もするけれど、大ごとにはならずに別れられたから、一応はありがとうと言うと、拓馬は、はあ? と顔を顰めた。
「何だよ、濡れるだろ?
早く入ってくんない?」
「だから、何でアンタの車に」
「迎えに来るって、言ってあっただろ」
「仕事の件は、業務中にお願いします」
「だーかーらー、仕事中じゃねーじゃん。
せっかく助けてやったのに。
無事に別れられただろ?」
確かに、無事に別れられたけど……。
「勝手にアンタが言ったんじゃない。
あたしは、知らない」
「言うねぇ」
拓馬は感心するように、ひゅう、と唇を鳴らした。
「……大体、どこから見てたのよ?」
「最初から。ロビーにいたんだよ。
ちょうど、韮崎さんとの電話を切ったトコで、オマエがエレベーターから降りてきた。
驚かせよっかなーと思って、こっそり後ろついてって、声かけようとしたトコに、アイツが出てきたからさ」
「………」
「で?」
「え?」
「韮崎さんが、本命とはね」
――!
思わず、拓馬を凝視した。
すると拓馬は、してやったりと、ニッと唇の端を上げた。
カマかけたの!?
「何だ、ホントにそうなんだ?」
「違っ……!」
「分かりやすー」
「だから、違うってば!」
「何、ムキになってんの?
大体、オレが何の仕事してると思ってんの?
どんだけ店舗も人の裏も見てきてると思ってんだよ。
ウチみたいな小さい会社が大手と対等にやってくためには、ハッタリもカマかけも得意じゃないとイカンの。
あっまいねぇ、葉山サン」
その言葉通り、得意げな顔つきで拓馬が言った。
……コイツ……。
「アイツ、韮崎が、とか言ってたな。
知り合いってことだよな?
まぁ、それじゃあマズイよなぁ」
「………」
「韮崎さんて、確か婚約者いたよなー?」
「何で、知ってるのよ……」
「だからぁ。オレが何の会社やってる、って言ってんだろ?
そういう話はどこからでも入ってくるんだよ。
人脈がモノを言うしな」
「あたしが勝手に好きなだけよ。
婚約者がいるのは、分かってることだし、関係ない」
拓馬は肩をすくめた。
そして、間近で覗き込んでくる。
「関係、ない?
あるだろ?」
見抜かれたようで、思わず目を逸らした。
すると、弾けたように、拓馬は笑い出した。
「マジで、わっかりやすー!
オマエ、オレに分かんないと思ってんのー?
やっばいよなぁ、確かにその関係」
「違っ……!」
付き合ってるなんて、一言も言ってないのに!
「いくらオマエが違うって言ったって、調べれば簡単に分かるさ」
ぐっと、言葉が詰まった。
言われた通り、興信所でも使えば、相手が分かっているのだから簡単にバレてしまう。
歓迎会で、二人で帰ったことだってネタだ。
言い返すことが、出来ない。
「東和重工の、副会長の孫娘。
オマエとの関係がバレたら、婚約破棄だけじゃ済まないな」
拓馬は「クビ?」と、指を揃えた手で、喉元をバッサリ斬りおろす素振りをする。
その瞬間、あたしの喉が鳴った。
「だから、早く入れよ。
もうオレ、ずぶ濡れなんだけど」
冷笑にも見える顔をあたしに向けて、拓馬が言った。
雨粒が目の中に入って、視界が滲んだ気がした。
腹わたが、煮えくりかえりそうに沸々としている。
だけどあたしは仕方なく、拓馬の車の助手席に乗るしか選択はなかった。