16
エレベーターが一階に到着したことを告げる高い音が鳴った。
ほんの僅かな時間差でドアが開く音も聞こえてきて、そこで合されていた唇が離れた。
はぁ、と。お互いに荒い吐息が漏れる。
開いたドアから乗り込んできた客は、つい今あたし達がキスしていたことに気が付いたのか、それとも一階で降りないことに疑念を抱いたのか、ちらりとこちらを一瞥してきてから、目的の階のボタンを押した。
ドアが閉じかけたときだった。
左右に迫る扉を強引に押し開くようにして、韮崎さんはあたしの腕を引いた。
エレベーターから降りても、韮崎さんは黙ったままで。
あたしの右手の中で、繰り返し携帯電話が鈍い呼び声を上げている。
何を考えているのかも、さっぱり理解できない。
このあと、どうしたいのかも。
でもそれは、もしかしたら彼自身がそうなのかもしれない。
無言のまま腕を引かれ、あたしたちはビルの外へと出た。
夜気はじっとりと湿気を含んでいるけれど、それでももう夏のモノとは違っていて、風は肌寒さを感じさせる。
「放してください」
「………」
「手、放してください」
二度目の言葉でようやく彼の足は止まって、掴まれていた腕が離れた。
そして、あたしの方へと向き直る。
あたしはそんな彼を見上げて。
視線が絡むと今度は、手の中で唸りを上げ続ける携帯に目を落とした。
そして、わざと韮崎さんにも見えるような角度で、携帯を開いた。
ディスプレイには、当然のように相川さんの名前が点滅している。
あたしは韮崎さんの視線を感じながら、電源を落とした。
“放して”と言ったのは、あたしが電話に出るのだと思わせるため。
その予想を裏切って韮崎さんを選んだほうが、効果的だから。
少しはドキッとしてくれた?
携帯から目を上げ、彼をみつめる。
「………」
やっぱり、何も言ってくれない?
ただそこでみつめ合う。
すると、今度は彼のポケットから、電子音の旋律が上がり始めた。
新宿の夜の雑音の中で、ハッキリとした音色がそこに響く。
もちろん、それが相川さんだということは、考えなくても分かる。
一緒の歓迎会に参加しているのだから、あたしに何かあったのなら、心配して韮崎さんに電話するのが普通だろう。
ふ、と。視線が逸らされた。
どうするのかと思っていると、韮崎さんはポケットから携帯を取り出した。
そしてそれをあたしに掲げてみせる。
――え?
韮崎さんの指が、手の中の携帯のボタンを押した。
そして、音も光もそこから消えた。
「これって、裏切りだな」
苦笑いをひとつあたしに見せると、電源の落とされた携帯は、ポケットの中に戻される。
――裏切り。
あたしは彼の友情を壊し始めている。自分の欲で。
……怖い。
そんな感情も、自分自身初めて感じるモノだ。
でも、もう、止められないよ。
あたしをこんな風にしたのは、韮崎さんだ。
「帰りませんよ」
薄明かりを微かに感じて、重い瞼をこじ開けた。
瞼だけじゃない。
甘い痺れもまだ身体中に残っている。
あれだけ激しい行為をしたのだから、それは当然なのかもしれないけど。
多分、まだそんなに時間は経っていないだろうことを、身体が自然と知らせてくる。
あたしはまた彼に簡単に崩されて、果てて、いつの間にか、うとうとと眠ってしまったらしい。
上質な彼のベッドも香りも隣の温かさも、あたしの眠りを更に誘ったみたいだ。
だけど今、隣にはその温もりがない。
カタカタと、明かりの方から何か聞こえる。
キーボードを打つ音。
体勢を変えないままその音の方を見ると、薄暗い中、韮崎さんはテーブルの上でパソコンを使っている。
ベッドからは彼の香りがほんのりと残っているのに、隣のスペースは手を伸ばしてみると冷えていた。
――いつから?
そういえば、最初にココに来たときも、韮崎さんの朝は早かったっけ。
それに、デザートも、あたしが寝た後に冷蔵庫に入れた、って言ってた。
それって。
もしかして――そのときも、仕事をしてた、とか?
あたしもするりとベッドから抜け出す。
物音を立てないようにと気を配ったのに、すぐに韮崎さんは手を止めてこちらを見た。
「起しちゃった?」
「あたしこそ。
邪魔しちゃいました?」
「大丈夫」
あたしはソファーに掛けてあった自分のカーディガンを手に取り、さっと羽織った。
こういうとき、持ってきていて良かったと思う。
明るみに出しても恥ずかしくないよう手入れはしているけれど、女としての恥じらいは見せておいたほうがいい。
フロントのボタンは留めず、右手で胸元を強調するようにカーディガンの合わせた部分を押さえながら、あたしは彼の方へと近づいた。
「仕事……ですか?」
「そう」
「こんな時間まで……?」
「まだ1時だよ」
ふっ、と。韮崎さんは緊張を緩めるように笑った。
壁にかかる時計に目をやると、確かに1時だった。
あのまま、まっすぐにタクシーでココに来たから、思ったよりも時間は経っていないらしい。
あたしが眠っていたのも、ほんの30分程度なのかもしれない。
「足りないくらいだよ、1日が30時間あっても」
韮崎さんはそう言って、あたしに苦笑いをしてみせる。
「ホント、仕事人間」
「そうだな」
「好きなんですか? 仕事」
「好きだよ」
「そんなにやって、疲れません?」
「たまにはね」
「そんなに好きだなんて、何だか羨ましい」
――『仕事で認められて上に立つことは夢なんだよ』
……夢。
そこまで彼を独占できるモノが、嫉ましい。
青い光を放つパソコンの背を見つめていると、韮崎さんは言った。
「瑞穂も好きにさせてやる、って言ったろ」
「………」
「やり遂げたときとか、結果が出たときとか――何とも言えない気持ちになれるよ。
それまでの課程が死ぬほど大変でも、それには変えられないくらい。
何かさ、生きてる充実感みたいのを感じるんだ」
韮崎さんは自分の掌を見つめながらそう言った。
そして、まるで目に見えない何かを掴み取ったみたいに、その掌を拳にして固く握り締めた。
「子供が夢見るみたいな、目、してる」
「………」
「韮崎さんにとって、どこがゴール?」
「……ゴールなんて、ないよ。
先が見えたら、面白くないだろ?」
「……そうね」
「でも、やり遂げたいことは、ある」
「それは……東和重工の、トップ?」
韮崎さんは、少し驚いたような目を見せてから、唇を引くように微笑した。
「そうだよ。
野心家すぎるって、笑う?」
あたしは韮崎さんの背後へと回り込んだ。
そして、背中にそっと手を当てた。
「きっと、似合う。その位置が」
「………」
「あたし……頑張ります」
「うん」
落ち着いた声で答えた彼の背中。
ふと、その向う側のディスプレイが目に入った。
水色のバックに、白い紙のような画面。
そこに浮かぶ黒文字。
これって……!
もしかして、昼間言ってた社食の改善案!?
画面に釘付けになっていると、韮崎さんは振り向いてあたしを下から見上げた。
「来週の会議で、立案してみようと思う。
それで上手くいったら、役員会にもかけられる」
「………」
言葉が詰まってしまった。
嬉しさと苦しさが入り混じって、どちらが勝っているのかも分からないほど。
だって、それはあたしのため?
彼女と結婚するために、あたしを利用するんでしょ?
あたしにホステスみたいな真似をさせて、仕事を成功させるのは、彼女のため。夢のため。
――なのに。
いっそのこと、もっと切り離してくれればいいのに。
こんな風にされたら、もっと好きにさせられるじゃない。
期待、しちゃうじゃない!
ふいに、電話の呼び出し音が鳴り出した。
音の方を見ると、チェストの上にあるファックス付きの電話だった。
こんな時間に、家に電話……?
けれどその疑問は、すぐにあたしの頭の中で打ち消された。
可能性としては、三つしかないから。
携帯が繋がらない、イコール、こんな時間でも心配して電話をかけてくる相手。
彼女……だったら、きっとこんな時間にはかけてこない。
仕事の忙しさも理解しているだろうし。良いトコのお嬢様だったら、失礼に当たる、って、きっと翌日に回すだろう。
会社の誰か……だったら、韮崎さんが帰ったことはもうとっくに分かっているはずだし。
かけるなら、きっともっと早かったと思う。
なら――あとは、ひとつだ。
歓迎会で帰ってくるのは遅いって――そう、分かっている相手。
そして、あたしに何かあったと心配している、彼の親友。
韮崎さんは、コールを鳴らしている相手が相川さんだと分かっているのかいないのか、何も言わずに立ち上がり、電話へと向かった。
「もしもし」
彼の低い声のあと、受話器からは微かに男の人の声がした。
何を話しているのかまでは聞こえないけれど、それくらいのことは分かるほど、部屋の中はシンとしている。
韮崎さんは、あたしに背を向けたまま受話器に向かって言った。
「ゴメン、今帰ってきたとこなんだ。
歓迎会の会場がさ、多分電波が入らなかったんだと思う」
――嘘吐き。
相手は予想通り、相川さんだ。
うん、うん、と、相槌を打つたび、背中が小さく揺れる。
「葉山は、急に具合悪くなっちゃって。それで、部の女の子が送って行った。
熱――あったみたいだから、きっと今は寝てると思う。
落ち着いた頃に電話してみればいいよ」
――嘘吐き。
「ああ。俺にとっても大事な部下だしさ」
大事な部下?
「良い子だしさ、大切に――しろよ」
――何、それ……。
どんな顔してそんなことを言うのよ!
身動きひとつ出来ず、その場から背中を見つめた。
表情なんて、全く見えない。
ただ、きゅっと唇を結ぶ。
じゃあ、と。
その言葉のあとに、かちゃ、と受話器を戻す音が、部屋の中に小さく響いた。
もう切れているはずなのに、韮崎さんは電話に手を添えたままでいる。
「大切に……して、欲しいんですか?」
あたしの方を振り向かない後ろ姿に問う。
「あたしを。相川さんに?」
泣きたいはずなのに。
滲み出たのは、ただの苦笑だった。
何か、答えてよ!
重たすぎるほどの沈黙が、暗闇に落ちて圧しかかる。
数秒が数分にも感じられたかと思うと、韮崎さんはゆっくりとこちらを向いた。
「そうだよ」
そして、低い声がそう言った。
部屋の中をたったひとつで照らしているパソコンのディスプレイが、彼の輪郭と表情を薄っすらと青白く映し出している。
その色は冷たくて。
そして、哀しそうにも見える。
――分かってる!
最初から婚約者がいるってことも!
それでもいいって、愛人でいいって言ったのはあたしだって!
だけど――!
「……矛盾、してる。
出るな、って言って――裏切りだって言って、あたしを抱いたくせに」
「……そうだな」
「じゃあ、何で……?」
韮崎さんは苦笑してみせると、目を逸らし、ぽつりと言った。
「女として――惹きつけられて、仕方ないんだろうな」
それは、やっぱり身体だけってこと?
……ううん。そんなの、分かってる。
だから、それこそ、最初から――。
あたしはそういう女だって、思われてる。
唇を引き結び、ぎゅっと掌を握り、彼を見た。
そして、言った。
「あたしもです」
その言葉に、彼の視線が帰ってくる。
「あたしも、男として、惹きつけられて仕方ないの。
だから、関係を止めるつもりもない。
韮崎さんより身体の相性がいい人なんていないし。
それと結婚相手とは、また別。
だから韮崎さんも、あたしとこういう関係なんでしょ?」
恋愛なんて、疲れるだけ。
ずっとそう思ってたのに。
それを覆すようなオトコになんて、いなかったのに。いらなかったのに。
簡単に引き寄せられて恋に落ちて。
だけどそれは決してあたしのモノにはならない。
ゴールなんて、ない。
先も、見えない。
だけど。
あたしは――彼が夢を叶えるところを見たい。
一緒に手伝いたい。叶えてあげたいの。
愛人でもいい。
どんなカタチでも傍にいたい。
今はそれでもいいって――強く思う。
だから、離れるなんて、言わないで。
そういうズルイ女だって、思っていて。
韮崎さん自身も、ズルイ男でいていい。
口を噤んでしまった韮崎さんに、あたしはゆっくりと近づいた。
青白い光を含んだ瞳が、あたしに向けられる。
「抱いて。
朝になったら帰るから。仕事の邪魔、しないから。
あたしがいるときは、あたしだけ見て」
目の前にある身体に手を伸ばした。
凭れかかるようにして、胸に額を押しつける。
壊れてしまいそうなほど、心臓が痛かった。
身体をいくら繋げても、深めても、心の距離は近づいてはくれないかもしれない。
それでも、あたしたちを繋げるのは、この方法で。
声に出さなくても、身体で表現できる。
『好き』と――。
言えない、この想いを。