12
――『俺の、彼女』
相川さんの言葉が、まるでエコーでも利かせたように高い天井に響いて上がった。
確かにあの日、彼に対して思わせぶりな態度を取った。
身体の関係も、持った。
だけど、ハッキリとした言葉はお互いに言ってないはず――なのに。
この状態で『一夜限りの遊びでした』『本命は韮崎さん』なんて、言えるわけもなく、相川さんの横で口を噤んだままの韮崎さんを恐る恐る見た。
最初に社内で見掛けたときと同じ顔に見える。
無表情な、顔。
気にならないの?
何を考えてるの?
「相川さん、あたしは――」
「瑞穂ちゃんのこと、初めて会ったときから気に入っちゃって。
だけどなかなか上手く誘えなくて、瑞穂ちゃんから誘ってくれたときはマジで感激したんだよ。
……って、今待ってる間、散々コイツに聞かせてたんだ。
同じ部なんだから、誰かにちょっかい出されないように見張ってろよ、って」
何か言わなきゃと出した声は、相川さんと被ってそこで消えてしまった。
屈託なく言う相川さんに、さあっと、血の気が引く。
あたしから誘ったって……まさしくその通りで、返す言葉もない。
しかも、散々聞かせてたって……。
悪夢だ。それとも、運に見放されたとでも言うのか。
自業自得と知っていても、そう思わざるを得ない。
逡巡していると、ずっと黙ったままだった韮崎さんが言った。
「ノロケはもう聞き飽きた」
そして、相川さんに苦笑いしてみせる。
あたしの方を見ずに。
聞き飽きたって――。
それって――……。
「行こうか」
韮崎さんは親指を立てて入り口を指す。
先に立って足を進めた彼に合わせて、あたしも相川さんも歩き出した。
「韮崎、愛想のないヤツで悪いね」
韮崎さんの横に並ぶと、相川さんが耳元に顔を寄せて言ってくる。
「い、え」
近づきすぎないでよ。
内心そう思いながら、あたしは前を向いたまま答えた。
――『トモダチ』
これほど厄介なモノはない。
今、この場で相川さんの顔を潰すような発言は出来ないし。
相川さんがあたしに本気な態度を取るほど、韮崎さんは引くだろうし。
いくら彼女じゃないと分かったところで、何よりも、友達が好きな人とは付き合えないと言われる確率は大だ。
……本当に、参ったなぁ……。
静かな音を立てて左右に開いた自動ドアを潜ると、今迄冷房で寒ささえ感じていた肌が、いきなり強い日差しに照りつけられ、ちりっと焼ける気がした。
容赦ない光線が眩しくて目を細めると、一瞬、頭が眩む。
それと同時に、タイルの目地にヒールが落ち、ほんの少しだけ足元がふらついた。
「――あっ」
声が上がった時には、腕が掴まえられ、支えられた。
韮崎さんと相川さん、二人ともに。左右から。
肩先のフレンチ袖から伸びる腕。
それはもう本当に、視界を占領するほど間近に見えた。
袖と一緒に掴まれているのに、肌に触れられている韮崎さんの掌が異様に熱く感じる。
そんな熱をもった掌が、先に離れていった。
一瞬だけ合わされた視線はすぐに外されて、気まずそうに僅かに顔が歪められた。
「ゴメン」
呟くように韮崎さんが言った。
それって、あたしに対して?
それとも、相川さんに対して?
「大丈夫? 瑞穂ちゃん」
「あ、はい。すみません、大丈夫です。
一人で歩けます」
まだ掴まれたままのほうの腕は、放される気配をみせないまま、更に力が入ったのを感じる。
手を振り払うことはせずに、放して、という意味を込めてにっこりと笑顔で言うと、相川さんはようやくそこで腕を解放してくれた。
「ところで韮崎、どこ行くの?」
「近くにいい店あるから。そこでいいか?」
「俺はなんでもいいよ。
瑞穂ちゃん、いい?」
「あたしはどこでも大丈夫です」
さっきから如何にも彼氏面な口調の相川さんに、笑顔を貼り付けて心の中で舌打ちしながら答える。
それに、さっきから妙な緊張で、心臓はばくばくしっぱなしだ。
隣で呑気な顔をしている相川さんに、溜め息を吐き出したくなったけど、堪えて飲み込む。
「そういえば、昨日、悠里(ゆうり)さんに会ったよ。
外回りに出た時に銀座でバッタリ」
――ユウリ?
相川さんが投げ掛けた会話の中の名前に、韮崎さんの肩先が小さく跳ねたのを、あたしは見逃さなかった。
――婚約者、だ。
「そう?」
「相変わらずだったよ。
何か、可愛い人だよなぁ」
「ああ」
「あ。悠里さんって、韮崎の婚約者なんだけどね」
あたしが話についていけないだろうと思ったのか、相川さんはこちらをパッと向いて、わざわざ注釈をしてくれた。
「へぇ……韮崎さん、婚約者いるんですか?」
知らない素振りで答えた。
作り笑いは得意なはずなのに、口元が引き攣っている気がする。
――韮崎さんの、婚約者。
どんな人なのか、聞きたい。
だけど、聞きたくない。
何だか、怖い。
「そうなんだよ。やっとコイツも落ち着くのかーって何だか不思議なんだけど。
コイツが、初めてオレに紹介してくれた人でさー」
「……紹介?」
「うん。ちょっとおっとりした感じの可愛い人でさ。
韮崎みたいなヤツは、ああいう人がお似合いっていうか。
東和重工の副会長の孫娘なんだけど、何だかそんな感じもしない気さくな人で……」
「相川」
韮崎さんは、咎めるようにきつく名前を呼んだ。
「何だよ、いーじゃん。
瑞穂ちゃんだって、会社ではバリバリでクールなコイツがどんな人と結婚するのか興味ない?」
「オマエなー」
「分かったってー」
相川さんはいたずらに笑って、ポンポンと韮崎さんの肩を叩いた。相手の性格を見越したように。
仲がいい友達っていうのは、そんなところを見ているだけでも感じられる。
久しぶりに会った、旧友。そんな感じだ。
こんな韮崎さんは初めて見るし、そんな姿は微笑ましく目に映る――はずなのに。
クールな韮崎さんの崩れた顔。
友達が、相川さんじゃなきゃ良かったのに。
彼女の話なんか出てこなければ良かったのに。
――おっとりした、可愛い感じのヒト。
――東和重工の副会長の孫娘。
きっと。あたしとは全然違う……。
友達に、紹介するような人――。
恋愛感情ないんじゃなかったの?
ぐっと奥歯を噛み締めた。
胸が、痛い。
痛いよ。
あたしはただ黙って二人の間を歩いていた。
頭の上で繰り広げられる会話も、上手く頭に入ってこない。
「ソコ」
韮崎さんがビルを指差した。
レストランやカフェ、居酒屋なんかが幾つか入っているビルだ。
ウチの会社のレストラン『華のき -kanoki-』も入っている。
今迄は制服だったこともあって、『TWフードの社員』はさすがに入り辛く、この時間帯には来たことはない。
韮崎さんは、わざわざウチの店に入る気なのだろうか。
そう思っていると、韮崎さんはウチの店ではなく、その手前にある洋食屋で足を止めた。
「ココでいい?」
「あれ? 『華のき』じゃないの? ……と!」
携帯電話の着信音が、相川さんのパンツのポケットからくぐもった音を奏で始めた。
相川さんは喋っている途中だったせいか、掌を顔の前で立てて『ゴメン』という仕草をしてから、電話に出る。
くるりと背を向けて話し始めたのを見ると、自然と視線は韮崎さんへといってしまった。
そうした途端、ばちっと目が合った。
相川さんの電話の相手に打つ相槌が聞こえてくる。
妙に、耳に付いてくる。
すぐ傍にいて、それが気になる。
こんな風に視線を合わせているのを見られたら、この二人の友好関係はどうなるのだろう。
そう思っても、重なった視線を外せない。
韮崎さんも、真っ直ぐにあたしの瞳を見つめていて、外そうとはしない。
――何、考えてる?
あたしのこと、どう思ってる?
そう思った時だった。
相川さんが大きな声を上げて、そこで結局あたしは自分から韮崎さんへ向けていた視線をその声の方へと戻した。
相川さんの方を見ると、携帯電話に向かって何か怒っている。
「――分かった。
今、すぐに戻る」
相川さんは真剣な顔でそう言ったかと思うと、耳元から携帯を離して、パチン、と音を立てて片手で折り戻し、あたし達の方へと向き直った。
「……どうか、したんですか?」
「ゴメン、戻らなきゃいけなくなった」
「……え?」
「ちょっとトラブルがあって。
ほんっと、ゴメン!」
相川さんは、顔の前で大袈裟に手を合わせて頭を下げた。
「つーか、二人で平気?」
顔を少し上げ、合わせた掌の上から窺うようにあたしと韮崎さんを交互に見てくる。
あたしには、今の一本の電話が、まるで天から一筋の光が降りてきてくれたようにも思えた。
上手く笑えている自信もないけど、とにかく、この状態が少しは改善される期待を込めた。
「あたしたちは、全然大丈夫ですよ。
それより、お仕事平気ですか?
早く、行ったほうがいいですよ」
「あ、うん、ありがとう、ごめんね」
申し訳なさそうにそう答える相川さんに、韮崎さんも言った。
「俺たちのことは、気にしなくていいから早く行けよ」
「ほんっと、悪い。
瑞穂ちゃん、コイツ、冷めたく見えるけど、イイヤツだし。
会話は弾まないかもしれないけど」
「……いいから。行けって」
「じゃ、ゴメンね。
電話するから!」
相川さんはそう言って、じゃあねと言う意味であたしの手をぎゅっと両手で握ってから、早足に行ってしまった。
突然来た嵐がその痕跡だけを残して、瞬く間に去って行ったようだ。
急に二人取り残されて、気が抜けたみたいにただ立ち尽くす。
昼食時ということもあって、店柄人も多いせいか、あたしたちの前を次々と楽しそうな声が通り過ぎる。
何か、言わなくちゃ。
相川さんとのこと――。
どう説明すれば、一番こじれずベストなのか頭を働かせる。
こういう場面、前にも何度かあったはず。
いつもなら、どうにでも切り抜けられるはずで。
頭を使わなくても、勝手に零れてくる言葉はあたしに正当性を持たせるはずで。
なのに、こんなに大事なときに限って何も出てこないなんて。
頭の中も、絵筆で塗り潰したみたいに真っ白で――何も思い浮かばない。
――『ユウリ』
彼女の名前も、さっきの相川さんの言葉も、あたしの思考を邪魔してくる。
だけど、とにかく相川さんは彼氏じゃないことは、言っておかなきゃ。
それだけは……。
「韮崎さん」
頼りなく声を掛けると、見つめた横顔はこちらを向いた。
「あたし、相川さんとは――」
「いいよ」
韮崎さんの一言が、あたしの言葉に上塗りされた。
それがどういう意味でなのか、続きを待つしかないでいると、すぐに答えが返ってくる。
「別にいいよ、言わなくても――相川のこと」
「えっ……」
「お互い、そういう関係なんだし」
見上げた顔は、冷めて見えた。
「行こうか?」
そして一言付け加えられて歩き出した背中は、あたしにはもっと冷たいモノに見えた。