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……な、に……?
結婚を認められるため?
何、それ……。
ちょっと――待ってよ。
東和重工副会長の孫娘に相応しい将来見通しのある男だから、副会長自らとか重役からの斡旋での婚約じゃないの?
韮崎さん自身が、最初から彼女を選んで、二人の関係を認めてもらうためにウチにきたの?
愛がないんじゃなかったの?
あたしは――二人の結婚のために、韮崎さんに引き抜かれたの?
好きにさせてやる、自分の会社を誇れるようにしてやる、って――あたしに言ったあの言葉は――彼女のため、ってこと?
唇が小刻みに震え出す。
電話で良かったと思う。
いくらあたしでもこんなことを聞いて、笑顔を上手く保つことなんて出来ない。
けれど、声まで震えないように、携帯を持つ反対の掌を握り締めて訊いた。
「じゃあ、もし、業績が上がらなかったら――?」
「んー……」と、相川さんは少し考えるような声を上げる。
『そりゃあ、許してもらえないだろうな。
韮崎んちの事情は、アイツ自身が殆ど話さないからよくわかんないけど、副会長は、家柄とか気に入らないみたいだから。
ただ、韮崎自身は凄く仕事が出来て頭の切れるヤツ、って今迄の会社での実績があるからさ。
その辺は認めてる部分もあるんだろうなー、その条件で結婚を許すってことは』
「………」
家柄……そうか……。
確かにそんなご令嬢が、普通の人との恋愛結婚なんて出来る筈がないのかもしれない。
それに見合った余程の人物じゃないと……。
黙ったままでいると、相川さんはそのまま続けた。
『アイツはさー、仕事で認められて上に立つことは夢なんだよ』
「え? 夢?」
『学生の頃から、大きな会社を自分で動かしてみたいっていう願望が凄く強かったんだよ。
て、言うか、それしか考えてなかったんだよね。
東和重工への入社に関しても、絶対にするって息巻いててさ。まぁ、アイツならやるよなとは思ってたけど。
それに認めてもらえれば、本社に戻って重要ポストに収まることも約束してるらしい」
「重要ポスト……?
そんな約束まであるんですか?」
『うん。悠里さんとの結婚、イコール、東和重工のポスト就任決定ってわけだし、決まったらアイツの全ての望みが叶うんだろうな。
まぁ、さ。韮崎のそういうところ、昔から知ってるから、今回頑張って掴んで欲しいんだ、俺としては』
「………」
『あー……ゴメン、ちょっと、って言ってたのに、こんな全然違う話になってて。
時間、大丈夫?』
「……はい」
『歓迎会、何時頃終わるの?
俺、今日はもう仕事終わったから、迎えに行きたいんだけど。
心配なんだ。韮崎、言ってたからさ。瑞穂ちゃんは、社内でも狙ってるヤツが凄く多いって』
……そんなこと、言ってたの?
もう、やだ……。
どんな気持ちでそういうことを相川さんに言うわけ?
胸の奥がどうにもならないほど痛くなって、泣きそうになる。
相川さんに、何をどう言って断ればいいのかさえ、分からなくなる。
言葉が出ないままでいると、急に後ろから腕を掴まれた。
「きゃあっ」
あまりにも驚いたその反動で、携帯電話は掌の中から零れ落ち、床にプラスチックが割れたような音がした。
「俺だよ、葉山さん」
「……菊池さん」
「戻ってこないから、どこに行っちゃったのかと思って心配したよ」
電話は、衝撃で通話が切れたのか、それとも壊れたのだろうか。
床の上で、何の音も立てていない。
「電話……ごめんねぇ、壊れちゃったかなぁ?」
菊池さんはそう言いながらにっこりと笑ったけれど、目が据わっている。
あたしの腕を掴んだまま、腰を屈めて落とされた携帯電話を拾い上げ、ハイ、と、差し出してくる。
「ねぇ、電話、彼氏?」
異様な雰囲気に、ごくりと固唾を飲み込んだ。
合コンや飲み会でも、一人になった隙にこうやって誘われることは多々あるけれど、いつものそれとは少し違う。
「そうですよ」
笑顔を作って答えた。
やんわりと断っておくことが一番無難。一応先輩なんだし。
これ以上踏み込まれても、困るし。
こう言っておけば、少しは引いてくれるだろう。
携帯を受け取る。
けれど予想を反して、差し出した手も掴まれ、引き寄せられた。
「このまま一緒に帰ろっか?」
首元に、生温かい息がかかった。
身体中が粟立つ。
――全然、通じてないじゃん!
「やだ、菊池さんってば、酔ってます?
そういうの、困りますよぉ」
ああー! もう! 気持ち悪いっ!
ちょっとコレって、マジでヤバい……。
そうは思っても、会社の先輩だと思うと下手な反応は取れないっていうのが辛いところ。
これが知らない人なら蹴り飛ばしてやるのに。
嫌悪感は出しつつ、表面上の笑顔で腕を振り解こうとした。
それを煮え切らないと感じたのか、また強引に抱き寄せられる。
「ちょ……っ! 菊池さんっ!」
「いいじゃん?」
「やめて下さい!」
「好きなクセに。
誘った目、いつもしてるだろ?」
――なっ……!
「嫌だってば!」
そう声を上げたのと同時だった。
勢いよく、触れていた身体が離れていったのは。
……嘘……。
首根っこを取ったように、菊池さんのシャツの後襟を掴んだ韮崎さんの姿があった。
怒気を含んだ瞳がそこから見下ろしている。
「こういうの、感心しないけど?」
「主任……っ」
韮崎さんの低い声に、赤らんでいた菊池さんの顔はさっと白くなった。
そんな菊池さんの首元からパッと手を放したかと思うと、今度はあたしの手を取った。
「行くぞ」
―― 一言。
それに答える間もなく、ぐいぐいと引っ張られる。
皆のいる方に戻るのかと思いきや、その足は店の入り口の方へと向かう。
「韮崎さんっ? 行くって――」
「帰るに決まってるだろ?」
「だって、皆……!」
言いかけのところで自動ドアが開いて。
そして、閉まった。
足が止まる様子もないことから、腕を引かれながらちらりと後ろを振り返ると、大きなガラスの自動ドアの向こう側で、菊池さんが茫然と立ち尽くす姿が小さく見えた。
前を向き直し、広い背中を見上げる。
「こんなの――誤解されますよ」
「………」
「韮崎さんは、戻ったほうがいいです」
「………」
「韮崎さんっ?」
まっすぐに前を向いて早足で歩く韮崎さんは、黙ったままこちらを見ようともしない。
近くにあったエレベーターが頃よく到着したようで、電子音を響かせて扉が左右に開かれた。
韮崎さんの腕はそこに強引にあたしを引っ張り込んだ。
すぐに扉は閉まって、箱が階下にと動き出す。
手が放されたかと思うと、韮崎さんは壁に寄りかかり天井に向かって大きく息を吐いた。
あれほど騒がしい場所にいたせいか、急に狭い空間に二人きりになって、何だか緊張する。
それに――こんな風に助け出してくれるなんて……。
「韮崎さん」
「………」
韮崎さんは、ようやくゆっくりとこちらに振り向いた。
それなのにそれを邪魔するように、あたしの手の中の携帯が唸りを上げ出した。
壊れたかと思っていたのに、そうではなかったらしい。
相手は見なくても分かっていた。
あんな状態で切れたのだから当然だろう。
――相川さん。
いっそのこと、壊れていれば良かったのに。
ハッキリとした音を立てないソレが余計に憎らしく思えた。
バッグの中に入っていれば気付かないで、ううん、気付かない振りで済んだかもしれないのに。
「彼氏?」
電話に出ることに躊躇していると、冷ややかな声が言った。
ディスプレイから目を上げると、色のない瞳があたしを見下ろしていた。
さっきの――。
菊池さんとの、聞いてたの?
もう、やだ!
なによっ! 自分なんて婚約者がいるくせにっ!
あたしを利用するくせにっ!
言わなくていいって言ったくせにっ!
それなのに、そんな試すような言い方!
あたしは――好きなのに!!
「知ってるくせに!」
あまりに悲しくて、思わずそんな言葉が出た。
誤解なんてされたくない。
だけど、強がらないといられない。
だってあたしは、どんなに頑張っても、最終的には選んではもらえない。
じわじわと色んなことがまた頭を巡り始め、目頭が熱くなる。
堪えようと必死に奥歯を噛み締めたけれど、意志を無視して涙の粒が膨らみ始める。
そんな姿を見られたくなくて、彼から顔を逸らし、電話に出ようと携帯を開いた。
ぽつり、と。
液晶画面に丸い水滴が跳ね上がった。
「出るなよ」
その言葉と一緒に、目の前の視界が遮られた。
唇に、柔らかな感触も触れた。
数日前、何度も求めて重ね合わせた唇が。
なんてズルイ男。
――『彼女のおじいさん――東和重工の副会長に認められるためなんだ、瑞穂ちゃんの会社に出向してきたのは』
――『悠里さんとの結婚は、アイツの全ての望みが叶うんだろうな』
相川さんの言葉が蘇る。
手の中では警告を送ってくるかのように、震動が続く。
――それでも。
今、助けてくれたのは事実で。
あたしが韮崎さんを好きなのも、もう変えることは出来ない。
目に見えないもの全てを封じ込めてしまうように、あたしは瞳を閉じて、今感じる彼の唇の熱を貪った。