14
ハンバーグの上にかかったデミグラスソースは、本格的なものだった。
付け合わせの皮付きポテトはバターと黒胡椒が利いていて、にんじんのグラッセは甘ったるくなく、どれも素材がきちんと活かされている。
――美味しい。
ふ、と。視線を感じて顔を上げると、まるで遊んでいる子供を見守るような目とかち合った。
「瑞穂は分かりやすいな」
「え?」
「美味そうに食うよな。そういうの、顔に出る。
この間、ウチでも凄い美味そうに食ってたし。
なのに社食にいると、思い切り不味いって顔してる」
分かりやすい?
顔に出る?
「そうかな……?」
自分では、表情を作るのは得意って思ってたけど、確かにそんなところまでは普段気を張ってない。
そういうの、やっぱり節々で出ちゃうのかな……。
食事のときも、気を付けなきゃ。
「なんかさ、ウチの会社でも、そういう顔させたいな」
あ。またそういうこと言う……。
「不味い社食が美味しく変わってくれると、毎日なりますよ?」
冗談で返したつもりで、にっこりと笑ってみせる。
なのに韮崎さんは、そんなあたしの極上の笑みも見ていないかのように、考え込んだ顔をした。
そういえば、さっきから食べているのはあたしばかりで、彼のお皿の上は殆ど変化がないままだ。
「韮崎さん?」
「うん」
「何、考えてます?」
「瑞穂が笑顔になる社食って、どんなのかな、って?」
このぉ……。
言うことが、いちいち上手だな!
あたしのことなんか、何とも思っていないくせに!
内心、嬉しくないわけなくて。
けれど澄ました顔つきで言った。
「あたしだけじゃないですよ。
社食が美味しくなったら、皆喜びます。
そもそも、食品関連の会社だっていうのに、美味しくないこと自体が問題ですよね」
韮崎さんは、もう食べることを放棄したように、フォークを皿の上に置いて小さく頷いた。
「それはもっともだな。
今って、瑞穂だけじゃなくて、社員の殆どが好きで仕事してるっていう風には見えないし。
自分の会社のモノが美味いって、好きだって思えなきゃ、会社も仕事も好きにはなれないよな。
確かに……瑞穂の言う通り、社食が美味くなきゃ。
社食の不満って他にある?」
「メニューが少ないことかな。
デザートとかも、あればいいなーとか」
「……デザート、って……。
ふぅん。さすが、女の子の意見だな」
「そういえば、あたし、自社レストランって行かないって言ったじゃないですか。
それって、きっと、他の社員もそうだと思うんですよ。実際、あたしの周りは行かないし。
社食に自社メニューがあって、お店よりも安く食べられる、とか、良くないですか?
そうしたら、お店に行かない社員だって、メニューの把握も出来るし、美味しければそれが会社を好きになる一因になるかも!
あ! それに、新しいメニューがあったら、お店に出す前に社食で出して、社員にアンケート取っても良くないですか?
自分達が、商品の開発に参加出来るって感じで、楽しそうだし!」
フォークとナイフを握り締めたまま、するすると出てきた言葉の後に、じっと見られているのに気が付いた。
「……瑞穂って……」
「あ、すみませんっ! あたし、ちょっと考えなさすぎですよね。
確かウチの社食って、外部の会社が入ってやってるし。
思いつきにしても、無理ですよね」
「なんだ?
俺なら出来ると思って言ったんじゃないの?」
「え?」
「良い案だと思うよ。
もう少し練って、企画の方に出してみるよ。
今のままよりずっと、社員の士気も上がる案だろ?」
韮崎さんは、ニッと、あたしに向かって唇の端を上げてみせる。
「………。
出来るん、ですか……?」
ただの思いつきで言ったのに――。
「外部を内部に変えるのは難しいけど、外部のままでだったらやれるかもしれない。
そこから先は、俺の仕事だと思ってるんだろ?」
韮崎さんの顔付きは、出来ないことなどないとでも言っているように見えた。
こんなのって……。
あたしなんかの無謀な意見まで、通してくれようとするなんて……。
とうとうあたしは、握ったままでいたフォークもナイフも、韮崎さんと同じように皿の上に置いた。
「期待……してます」
「瑞穂の笑顔が社食で見られるといいけどな」
もう、美味しいハンバーグが冷めていくのなんて、どうでも良かった。
随分時間が経った気がして腕時計に目を落とすと、22時を回りそうだった。
韮崎さんとあたしの歓迎会は、豆腐料理を専門とした和風創作の居酒屋で行われている。
正方形の琉球畳が敷かれた宴会用の一室は、店の一番奥に襖で区切られ、雰囲気も落ち着いていて、料理も各地の珍しい地酒も美味しいせいか、箸もお酒の進みも早く、殆どの社員が顔を赤く染め出来上がっている。
まだお開きにならないのかなぁと、溜め息を吐き出しながら、長テーブルの一番向こう側に目を転じた。
「いやぁだぁ」
鼻にかかった高い女の声。
隣に座る韮崎さんの腕に、馴れ馴れしく指先が触れている。
こういう席だからなのか。それとも、アルコールが入っているせいなのか。
社内では女子社員にクールなはずの韮崎さんの表情は、いつもよりもずっと柔らかい。
本当は、あたしが隣に座りたいのに。
『愛人』っていう関係じゃなかったら、多分、無理矢理にでも割り込んで隣をキープしていたと思う。
副会長の孫という婚約者がいるのに、あたしとの関係がバレたら、それこそ韮崎さんの立場は破滅する。
続けたいなら会社では大人しくして、興味のない振りをするのが一番なのだ。
あたしの隣に座るのは、3つ年上の三原さんで、普通に見てもわりとイイ男。
自分でもモテるのは承知の上らしく、下心があるのもミエミエで、さっきからずっと誘い半分に話しかけてくる。
以前のあたしなら、それに食いついていたかもしれない。
だけど今のあたしには、そんなのはただ煩いだけだった。
三原さんの話を聞いている振りをしながら、適当に相槌を打っていると、視界の中に急に薄紅の色が割り込んだ。
「葉山さん、あんまり飲んでないんじゃない?
はい、どうぞ?」
菊池さんが、パンパンに頬を膨らませた笑顔で、ピーチツリーフィズらしき飲み物が入ったグラスを差し出してきた。
会社から店に来る間も、皆と一緒と言えど、菊池さんはあたしの隣にピッタリとくっついて、くだらない話を一生懸命にしていた。
ウザいから、席に着くときはわざと彼を部長の横にさせて、あたしは離れたところに座ったのに……。
ちらりと部長の方を確認すると、残念ながら半分潰れかけているご様子だった。
「あ、あたしもう……」
「そーだよ。菊池、葉山さん困ってるじゃん」
「えー、でもさ、ほら。今日はやっぱ主役だしさぁ。
どんどん飲んで飲んで。ね?」
三原さんがフォローしてくれたにもかかわらず、場の読めない菊池さんは、あたしの隣の狭い隙間に座り込み、強引にグラスを手渡してきた。
全くっ。しつこいっ。
「じゃあ、少しだけ、頂きますね。
あ。でも、その前にちょっと失礼します……」
“トイレだから付いて来ないでね”という意味を含めてにっこりと微笑んで、受け取ったばかりのグラスをテーブルに置き、バックを持って立ち上がった。
そそくさと、酔っぱらって上気した人の間をすり抜けて歩き出すと、後ろから三原さんが菊池さんに嫌味を言っているのが聞こえた。
あー。もう、ホント、疲れる。
だから歓迎会なんて嫌なんだよね。
せっかくの週末だっていうのに。
誰かさんは、変わらずべったりと隣に女が張りつかれてるしさぁ……。
レストルームに入って一人になると、何だか一息吐けた気がした。
閉鎖的な空間が、静かで逆にホッとする。
メイクを直して、禿げていた口紅もきっちり引く。
いつものように仕上げを確認しながら、数十センチ前にある目を睨んだ。
鏡に映る自分は、こんなにメイクを施しても、どことなく冴えない顔をしている。
……どうするつもりなのかな、韮崎さんは。
あたしが相川さんの彼女だって勘違いしてて。
“愛人関係”はこれで終わりにするつもりなのかな……。
だから……なかったことにしたいから、わざと仕事の話に持っていったのかな……。
最後にピンクベージュの口紅の上にクリアーグロスを重ねると、騒がしいあの場所に戻るためのドアを開けた。
ムッとした煙草とアルコールの香りが、一気に流れ込んでくる。
思わず溜め息を零すと、バッグから微かに振動を感じた。
――電話。
もしかして……。
マナーモードにしてあって良かったと思う。
これだけ騒がしい店内じゃあ、バッグの中で着信音が鳴っても気付かなかったかもしれない。
急いでそこから取り出した。
けれど、期待とは大反対の人物の名前が、確認したサブディスプレイに点滅されている。
仕事が終わった後、着信拒否を解除した相手だ。
どの道、連絡を取らなくちゃ、と思っていたから、丁度良いのかもしれないけど。
「もしもし」
『瑞穂ちゃん?』
「相川さん」
『うん。
あ、今、大丈夫?』
「ちょっとなら。
今、あたしと韮崎さんの歓迎会の最中なんです。
たまたま、席外してて」
『そうなんだ? ゴメンね』
「大丈夫ですよ。
あたしも、相川さんに連絡しなきゃ、って思ってたし……」
相川さんとはお付き合い出来ないって、ハッキリ言っておかないと……。
あたしがそんなことを考えてることは露知らず、相川さんは嬉々とした声のトーンで返してくる。
『ホントに? それって、嬉しいんだけど。
つーか、ゴメンね! こっちこそ連絡遅くなっちゃって。
今日は本当にゴメン!
いきなり行って呼び出したくせに、韮崎と二人っきりにさせちゃって。
大丈夫だった?』
「平気ですよ、全然。
それに、仕事の話ばかりしてたし……」
『あはは。仕事の話かー。アイツらしいなー。
瑞穂ちゃん、韮崎と一緒のプロジェクトなんだって?
無理矢理引っ張ってきたって聞いたよ』
「えっ……あっ、そうなんです……」
韮崎さんてば、相川さんにどこまで話したんだろ?
でも、この調子だと、オヤジのご機嫌を取るため、なんて聞いてなさそうだな。
『韮崎のこと、よろしく頼むね』
「えっ?」
“一人の男として”という言葉の意味ではないと分かってはいても、急によろしくなんて言われると、見抜かれていたように思えてドキッとした。
一瞬、言葉に詰まると、相川さんが言った。
『アイツ、今回の仕事に賭けてるんだよ』
――賭けてる?
「どういうことですか?」
訊き返しながら、嫌な予感が胸を走った。
そして、それを予感では済まさないとばかりに、すぐに決定打が渡された。
『ほら、アイツに婚約者がいるっていったじゃん?
その、彼女のおじいさん――東和重工の副会長に認められるためなんだ、瑞穂ちゃんの会社に出向してきたのは。
今回の出向で、業績上げて周囲に認知される仕事をすれば、悠里さんとの結婚を認めてもらえるんだ』