20

バルコニーの窓を開けると、裸足のままコンクリートの上に降り立ち、手すりに寄りかかった。
青みの中にはっきりと形を映し始めた月を眺める。

寛げるほど広くはない――ううん、狭いと言ったほうが正しいくらいのスペースだけど、このバルコニーから見える景色が好きで、形を変える月を、あたしはここからよく見上げる。
何かあったときは特に、こうやって。

シャワーを浴びて熱を持った身体に、ビールを注ぎこんだ。
風が涼しい。
いつの間にか、秋の風が吹くようになったと感じる。

こういうのを、本来なら、至福のときって言うのだろう。
昼間のことがなければ、そう思えたのかもしれない。

二本目の缶を開けても、酔いは全く回ってこなかった。
脈拍は上がっているのに、頭の中は冴えている。
次から次へと色んな記憶が浮かんでは消え、それは止むことはないらしい。

せめてひとときくらい、忘れたいのに。


溜め息を吐くと、突然のベルの音に身体が跳ね上がった。


――誰?


思いもよらずいきなり鳴ったインターフォンの音に、心臓がばくばくしている。
ゆっくりと振り返って、部屋の向こう側のドアを見た。


まさか、拓馬?


すぐにその考えを打ち消す。
どう考えても、ありえない。
アイツが家の場所まで分かるわけがない。

それでもそんな考えが浮かんでしまうのは、やっぱりトラウマからくるものなのだと思う。


韮崎さん?

でも、韮崎さんも、ウチには来たことがないし、会社でも今は個人情報の保護がどうとかで、住所は教えないはず。
それに、こんな早い時間に彼が仕事を終えて来るはずもない。


――それでも……
こんな風に、一瞬でも期待を持つなんて……。
今会っても、どんな顔をしていいかも分からないのに……。

大体、こんなにも対照的な二人を思い浮かべるなんて、どうかしてる。あたし。


また短くベルが鳴る。
きっと、新聞屋か何かだ。

今はそういうのも面倒くさい。
誰にも会いたくないし、顔も見せたくない。


無視を決め込もうと、バルコニーの向こうを見やった。
それなのに、後ろからまた急かすようにベルが鳴る。


しつこいな!
新聞屋なら、怒鳴ってストレス発散してやる!


ずかずかと足音を立てて向かい、ドアの向こうの相手を確認もせずに、チェーンをかけたまま開いた。


「なんだ……」

「なんだって、失礼だなぁ」

「誰にも会いたくないのに」

「せっかく来てあげたのに、そういうこと言わないの。
それに瑞穂、目、めちゃめちゃ赤いし。
顔もむくんでる」

「菜奈の今のふくれっ面よりマシ」


わざとらしく、息を吐き出してみせる。
でも本当は相手が菜奈で、内心凄くホッとしてる自分がいる。

あたしはチェーンを外すと、ドアを大きく開いた。


「上がれば?」


菜奈はもう一度頬を膨らませると、遠慮なく部屋に上がり込んだ。







薄いガーゼに包まれた白いふわふわのチーズムース。
フォークでそっと割ると、中からとろっとした鮮やかなカシスソースが顔を出す。
それをムースに絡めて口に運ぶ。


「美味しい」


あたしの大好物のアンジュのケーキ。
こんなときに買ってきてくれるなんて、菜奈ってば、結構気が利くな。


菜奈はテーブルの対面で、同じようにケーキを口に含みながらあたしを見る。


「で、何かあったの?」

「て、ゆーか、知ってんの?」


訊かれたから少しは知ってるのかと思って訊き返したのに、菜奈は首をすくめた。


「まさか。
ただ、お昼で早退したって聞いたから」

「………」


そうだよね。
まさか、わざわざ違う部の菜奈の耳にまで入るはずがない。

あたしも大袈裟に首をすくめて見せる。


「大アリ」


そう答えたのはいいけれど、じゃあ、どこからどこまでを話そうかと思う。

もちろん、菜奈は親友で、信頼も置いている。
だけど、昔あたしがいじめられてた、なんてことは、今迄に一度も話したことはない。

仲良くなったのは会社に入ってからで、昔のことは話しても、それは中学以降のことばかり。
それ以上前のことは、当たり障りのないことだけしか話していない。

それに、菜奈にはきっと、理解もできないと思う。
菜奈は一般的に見ても可愛いし。気は強いけど優しいし。人のことをきちんと考えるタイプで、誰からも好かれる。
何より、スレたり卑屈なところがない。
それは、周りの環境に何も問題がなかった証拠だ。

黒いしみがない菜奈には、あたしの気持ちなんて、きっと分からない。

もうずっと昔のことなのに、こんなにも恐怖心が呼び起こされて、古傷が痛んで苦しいことも。
負の感情ばかりが押し寄せて、自分の積み上げてきた自信さえ簡単に奪われることも。
これじゃあいけないと思うほど思考は奪われて、何も手につかなくなってしまうことも。

もし、過去を捨てられるなら、粉々に砕いて勢いをつけた水で、跡形もないほど綺麗さっぱり流してしまいたい、なんて――。


あたしは、何の濁りもない菜奈の目から視線をそらした。
まだ手をつけていなかったティーカップを持ち上げ、ひとくち口に含む。
ダージリン独特の苦みが広がって、喉がきりきりする。
溜め息に聞こえないように、そっと息を吐き出した。


「今日、調査会社と打ち合わせがあるって言ってたじゃない?
その調査会社の社長が小学校のときの同級生で、あたし、めちゃめちゃソイツのことが嫌いでさ。
再会して、ちょっと動揺しちゃったんだ。
で、打ち合わせ中、集中できなくて……」


結局、全部を言えないのは、菜奈にさえ、昔いじめられてた、なんて知られたくないからなのか。
それとも、菜奈には理解出来ない苦しみだから、言いたくないのか。

――自分でも、よく分からない。


菜奈はフォークを手にしたまま、大きな目であたしを見た。


「え? 同級生?」

「うん」

「24歳で、社長?」

「うん」


……って。あたしが帰った原因よりも、そこに着目?


そう改めて訊かれると、同じ歳ですでに事業を起こしているなんて、と今更ながら思う。


「ねぇ、もしかしてその調査会社って、M&S?」

「あれ、菜奈、知ってるの?」

「今、急成長してるんだよね?
海斗の担当の店のね、百貨店全体の店舗調査をそこが受けたって言ってたなーって。
何でも、大手のマーケティング会社とコンペで競り合って、勝ったらしいよ。
それで、その調査のあと、店舗全体の売り上げも伸びたんだ、って海斗が言ってた。
それにほら、まだ若い社長じゃない?
ハタチで起業して、大学中退して……そういうのも話題みたいで。
メディアにもたまに出てるし、ビジネスのノウハウ本も出版してるとか。
へぇー、凄い人が同級生なんだね」

「ふぅん……」


そんなこと、全然知らなかった。
そう言えば韮崎さんも“やり手”だって言ってたっけ……。

それにしても、あの拓馬が……。
小学生の頃は、特別に勉強が出来るってわけでもなかったのに。
ずる賢いヤツではあったけど……。

ハタチで起業、メディアに、出版――

本当に、ムカつくヤツ。
なんであんなヤツが成功なんてするのよ!
あんなに酷い男が!

……悔しい。
ただ、悔しい。
自分は何も出来ないことが。

アイツは出来ていて、あたしは――……


堪らない焦燥から、カップの柄を持つ指に力がこもる。
波紋の立った紅茶を、あたしは睨みつけた。


「そんな会社が入るなら、ウチの会社も少しは変わるかもしれないよね」


菜奈は邪気なく言った。

あたしが返事をせずにいると、そこでハッとして顔つきを変えた。


「あ、ごめんっ! 瑞穂、嫌いなひとなんだよね?
これから先、仕事で毎回絡むなんて難しいね。
大丈夫そう?」

「……うん。
て、ゆーか、もういーよ。
どうせ、あたしが落ち込んでる理由なんて、菜奈は大して気にしてないみたいだしさ。
あー、友達甲斐がないこと」

「ごめんってばー。
て、ゆーか、結構元気そうで安心した。
心配してたんだよー。すっごく顔色悪かったって聞いてたから」


聞いてたから?


「……誰に?」

「誰にって、韮崎さん」


一瞬、息が止まる。


「韮崎、さん?」

「うん。
あたしが瑞穂の友達、って知ってたんだね。社食で一緒にいるの見かけたからかなぁ?
わざわざウチの部まで来たんだよ、彼」

「え……」

「凄く顔色が悪くて様子がおかしかったから、家に行ってやってくれないか、って」

「嘘……」

「瑞穂には絶対に言わないでくれ、って言ってたから、秘密だよ?」

「――……」


そんなことを……菜奈に頼んだの?

帰れって言ったのも、仕事になってない、無意味って言ったのも、様子がおかしかったあたしを心配してくれたから?

仕事人間の韮崎さんが。何よりも、このプロジェクトに賭けているはずの彼が――。
それよりも、あたしのことを心配していてくれたの?

あたしは――ホント、何やってるんだろう。
拓馬に動揺して、何も出来なかった挙げ句、石田さんや韮崎さんの言葉にショックを受けるだけで、家でただお酒のんで呆けてるなんて。
本当に、馬鹿!
やれることをやらないでどうするの!?

そうだ。これは、韮崎さんのためだけじゃない。
あたしのプライドだってかかってる。
あたしにだって出来るって、証明できるのは自分自身でしかない。
この先どう思われるかも、自分次第だ。

拓馬は何を考えているか分からないけれど、アイツを見返してやる!
石田さんだって!
絶対に、認めさせてやるんだ!


「菜奈」

「ん?」

「ゴメン!」

「えっ?」


何を言われているのか全く分からない顔をしている菜奈に向かって、あたしは手を合わせた。


「今から、仕事しようと思う。
家でも、パソコンと電話さえあればできるから。
わざわざ来てくれたのに本当にゴメン!」


今度は頭を下げた。

その頭の上から、ふっ、と声のない笑う音が聞こえた。


「瑞穂」


顔を上げると、菜奈は理解しているように微笑んでいる。


「韮崎さんって、すっごいズルイ男で。
婚約者がいるって聞いて、あたしは好きじゃない、って思ってた。
だけど、瑞穂を変えていくのは、韮崎さんなんだね」

「………」

「今の瑞穂、イイ女だよ。
頑張ってね」


瞼の裏が熱くなった。
だけど眉をきゅっと寄せてこめかみに力を入れ、滲みそうになった涙を堪えた。


「あたしは前からイイ女です」


そう言うと、菜奈はまた声を出さずに、くしゃっと笑った。


――うん。
元気、出たよ、菜奈。


今のあたしには、ちゃんと、味方がいる。
前を向かしてくれる、味方が。

過去に囚われるよりも、今の自分を大切にすればいい。
未来に進んでいければ――。


「ありがとうね」


今度はきちんと、あたしは菜奈に笑顔を向けた。

  

update : 2009.05.26