21
「昨日は、大変申し訳ありませんでした」
始業前。
早々に席に着いている韮崎さんに、頭を下げた。
昨日、電話もメールもしなかったのは、仕事とプライベートをきちんと線引きしたかったから。
私情をはさんでいると、思われたくない。
打ち合わせで何も出来なかったのは、明らかにあたしの過失。
体調が悪かったわけじゃない。あたしの心の弱さの問題だ。
仕事に差し支えるような脆さなんて、韮崎さんにとっては論外だろう。
そのことを謝ったら、あたしが弱い人間だとでも言っているようなものだ。
だから、謝るのは一言。
それ以上は、仕事で取り戻す。
もう、そう心に誓ったのだから、必ずやり遂げてやる。
「各支部とセクションの担当者に連絡しておきました。
全店舗、参加有無は今週中には分かる予定です。
あとは、昨日話し合った調査票の項目のチェックを再度したんですが、いくつか案が浮かんだのでまとめてみました。後で一度見てもらえますか?
データーは、韮崎さんあてのメールに添付して送っておきましたから」
「わかった」
韮崎さんは、たったそれだけの返事をして、自分の仕事に戻るように目線をパソコンのディスプレイに落とした。
昨日の体調のことも、何も問わないらしい。
あたしを帰らせて、菜奈に頼むほど、本当は心配してくれたくせに。
相変わらず社内ではこうなんだな、と思う。
まぁ、彼らしいんだけど。
それでも、あまりにも素っ気ない態度には、やっぱり寂しさを感じる。
あたしも普段通りを装って一礼し、戻ろうとくるりと背中を向けると、思い出したように「葉山さん」と呼び止められた。
すぐに振り向く。
「はい」
「自由にやっていいよ」
「え」
「こうしたほうがいい、ってあれば、どんどん詰めていって。
もちろん、俺も案は言うし、口も出すけど、きちんと報告してくれれば、きみの判断で進めていい。
予算ももう少し掛け合ってみるから、参加店舗をなるべく増やすように各セクション担当者にも交渉してほしい」
あたしの、判断で……。
担当者や、店舗の動かし方も、あたし次第ってこと……。
「はい!」
「調査については、佐藤さんとよく相談してくれ」
びくっと、肩先が跳ねたのが、自分でも分かった。
佐藤さん、と……。
「……分かりました」
当然のことなのに、その名前だけでまた緊張するなんて……。
自分のデスクに戻ると、パソコンを立ち上げる。
始業時間前に仕事を始める自分なんて、今迄想像もつかなかった。思わず苦笑いが零れる。
だけど、こういうのも案外悪くないと思う。
メールボックスを開くと、ドキッとした。
受信トレイの一番上にあるのは――『M&S 佐藤拓馬』
昨日、寝る前には、受信トレイになかった名前。
と、いうことは、あたしが寝たあと――3時すぎということ。
左端には添付ファイルのマーク。
件名は『調査票サンプルにつきまして』。
右端には4:28の時刻が表示されている。
4時28分……。
このひと、ちゃんと寝てるの?
……って、あんなヤツのこと、そんなのどうでもいいし。
まぁ、こういうのって他に担当がいて、その人が作ってるんだろうけど……
送信者名と件名を、睨み据える。
カーソルを合わせるけれど、その先のアクションができない。
たかだかメールを開くのに、動悸が上がっているのも分かる。
仕事以外の何かが、メールの文章の中に書かれているのではないかと……。
そんな考えが、浮かんでしまう。
つい今、韮崎さんからも言われたばかりなのに。
大体、何度も平気だって、見返すんだって、心に決めたはず。
あたしは大きく息を吐き出し、ようやくメールを開いた。
『葉山様
お世話になっております。
M&Sの佐藤です。
調査票のサンプルの作成をしましたので提出させて頂きます。
ご確認の程お願い申し上げます。
M&S 佐藤拓馬』
何だ……。
あまりのシンプルさに、拍子抜けした。
心配など、するほうがおかしいと思えるほどの内容に、恥ずかしさを覚える。
やっぱり……からかったんだ、昨日は。
金曜日に持ってくる、とか、ほんの少しでも本気にしちゃうなんて。
それで、馬鹿みたいに乱されるなんて――。
そうだ。仕事なんだから。
拓馬だって、何かをしてくるはずがないって、自分でも思ったくせに。
それを口火に、拓馬とは、一日に何度もメールでやりとりをした。
あたしの持っていた不安をよそに、やりとりはどれも初めのメールと変わらないビジネスライクな実にあっさりとした内容だった。
電話はかかってこなかった。
あたしも、かけなかった。
けれど、なるべく直接の会話は避けたかったというのは、絶対的にあたしの中にあった。
アイツなんて、と思いつつも、どこかで“怖い”という意識が混在しているのは否めなくて。
だから、こんな風に電話を使わないメールでのやりとりは、正直ホッとして、仕事にも集中できた。
「あー、疲れた……」
思わず、社食のテーブルに顔を平伏せた。
目と鼻の先にあるA定食のトレーから、醤油と砂糖の甘辛い匂いが漂ってくる。
卵でとじられたカツ煮の香り。
「お行儀悪ーい、瑞穂」
同じA定食を載せたトレーをあたしのトレーの真横に置きながら、ミカが席に着く。
「仕事、そんなに忙しいの?」
「うん、まぁまぁ……。調査が始まったら、きっともっと忙しくなるとは思うけど。
事前準備も初めてのことだから、結構大変。決めることとかも多いし。
でも、わりとスムーズに進んでるよ、今のトコ」
「ふぅん、そーなんだ?
で、例のあの人とも上手くいってるの?」
ドキッと、する。
身体を起こして、何気ない素振りで箸を手に取った。
「メールのやりとりしかしてないから、別に」
「あれ? 韮崎さん、メールなんかしてくれるの?
そういうタイプじゃないと思ってた」
「えっ……」
――韮崎さん。
そうだ、ミカには拓馬のことを言ってないんだ。
もう、ヤダ。
何であたしは拓馬だと思っちゃうの……。
平気な振りをしても、いくら大丈夫だと思っても、どこまでも纏わりついて離れないのは確かで。
『嫌い嫌いも好きのうち』
そんな言葉が思い浮かんで、あたしは振り払うようにぶんぶんと首を振った。
「週末とかは、会うしね」
韮崎さんとは、変わらずで。
週末が近づいてきても、約束なんてしてもいないのに。誘われてもいないのに。
つい、そんなことが口をついた。
ミカはニヤニヤと笑って「いいねぇ」と小突いてくる。
あたしって、馬鹿……。
「あ。瑞穂もミカもA定?」
カウンターから戻ってきた菜奈は、同じものを載せたトレーをテーブルに置いて、あたしの目の前に座る。
「だってー。今日のB定、海老フライだったじゃん?
あれさぁ、衣が厚くて油っぽくて、その上エビが妙にパサパサしてて不味いんだもん。
このカツも、衣厚いけどねー。
でも、煮てあるだけまだ食べれるって言うか……マシ」
「ホント。ココって値段はお手頃だけどさ、もう少し美味しくならないかなぁー?」
不平を並べて溜め息を吐き出す二人に、あたしは言った。
「なるよ」
二人は顔を見合わせてから、今度は同時にあたしを見る。
「は?」
「美味しくなるよ」
「何で?」
「何でも」
「なるわけないじゃん」
「なるって言ったらなるの」
「何、それ? 販促で何か企画でもあるの?
……って、ソレ、販促の仕事じゃないよね?」
「秘密」
はあ? と、またミカと菜奈は顔を見合わせる。
韮崎さんは、今週の会議で立案してみると言っていた。
彼なら、本当に変えてしまう気がする。
きっと。
あたしも、変えたい。
自分の会社を好きになりたい。
誇れるようになりたい。
これがウチの会社だって、ウチの店だって。
「まぁ、ホントに美味しくなってくれれば万々歳だけどねー」
隣でミカがそう言って、汁の滴るカツを口に入れたところで、テーブルの上に置いてあるあたしの携帯が鳴り出した。
ぱっと手にとって開くと、相川さんの名前が点滅している。
あたしは急いで口を動かして、ごくん、と飲み込む。
電話をするのを避けていたわけじゃない。
あたしを気にかけていることがありありと感じられる控え目なメールは、彼から何度も来ていた。
『体、大丈夫?』とか『仕事頑張ってね』とか『今日は天気がいいね』とか。
“会いたい”とか、そういう言葉は使ってこない。
多分、意識的に避けているのだと思った。
だからそれに対して、あたしもありきたりな返事しか出来なかった。
――優しいひと。
そう、思う。
あたしのことを、好きでいてくれるのも分かる。
こんな風に、今迄オトコに対して感じたことのない罪悪感が芽生えるのは、あたしが報われない恋を知ったせいなのか。
それとも、彼が韮崎さんの親友だからなのか。
だけど、そろそろ本当に、会ってきちんと話をしなくちゃ。
あたしは、空っぽになったはずの口の中をもう一度飲み込んでから、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『瑞穂ちゃん? 相川だけど。
今、昼休み?』
「はい」
『体調、どう?
仕事、忙しい?』
「大丈夫ですよ」
『心配してたんだ。
会いたいけど、そんなときに悪いかな、って』
「………」
本当は、体調なんて悪くもなんともなくて。
あのとき、韮崎さんと一緒だったなんて、このひとは露ほども思っていないだろう。
どう答えようか一瞬悩むと、答える前に相川さんが訊いてくる。
『会えるかな?』
電話がかかってきたら言われるだろうと予想していたあたしは、用意していた言葉を取り出した。
「あたしも、会って話がしたいんです」
相川さんは、ほんの少しだけ沈黙してから言った。
『じゃあ、金曜日は? 仕事のあと平気?』
――金曜日?
あの声が、蘇る。
拓馬の。
――『あー、じゃあ、金曜日空けといて』
――『迎えに来るから』
まさか。
この間だって、あれだけあたしをからかったんだもん、本当に来るわけなんてない。
調査票の直しだって、結局メールで届いてる。
それに、もし直接会うとしたら、絶対に仕事以外でなんて嫌だし。
て、ゆーか、まっぴらゴメン。冗談じゃない!
「金曜日で、大丈夫です」
あたしは頭の中のあの声を塗り潰すように、ハッキリと言った。
週末に誘ってくるなんて、そういうつもりなんだろうけど。
関係を明確にするのには、ちょうどいいのかもしれない。
『うん。じゃあ、また後でメール入れるよ。
会えるの、楽しみにしてる』
そう言った相川さんの声と、菜奈の「瑞穂」と呼ぶ小声が重なった。
続けて声のない唇の動きがあたしに伝えてくる。
――「韮崎さん」と。
菜奈が何を言ったのか分かったときには、姿が目に入った。
いつもの、会社での顔つき。
あたしの電話の会話の内容が、聞こえていたのかいないのか。
ううん。聞こえていたとしても素知らぬ変わりない顔で、あたしの横を通り過ぎて行く。
あたしは、彼の背中を目で追いながら、相川さんとの電話を切った。
携帯をテーブルの上に戻し、遠ざかっていく姿をみつめる。
掌をきゅっと握り締め、小さく心に決める。
相川さんとの関係をハッキリして――、
そうしたら……。
今度は、週末、誘ってみよう。
……あたしから。