19
まるで、頭の中までが脈打っているようだった。
どくどくと大きく動く心臓の音に合わせたように、頭痛がする。
「葉山?」
そのざらついた血が巡る音の中に、声が割り込んだ。
韮崎さんの声。
そう、アイツの声じゃない。
歪んだ記憶から、引き戻してくれる。
今は――違う。違うんだ。
あたしは、もう、あの頃のあたしじゃない。
アイツの前でだって、平気。
ちゃんとやってみせる。
唇を引き結んで、拓馬の方へと顔を向けた。
「申し訳ありません。
資料の方、お渡しします。
一応、全国の店舗のリストと売り上げ等をまとめてあります」
手に持っていた拓馬の分の資料を差し出す。
「ああ、ありがとうございます」
拓馬は営業スマイルといった風に、あたしに満面の笑みをみせて手を伸ばしてきた。
その途端、反応するように、あたしは思わず手を離してしまった。
資料がばさばさっと音を立てて床に落ちて広がる。
「すみません!」
慌てて拾おうと、屈み込む。
何をこんなに動揺しているんだろう、と思う。
アイツ自身、今、あたしに何かを言ってくるわけでもないのに。
気を取り直して拾った資料を手渡すと、拓馬は「ありがとうございます」と再度言い、まっすぐにみつめてきた。
何を思ってそんな風に見てくるのか。あたしにはただの重圧で、息苦しい。
そして、入れ替わりのように、拓馬もさっきテーブルの上に並べた資料を差し出してくる。
「こちらが調査報告書と評価基準表のサンプルです。
レストラン調査ですとこのような形の内容が中心かと思うんですが、これを御社と相談しながら形作っていきたいと思います。
えーと、まずは……」
渡された資料に目を落とす。
なのに、それはまるで無味乾燥な紙きれのように文字の意味が頭に入らない。
拓馬の声は耳障りに押し入ってくるのに、思考がついていかない。
見えない何かがあたしの中を邪魔してくる。
――悔しい。
悔しい、悔しい。
あたし、しっかりしてよ!
「じゃあ、参加店舗が決まったらすぐに連絡ください。
ウチの方では、調査票等を打ち合わせ通り作り直したら、早急に提出しますから。
他にも気付いたことがあれば遠慮なく言ってください」
拓馬がそう言ったのを合図にしたみたいに、打ち合わせは終了、と、一斉に立ち上がる。
あたしは皆に数秒遅れてソファーから腰を上げた。
「よろしくお願いします。
お忙しい中、御足労ありがとうございました」
拓馬に向かって、深々と頭を下げた。
その途端、髪で顔が隠れたのをいいことに、きゅっと唇を噛み締めた。
あんなに頑張ろうって決めたのに。
――全然、上手く、出来なかった。
何をやってるんだろう、あたしは……。
結局、話し合いのほとんどは、韮崎さんと拓馬で進めて取り決めて。
あたしはただ、頷くばかりだった。何も出来なかった。
夢を叶えてあげたいだなんて――笑っちゃう。
とにかく、仕事に支障をきたさないように、強い気持ちを持たないと。
せめて今後は、コイツの声を聞いても、顔を見ても、平気なようにしなきゃ。
大体、仕事は仕事だ。
それに、こっちはクライアント。
立場上は、あたしのほうが上。
拓馬もそれを分かっているはずだ。
社長というポジションでやっているなら、尚更。
仕事には、私情を絡めてこないはず。
笑顔を用意して、さっと顔を上げた。
すると、いきなり目が合った。
どうやら頭を下げていた間も、じっとあたしのことを見ていたらしい。
「下まで送ってくれる?」
「……えっ」
瞬時に渋い顔をしたあたしから、拓馬は韮崎さんの方を向き、飄々とした顔で言った。
「韮崎さん、葉山さんのこと、ちょっとお借りしていいですか?
ちょうど、昼休みですよね?」
――嘘、でしょ!?
11時から始まった打ち合わせは時間がおして、確かに昼休みの時刻はとっくに過ぎている。
石田さんの刺すような視線を感じる。
韮崎さんは、表情を変えることなく、あたしの方を向いて言った。
「葉山、下までお送りして」
――信じらんない。
無言でエレベーターに乗り込んだ。
一階のボタンを押して扉が閉まるまでの間、誰か駆け込んできてくれないかと願う。
だけどこういうとき、そんな運に恵まれるわけもなく、無情にも二人きりのエレベーターのドアが閉まった。
たかだか二階から一階までの短い距離。
それでも、拓馬と二人きりなのは、怖い。
背後から感じる視線は、あたしに重苦しく圧しかかってくる。
エレベーターが動き出すと、拓馬の声が言った。
「硬いな」
「え……?」
「変わんねーな。オレといると、オマエってそういうふうに、表情固めるの。
嫌そうな、顔」
「………」
「どーやったら、笑ってくれんの?」
「は――?」
突拍子もない言葉に、向きたくなかった顔を思わず向けてしまった。
それと同時に、高い電子音が鳴った。
数秒でも苦痛でしかたのない空間の扉が開かれた。
眉を顰めたあたしに向かって、拓馬はクッと楽しそうに笑った。
「降りないの?」
「……佐藤さん、どうぞ。ドア、開けてますから」
「オレが先に降りたら、オマエそのままドア閉めそうじゃん?」
……コイツ。
「そんな子供みたいなこと、しません」
「だよなぁ? お互いもう大人だし?」
拓馬はおどけたように首を傾げて両手を上げてみせると、急にすっとあたしに近づいた。
「やっ!」
身体が固まって、咄嗟に横に飛びすさった。
そんなあたしを見て、拓馬は苦笑いした。
「レディーファースト」
あたしの代わりに、ドアの“開”ボタンを押しただけだった。
「どうぞ」と、掌を見せながら、先にエレベーターを降りるように促される。
あたしは、過剰に反応したことが恥ずかしくなって、顔に血が上った。
――からかってる!?
「……っ! どうもっ」
「気ぃ、強ぇ。
何だよ、やっぱ変わんねーな」
「アンタは変わったわよね」
「イイ男になったって?」
「ばっかじゃない!?」
思い切り強く否定してやったあたしの言葉に、拓馬はさも楽しそうにククッと顔を歪めた。
そうかと思うと、急に柔らかな表情を見せた。
エレベーターのボタンは押したまま、あたしの方へと少し身を乗り出す。
「ああ、オマエ、やっぱ変わった」
どきっとした。
まるで色を含んだような目で見てきたから。
綺麗になったとでも表情で言いたげに。
――過去に、あたしをブスだと言い続けた男。
心の奥ではきっと、綺麗になったと誰よりも認めさせたい男。
ごくりと、喉が鳴る。
けれど、そんな顔は数秒だけで、すぐにまたヤツ特有の笑みに変わった。
「昔は何言ってもだんまりだったのに、今はこうして憎まれ口が返ってくるからなぁ」
――やっぱり、からかってただけ!?
少しでも期待のようなものを持った自分の浅はかさが恥ずかしいのと、拓馬への怒りと憎しみが同じくらい一気に沸いた。
先にロビーに降り立つと、すぐに振り向いて目の前の男を睨み上げた。
「悪かったわねっ!」
言った途端、拓馬は驚いたような顔をした。
だけどすぐに彼らしく、ふん、とそんな雰囲気を鼻で笑って払いのける。
「声、でっけぇ」
そう言いながら、あたしの横へと降り立つ。
あたしはこの場が自分の会社のロビーだと思い出して、思わず口元を手で押さえた。
昼休みということもあり、ロビーにはいつもよりは人の数が多く、不躾な視線が刺さってくる。
拓馬はそんなことは気にしていないようにあたしを見た。
「昼、一緒に行こうぜ? 奢るし」
「結構です」
「少し、話しない?」
「仕事の話なら、ここで伺います」
「ふぅん」
「………」
「そんなに、オレが嫌?」
……何を……。
昔、あたしをずっと、苦しめたくせに。
分からないとでも言うの?
怪訝な顔して、見上げてやった。
どう答えてやろうかと逡巡する。
だけど、韮崎さんの顔が浮かぶと、首を縦に振りたい気持ちが踏み止まった。
ここは会社で。今はプライベートじゃない。
彼は取引先であるM&Sの社長で、わたしたちのプロジェクトのパートナー。
本心では顔も見たくない相手でも、これは仕事なのだ。
失敗は許されない。韮崎さんのためにも。
今後の関係に支障をきたすかもしれない明言は、義理でもなんでも控えたほうが得策だ。
あたしは、仕方なしに首を横に振った。
「いいえ」
拓馬が、ふう、と、小さく溜め息を零したかと思うと、急に携帯電話の着信音が鳴り出した。
彼のジャケットの内ポケットからだ。
拓馬はあたしから目を落として、忙しなく音を上げるそれを取り出し、電話の相手を確認する。
「残念。呼び出しだ。
オレ、こう見えても、分刻みのスケジュールなわけ」
そう言ったにもかかわらず、手の中で携帯が呼んでいるのに、拓馬はなかなか出ようとしない。
あたしが不思議そうに見ると、拓馬は苦笑いした。
「次回――だな。
あー、じゃあ、金曜日空けといて」
「――は?」
「迎えに来るから」
「はあっ!?」
「驚くなよ。出来上がった調査票、持ってくるしさ」
「だって、それは添付メールで――!」
あたしの言いかけの言葉をシャットダウンするみたいに、拓馬は「じゃあ」と軽く手を上げながら背を向けた。
そうかと思うと、何か思い出したようにすぐに振り向く。
「ちゃんと出来たじゃん。オマエのやれること。
お疲れ様でした」
「えっ」
声を上げたときには、もう顔は見えなかった。
早足で歩き出した拓馬は、さっきから鳴り止むことのなかった電話にようやく出た。
「……ちょっ……!」
呼びとめようとしたけれど、電話の相手はどうやら仕事関係のようで、アイツにそぐわない口調が次々と並べられている。
そうこうしている間にも、どんどん背中は遠くなって、入り口の自動ドアの向こうに行ってしまった。
ガラス越しの姿が消えると、急に身体の力が抜けた。
ほーっと、安堵の息を吐き出して、壁に寄り掛かる。
天井を仰いで、意味もなくそこから下がるシャンデリアをみつめた。
数百万はするだろうウチの会社の顔は、仰々しく光っている。
有無を言わせないやり方。
あの頃と、なんら変わらないじゃない。
光を散らすライトに目を細めると、アイツの顔がちらついた。
今の今迄目の前にあった顔の残像が、消えない。
――『ちゃんと出来たじゃん。オマエのやれること』
――初めてだ。
あんな風に、アイツがあたしを認めるなんて。
あの頃だってほとんど喋ったこともなかったのに、ただ否定しかされなくて。
――12年。
もう、拓馬と会わなくなったときの年齢から、同じだけの年月が経つ。
昔のように、蔑んだような目で見ないのも、中傷の言葉を一言も言わないのも、ただ大人になったから?
それとも、褒めたのも、わけのわからない言葉を連ねてくるのも、誘ってきたのも、あたしをまたからかって楽しんでる――?
あとで、本気にするなよオマエなんかがって――嘲るために。
考えにゾッとして、ふるふると首を振った。
嫌だ。もう。
凍えたように冷えた身体を抱き締め、気持ちを落ち着かせようと深呼吸をして、目の前でちょうど口を開けて空になったエレベーターに乗り込んだ。
――あたしは、あの頃のあたしとは、違う。
だけど、怖い。
エレベーターの上る感覚が、どこか夢の中にでも迷い込んだように浮ついて現実味がない。
ああ、そうだ。
きっと『出来たじゃん』なんて言ったのも、嫌みだ。
今日何も出来なかったのは、あたし自身が一番よく知ってる。
あの場にいても、何の役にも立たなかったって――。
頑張ろうって、決めたはずなのに。
あたし、ホント、何やってんの!?
唇を噛み締めると、目の前のドアが開いた。
降りようと、俯いていた顔を上げると、驚いたような顔をした石田さんがいた。
それはみるみる、どこから見ても不快そうな顔つきに変わった。
「何だ。佐藤さんと、食事に行ったんじゃなかったの?」
「……いえ」
やっぱり、そう思われるよね……。
あたしはうんざりした気分で、エレベーターから降りると言った。
「彼は同級生なんです、小学校の」
「同級生?」
「はい」
「ああ、だからか」
「えっ?」
「どうりで、オカシイと思った。
あなたみたいな人がウチの部に来て、いきなり新しいプロジェクトのリーダーなんて」
「――は」
言われたことに思考がついていく前に、石田さんは吐き捨てるように言った。
「オトコに取り入って、いい仕事しようなんて甘いわよ。
こんなので、これからあなたのサポートなんて笑っちゃうわ。
出来ないヤツについていくなんて、冗談じゃないわよ」
――!
震えた。
手だけじゃない、身体もだ。
それは、怒りからだけじゃなかった。
半分は言われてもっともなことで、反論もできないほど、打ちのめされた。
出来なかったのは、本当のことだ。
きゅっと唇を引き結ぶ。
いつものあたしだったら、ここできっと相手がこれ以上言えないように言い返していただろう。
でも、今のあたしはそんな余裕なんてなかった。
自信もプライドも、今迄積み上げてきた自尊心は全て、砂で出来た城が波にさらわれるように、簡単に崩れて消えてなくなっていた。
昔のあたしが、フラッシュバックする。
何かを言われても、ただ黙って奥歯を噛みしめ、拳をぎゅっと握って我慢したことを。
「葉山さん」
低い声が、入り込んだ。
石田さんは、あたしの名を呼んだ人物を見てさっと顔色を変えた。
よりによって、こんなところを見られたくなかったのに。
それなのに、どこかほっとするような気持ちにさせられる。
販売促進部から出てきた韮崎さんに向かって、石田さんはバツが悪そうに軽く頭を下げ、さっと行ってしまった。
あたしも、こちらに近づいてくる彼に向かって頭を下げた。
「もう、戻ってきたのか?」
「はい。すみませんでした」
「……いや」
そう韮崎さんが答えたところで、ちょうど彼はあたしの目の前まで来て、足が止まった。
あたしは彼を見上げる。
最近では慣れた、この角度。
そんな些細なことも、あたしの気持ちを取り戻してくれる。
たとえ社内では、ただの上司と部下の関係でしかなくても。
「主任は社食ですか?
あたしも急いで食事に行ってきます」
「急がなくていい」
「え?」
「帰りなさい」
「えっ……」
何で? と、尋ねる前に、韮崎さんが言った。
「仕事になってないだろ。
今日はいても無意味だ」
「――!」
自分の顔が、泣きそうに歪んだのが分かった。
頬の筋肉が引き攣って、口の中が干からびたみたいにカラカラで。
唇が、震える。
――分かってる。
自分が一番。
初めての重要な打ち合わせで、何も出来なかったこと。
それがたとえ拓馬と再会して動揺したからって、これは大切なプロジェクト。
仕事に影響をきたすなんて、最悪だ。
何を言われても、仕方がない。
だけど――。
韮崎さんに出来ないと言われるのが、一番ショックだ。
何か言葉を発したら涙が零れ落ちそうで、喉までせり上がったものを必死に飲み下した。
あたしは冷えた指先を握り締めると、彼に頭を深く下げて、背中を向けた。