13
動き出した後ろ姿にハッとして、急いで追った。
数歩遅れて店内に入ると、韮崎さんに向かって笑顔のない店員が指を揃え、どうぞ、と席を案内した。
店内は、ほぼ満席だった。ざわざわと上がる話声が耳障りだ。
そんな合間を早足で縫って歩き、用意されたテーブルに着くと、店員はあたしの席の椅子を引いてくれた。
持っていたバッグも、足元にある籐かごに入れてくれる。
カジュアルな店でこういう気の利いた接客は珍しいけれど、今のあたしにはただの有り難迷惑だった。誰かと関わっている余裕なんてないから。愛想笑いでさえ面倒。
だけど仕方なく、にこりと愛らしく会釈する。
韮崎さんもあたしの後に椅子を引いてもらい、腰を下ろした。
何ら変化のない澄ました顔つきが、憎らしい。
それなのに、背を向けたときからあたしの顔を見ようとしていない。
――何、考えてるのよ……。
そう思った途端、急にその目があたしを捉えて、どきりとした。
「今、何、感じた?」
「えっ?」
感じた、って――。
そんなこと訊くなんて、また、ズルイことを――。
じゃあ、どうして言わなくていいとか言うのよ?
あたしのこと、試してるわけ?
テーブルに両肘を付けて、あたしをじっと見る韮崎さんの目を、わざと逸らしてやった。
「何にも言わないし、訊かないし……。
ハッキリ言って、酷いですね。
顔つきだって変えないし……」
「ちゃんと、見てたんだ?」
「見てるに決まってるじゃないですか。
何言ってるんですか?」
「うん。後は?」
「さっさと背を向けて行っちゃうし」
「俺も、早足だと思った」
――は?
意味、分かんないんですけど……。
そういうの、自分で平然と言う?
言うなら謝罪の言葉も一緒でしょ?
開き直ってるの?
逸らしていた視線を戻し、眉を寄せながら見上げると、そこには少し目を細めて考えるような顔があった。
「入店時は、5点中2点ってとこか。
椅子を引いてくれるっていうのは、こういった店ではなかなかないよな。
こういうサービスはいいと思う」
………。
入店時? 2点? 椅子?
……それって。
韮崎さんは、顔の前でゆっくりと指を組みながら、店内を見渡した。
あたしは逆に、テーブルの上を見た。
「花……赤いダリア……綺麗ですね。
花器も、正方形のガラスってお洒落だし可愛い。
若い女の子には、こういうのって好かれますよ。
テーブルに一輪でも花があると和みます」
「あー、やっぱ、女の子の意見だな」
「荷物を置くかごも、かなり便利です。
女の人って、必ずバッグ持ってるし。あと、上着とかも」
「なるほどね」
韮崎さんは、薄く微笑んだ。
――そうか。
そういうこと。
口走った言葉が、外れたモノじゃなくてラッキーだった。
思い出した。
この店は『華のき 新宿Sビル店』の、競合店だ。
韮崎さんにとって、背を向けた時点で、プライベートじゃなくなったってわけ、ね。
こんな風に、すぐに切り替えられるなんて……。
あたしは――そんなにどうでもいい女、なのかな。
1回寝ただけで……彼女面されるのが、迷惑ってこと?
あたしが相川さんをそう思うように?
だけど、愛人でいいんじゃなかったの?
家にだって、また行っていいんでしょ?
本当に、何も気にならないの?
先程の店員が、トレーに水の入ったグラスを乗せて、またあたしたちのテーブルに戻ってきた。
コトリ、と、小さな音を立てて目の前に置かれたグラスは、少し変わった形だった。
厚みのあるグリーンのガラス。真ん中あたりがへこんでいて、小さな頃飲んだサイダーの瓶を思わせる。
そこに、レモンの輪切りが浮いていて、グリーンとイエローのコントラストも綺麗だ。
店員は、きちんと礼をしながらメニューを置いて行った。
あたしはすぐに、今置かれたばかりのグラスに指で触れた。
「グラス、可愛いですね。
それに、店内も混雑してるのに、メニューを持ってくる時間も早かったし。
笑顔がないのはマイナス点だけど、丁寧な口調と頭の下げ方は好感が持てます」
「そうだな。
ウチの店が見習いたい点も結構あるよな。
内装や備品のセンスもいいし。
味はどうだろうな」
韮崎さんは、顔の前にあった手をテーブルに音なく下ろすと、メニューを開いた。
あたしも、それに倣って同じようにメニューを開く。
表紙と1ページ目の間には、ランチメニューが別紙になって挟んであった。
『本日のランチ
ライスorパン、サラダ、ドリンクつき』
『パスタランチ
本日のパスタ、サラダ、ドリンクつき』
『ハンバーグランチ
ライスorパン、ドリンクつき』
その下には、カレーやオムライス等の数品名が並んでいる。
今日のメニューって、きっと店頭のボードか何かに書いてあったんだろうな。
お店に入るとき、見る余裕なんてなかったし。
「本日のパスタって、何でした?」
「ああ、ゴメン。
俺も見てない」
「本日のランチとか、本日のパスタ、だけじゃあ、店頭のメニュー見忘れたら分からないですね。
メニューを渡すときに、一緒に軽い説明があれば親切なのに」
「そういうところがソフト面なんだよな。
客観的に見ると、こうして欲しいとか、こうならいいのに、って気付くことは結構あるよな」
確かに。
普段、お客としてお店に入ると、そう思うことはあるかも。
でもそれって、口に出すほどのことじゃないんだよね。
感激するほど何かが良かった、っていうお店よりも、何か凄く悪かった、っていうのがあったお店のほうが、ずっと印象に残るかもしれない。
――もう、二度と行きたくない、って。
ゆっくりと、店内を見回した。
強い陽を遮るために降ろされた白いロールカーテン。
その横で楽しそうに会話をしながら食事をするOLたち。
クラッシックで落ち着いたデザインのテーブルと椅子は、バーチ材の床と色目も合わせてある。
黒いベストに白いブラウスが眩しい店員は、埋まった席の間を忙しなく動いている。
いらっしゃいませ、と、どこからか声が上がった。
良い点と、悪い点……かぁ。
「そういえば、あたし、思ったんです」
「何?」
「同じ特約店って、売り上げも似たり寄ったりなんですよ。
悪いところは悪いし、良いところは良くて。
それってやっぱり経営者が一緒だから、店舗の体制が似てる、ってことなんですよね?
悪い店舗は――人材教育から何から、出来ていないんじゃないかって。
そういう店舗こそ、どこがどう悪いのか外の目から見て、改善していったほうがいいんじゃないでしょうか。今回の調査に参加して欲しいです」
「………」
「あとは、売り上げが良い店舗にも、参加して欲しいです。
どこが良くて売り上げに繋がっているのか、客観的に知りたいです。
それで、具体的な良い部分を、他の店舗に伝えるべきじゃないでしょうか?
あたし、さっきリスト作ってみたんです。
予算とか――何店舗くらい調査するのかとか、細かいことについて伺ってないですし、打ち合わせもまだだから分からない部分が多いんですけど、調査を入れたい店舗をピックアップしてみました。
来週の打ち合わせで、少しはスムーズに話が進むかと思って」
「それって、今持ってる?」
「あ、はい」
あたしはすぐに、床の上のかごの中からバックを掴み、クリアーファイルを取り出して韮崎さんに手渡した。
打ち合わせで使えるようにと、さっき印刷しておいて良かった、と、思う。
「それ、韮崎さんの分なんで、持っていて下さい」
韮崎さんは返事をせず、あたしの作った資料にただ目を落としていた。
調査を入れたい店舗のピックアップの他には、売り上げや前年比等を入れたセクション別の全店舗リスト、地区別の平均値を割り出した表、平均値を上回っていても競合店よりも売り上げが低い店舗のピックアップリストも用意していた。
黙ったままだけど……こんなので良かったのかな……。
自分でピックアップしたやつ以外は、ただ貰ったデーターを印刷しただけだけど……。
口を噤んだままの姿に少し不安になると、韮崎さんは渡した資料をテーブルに伏せて置いて、あたしの方へと視線を上げた。
「瑞穂は、華のきに行ったりするか?」
「え?」
――『瑞穂』
今、名前で呼んだ。
仕事中、の、はずなのに……。
しかも、何? 急に……。
「ほとんど……行きません」
「じゃ、ウチの会社の他のレストランは?」
「……行かないです」
ここは、社員としてあるべき姿で、行くって言うべき?
でも、コレって多分仕事にかかわることだから、素直に言ったほうがいいよね。
韮崎さんは、顔の前で指を組んで、ふっと微笑んで言った。
「瑞穂は、会社、好きじゃないだろ?」
「――!」
直球だな!
ここもどう答えるべきか一瞬頭を悩ませたけれど、どうせもうお見通しらしいから、素直に答えることにした。
「正直な話、好きとか、そういう気持ちはないです。
だから、嫌いでもないです」
韮崎さんはまた息を漏らしながら、更に楽しそうに笑った。
「ホント、面白いヤツ」
「失礼ですね……。
大体、何で分かるんですか?」
「見てたんだから、分かるよ。
時間中、死ぬほどつまんなそうな顔してた。
社食で会ったときも、泥まんじゅうでも食ってるような顔」
「………」
見てた?
あんなにずっと、シカトしてたのに。
ちゃんと、見てたの?
澄ました笑顔の韮崎さんに、あたしは少し拗ねたように言った。
「じゃあ――何で……。
何で見てたのに、ずっと放っておいたんですか?」
「自分から、ちゃんと仕事が出来る子なのか、確かめたかったから」
「え?」
「期待、裏切らなかったな。
試したのは悪かったと思ってる」
試した?
それって――。
「……ホント、失礼なんですけど。
いきなり無理矢理、販売促進部に連れてきた上に、試したんですか?」
「うん、だけど良かった。
引っ張ってきた甲斐があったよ」
「………」
……ホントに、ズルイっていうかなんて言うか……。
試した、とか、簡単に卑怯な手口を吐露して。
その上で褒めるなんて。
物凄く複雑な心境になって、口を噤んで半分睨むように目の前の男を見る。
相手はそれも楽しむかのように、満足そうに微笑んで「それに、」と続けた。
「今日は楽しそうな顔してたよ」
「………」
楽しそうな顔……?
あたし、そんな顔、してた?
今日の朝まで、自分からは何もやらず、訊くこともせずに、ただ時間を無駄に過ごしてきて。
何も教えてもらえないことに、ただどうしてって、憤りを感じてた。
あの電話が――。
佐藤さんからあんな風に言われなかったら、ただの期待外れで終わっていたはず。
深く考えることもなく、ただデーターを見て終わっただけの1週間で。
――感謝、かも。
言われたときはムカついたけど、佐藤さんにはお礼したいくらい。
気持ちが高揚して、どう答えていいか分からなくなっていると、目の前の顔からは微笑みが消えて、シャープな唇が動いた。
「好きにさせてやる」
「――え?」
「自分の会社を好きになれるように、誇れるようにしてやる。
俺はそのために来たんだから」
真剣な瞳が、あたしを射貫く。
けれどそのまなざしは、期待に満ちた子供のようにも見える。
「一緒に頑張りたいと思ってる。瑞穂と」
動悸が上がった。
どうして、この人は――。
平気で冷たいことも言って、壁を作って突き放して。
それなのに、優しくて。
曖昧で、ズルイ男。
そしてこんな風に期待させる。
仕事への熱さえも、惹きつけられる。
また――気持ちは加速する。
これ以上好きになることが怖いのに。
それでも――。
「好きにさせて下さい」
あたしは真っ直ぐに彼を見つめて、そう答えた。