17

デスクの上で資料を揃えながら、時計に目を転じた。

――10:57

約束の時間までは、あと3分。
他社とのこういう打ち合わせっていうものは、こんなにギリギリなものなんだろうか。
M&Sの佐藤さんは、未だこちらにいらっしゃっていない。
……まぁ、まだ一応は時間にはなっていないけど……。

韮崎さんも石田さんも、忙しそうに仕事をしていて、もう時間だというのに気にも留めていないように見える。
全く初めてのあたしからしてみると、疑問だらけだ。

……あたしは朝から緊張して、ずっと落ち着かないっていうのに。

それに。
本当に相変わらず、という感じだ。
あんなに甘い夜を過ごしても、会社で会えば、挨拶のひとつもない。
この切り替えの凄さは、ある意味尊敬に値する、とも思う。

『抱いて』と、言ったあと――。
猫足のバスタブに二人で入って。
朝まで寝ずにずっと、狂うくらい身体を重ねた。

白いブラインドから黄色い光が差し始めて――あたしは約束通り、ひとり部屋を後にした。
本当は、帰りたくなんてなかった。
ずっと一緒にいたかった。

だけど。
彼を理解した、聞きわけのいい女でいなきゃならない。
それを選んだのは、あたしだ。

あの日帰ったあとも、日曜日も、何をしていたのか知りたい。
気になって仕方がない。
もしかしたら仕事なんかじゃなくて――そんなのはとっくに終わらせて、彼女と会っていたかもしれない……。

そして韮崎さんも。
あたしが平然と、相川さんと会っていたと思っているのかもしれない。

相川さんからは、土曜日の夕方に電話がきた。
時間を置いて電話してきたのも、あたしへの対応も、気を遣っているのは分かっていた。
あの日のことは――韮崎さんが相川さんに言ったことに合わせて、とりあえずどうにか誤魔化した。

だけど、付き合えないということは、きちんと別に言うつもりだ。
韮崎さんがどう思っていようと――やっぱり、あたしはこれ以上相川さんと繋がりを持っているなんて出来ない。
彼にとっては、大切な友達なんだから……。


天井に向かって一息吐くと、待ち焦がれていた内線が鳴った。


「販売促進部、葉山です」

『お疲れ様です。受付です。
M&Sの佐藤様がお見えになりました』


思わず、ごくりと喉が鳴る。


「はい。二階の応接室に、ご案内お願いします」


電話を切ると、急いでデスクの上の資料を取り上げる。


――よし!


心の中でひとり気合いを入れると、石田さんのデスクへと向かう。
佐藤さんが来社したことを告げると「すぐ行くんで、先に行ってて」と、パソコンに向かったまま返答される。

ギリギリまで違う仕事をしている彼女。
販売促進部に来て、まだたった数日間だというのに分かったのは、ココの女子社員の中では、石田さんは一目置かれているということ。
仕事が出来る女性なのだ。

そういうの、羨ましいと思った。
仕事で一目置かれるなんて、今迄のあたしには有り得ないこと。
それに、思ったことなんてなかった。羨ましいなんて。

――あたしも。
彼女のように、なれるかな。

このプロジェクトを成功させることができる?

韮崎さんに認められるくらい。
結果を残せるくらい。

“身体だけの女”でも。
“何も出来ない女”だとは、思われたくない。
オヤジ達のご機嫌取りだけしか出来ないなんて、嫌。

少しでも、彼の夢に近づけるように、近づけさせてあげられるように――。
やらなきゃ。
失敗なんて、出来ない。
このあとなんて、ない。


石田さんの席よりも奥へと向かう。
あたしが声を掛ける前に気配に気づいたのか、韮崎さんは手を止めてパソコンのディスプレイから顔を上げた。


「来た?」

「はい」

「じゃ、行こうか」


がたっと。彼は荒い音を立てて立ち上がると、あたしを追い越すようにすぐに歩き出す。
あたしはその少しあとを早足で付いて歩く。
初めて家に行った日――あたしに歩調を合わせてくれたなんて到底思えないような、彼のペースだ。


「石田さんは?」

「すぐ行くんで、先に行っててくださいって」

「ふぅん、そう」


思った通り、顔も向けられないまま素っ気ない口調が返ってくる。
あたしの視界を占領する広い背中は、社内だと遠く感じさせらる。

早足のまま部を出ると、エレベーターが到着した軽快な音が向こう側から聞こえてきた。
佐藤さんかもしれないと、韮崎さんに続いて応接室に入ろうとした足を止めて、エレベーターのほうを見た。


……違った。


そこから出てきたのはあたしと同年代くらいの男の人だった。
電話で対応した佐藤さんの声は、どう考えてもオヤジ世代だったし。
あたしはそのまま応接室に足を踏み入れた。


「葉山!」


急に背後から呼び止められた声に、びくりと身体が反応して強張った。
聞き覚えのある声は、微かに違っているけれど、あたしの記憶を呼び覚ますのには十分なほど似ている。
たったひとことの名前なのに。
トーンも、呼び方も。

足の裏から何かが這い上がってくるような感覚がした。
韮崎さんのベッドで見た夢が、頭を過った。


――まさか。


「やーっぱ、葉山だったんだぁ」


懐かしさを匂わせるような話し方をしながら、声の主が近づいてくる気配がする。
あたしは怖くて振り向けない。


だって、まさか。
ありえない。

……そうだよ、ありえない。


そう思うのに、やっぱり振り向けない。
顔も、上げられない。
目の端に映るつま先が、微かにぐらぐらと歪んでいる。

ずっと見ていなかったはずのあの夢は、虫の知らせだったとでも言うのか――。


先に応接室に入っていた韮崎さんが、入り口で固まったままのあたしに気が付き、振り向いてこちらに戻ってきた。


「どうした?」


何か答えなきゃ、と言葉を押し出そうとしたとき、あたしの後ろから肩越しにひょいと覗きこまれた。


「こんにちは。お世話になっております。M&Sの佐藤です」

「ああ、佐藤社長!」


――えっ!?


動かなかったはずの身体は嘘のように一瞬にして解けて、あたしは振り向いた。


佐藤、社長……?


目の前に立つのは、あたしの記憶の底に眠るアイツのものとは違う。
あの頃の――あたしよりも少し高くて少年ぽい骨ばった身体に、野球をやっていたせいで短髪だった頭なんて、姿が重ならない。
今目の前にあるのは、見上げるほどの背に、大人の男を思わせる身体つき。ワックスで艶の出された少し長めの髪に、整えられた綺麗な眉。

違う。
アイツとは、違うのに。

道ですれ違ったって、通り過ぎて絶対に気付かないほど、風貌は異なっている。
それなのにそこにあるのは、紛れもなく変わらない猫のような鋭い目。
アイツの――。

あたしの中の苦い記憶。
忘れたくても、決して消されることのない。

佐藤 拓馬(さとう たくま)――。


嘘でしょ!?
だって、佐藤さんて、オヤジ世代なんじゃ――。
確かに電話は、酷いガラガラでしわがれてた風邪の声だったけど。
勝手にオヤジだって思いこんでたけど。

それに、そんなありふれた名字がアイツだなんて、繋がって思えるはずがないよ!
しかも、社長!?


身動ぎさえ出来ずに、ただ見上げるしか出来なかった。
目の前で微笑している彼は、大人びた動作で会釈し、名刺を差し出してきた。


「今回はお世話になります。
M&Sの佐藤 拓馬です。――って、何年ぶり?
韮崎さんから担当者の名前聞いたときは、まさかなーとか思ったんだけど」


昔――あんなことがあったなんて思えないほどの屈託のない顔つきで、あたしに向かって笑いかけてくる。


「この間の電話で声聞いて、やっぱ、そうだな、って。あの葉山だったんだって。
でも、オマエ全く気付いてないようだったから、驚かせてやろうと思ってさ」


そう言い終わって上げられた唇の端は、少し歪んでいた。
何かを企んでいるようなその笑い方は、昔と変わらなかった。
――あたしに平然と残忍な言葉を吐いたときと。


信じられない……。
どうしてこんなところで……。


差し出された名刺さえ受け取れずにいると、拓馬は強引にあたしの手の中にそれを収め、耳元でぼそっと言った。


「会いたかったんだ」

「――!」


言葉を失って、驚きに目を見開いた。
そんなあたしの顔を見て、意味を含んだように拓馬はニッと微笑む。


それって、どういう意味――。


背筋にぞっと冷たいモノが走った。
一言も言葉を発しないあたしに韮崎さんは気を遣ったのか、それとも驚きのあまりに声が出ないと思ったのか、拓馬との間にすっと割って入った。


「驚いた。佐藤さんって、葉山と知り合いなんですか?」

「知り合いって言うか、同級生なんです。小学校の」

「同級生?」

「彼女が中学に上がるときに引っ越しちゃったんで、それっきりだったんですけど。
クラスも一緒で仲良かったんですよ。
どうしてるかな、なんてずっと気になってて。
だからこうしてまた会えて、一緒に仕事が出来るなんて、嬉しいんです。
これも縁というか――巡り合わせってヤツに感謝しなきゃ」


なぁ、葉山? と、馴れ馴れしい口調が言った。
だけど、意地悪な目元は、やっぱりどこか笑ってなくて。企んだような微笑み。
あの忘れられない声が、現実味なく浮ついて鈍く頭の中で響く。


どういうつもりなの?
仕事上の社交辞令っていうことは、分かってるけど――。

こうやって、あたしを追いつめてるの?
あのときみたいに――。


足元が震えている。
どうにも愛想笑いで返すのが、精一杯だった。


「積もる話もあるでしょうが、とりあえずどうぞ中にお入りください」


何も言葉が出せないあたしの代わりに、韮崎さんがアイツを応接室に入るように促した。
本来なら、そういうのもあたしがしなくちゃならないのに。
情けないことに、竦んだ足は、そこからなかなか動けなかった。


「どうかしたの?」


ポンと、後ろから肩を叩かれ、身体がびくりと跳ね上がった。
反射的に振り返ると、石田さんが不思議そうな顔をしていた。
入り口を塞いだままのあたしは、石田さんによって押しこまれるように背中を押され、中に入った。

顔を見るのが怖い。
俯いたままソファーに近づくと、目の端に嫌でも姿は映る。
拓馬は、品の良い黒革のビジネスバッグから何か資料のようなものを取り出し、テーブルの上に並べている。

石田さんの姿を見つけた拓馬は手を止め、さっと立ち上がって挨拶をした。
立ち回りの上手さと愛想笑いは、昔からヤツの得意技だ。

そしてそれは、あたしも元々ヤツから学んだ。


「では、始めましょうか」


あの声が、言った。

思い出したくもない記憶が次々に浮かんで押し寄せて、ぐるぐると巡り出す。
――頭が、痛い。
あたしは思わず、ぎゅっと目を瞑った。

 

update : 2009.05.08