11
パソコンのディスプレイに向かって、大きく息を吐いた。
デスクに肘を付いた右手の甲の上には、頬が乗ったまま。
この似たようなポーズで同じように溜め息を吐くのは、販売促進部に来て何度か数えきれないと思う。
時計をちらりと確認すると、その前に見たときと5分しか違わなかった。
始業してからまだ30分しか経っていないらしい。
異動してからというもの、午前中は販売促進部、午後は経理部に戻って引き継ぎをしている。
昼食後に、菜奈と一緒に経理部に戻れるのは、正直気が楽だった。
経理部にいたときは、あの細かい作業にイライラして如何に手を抜いてやるかをモットーにしてきたけれど、覚えないといけないことは山ほどあるとはいえど、やることさえ未だに見出せないで時間を持て余すだけの販売促進部に比べたら、天国のようにも思える。
何でこんな部に来ちゃったんだろうな……。
「葉山さん」
ディスプレイを睨みながら、続けざまにまた溜め息を吐き出したところで、声を掛けられて顔を上げた。
そこには人懐っこそうな小太りの男の人が立っていた。
ええと。
確かこの人は……。
「何でしょう? 菊池さん」
ほんの少し首を傾げ笑顔で答えると、菊池さんは更に近づいてきてデスクに手を掛けた。
にやけた顔付きは、如何にも下心がありそうだ。
「今日やる主任と葉山さんの歓迎会、19時から雫っていうお店なんだけど、分かる?」
「いえ、分からないですけど……」
「東口の方なんだけど。
じゃ、一緒に行こうか?
経理部の方が終わるの待ってるからさぁ」
まさか、アンタと二人でとは言わないよね?
「わぁ! すみませーん、お願いしますぅ。
あたし、そうやってワイワイ皆で歩くのって結構好きなんですー」
顔の前で両手を合わせてにっこり笑ってやった。
わざと距離を置くように、皆で、と確認させておく。
だけど、その上での可愛い仕草は外せない。
ウザいけど、案外こういう男は役に立つこともあるし、媚を売っておくことは大切。
特に、敵の多いこの販売促進部じゃあ、ね。
予想通り菊池さんは「そうなんだ」と残念そうに少し口元を緩ませてから、じゃあ後でとすぐに仕事に戻っていった。
いなくなった途端、あたしもさっとデスクに向き直る。
歓迎会、かぁ。
全っ然、行きたくない。
自分の席のずっと向こう。窓側の明るい席に座る韮崎さんを、ディスプレイの上からそっと盗み見た。
受話器を耳元に当て、何か喋っている。
――電話中。
相変わらず、忙しいみたいで。
相変わらず、あたしのことも放置プレイ。
週末だっていうのに、誘いもない。
あれから、会社以外でだって、メールのひとつさえよこさない。
今日は歓迎会があるんだから、余計に期待なんて出来ないし……。
普通、ああいう後は男から誘うモノでしょ?
ここまで放置されてると、こっちから折れて誘うのが悔しすぎる。
仕事だって、この状態でどうしろって言うのよ。
何も分からないままで。
何で放っておくのよ!
また溜め息を吐き出したい気分なのを抑えて、キッと睨んでやってから視線を下ろした。
ホント、何やってんのかな……あたし……。
仕事のことは――いっそのこと、石田さんにどうしたらいいか相談しようかな……。
そんな考えが頭を掠めたけど、振り払うように、ぶんぶんと首を振った。
駄目!
それじゃあ、あの人の思う壺じゃん!
やっぱりって、何も出来ないだろ、ってそう思われるのは嫌!
見下げられるのなんて、まっぴらごめん。
韮崎さんにも、連れてきたのに役に立たないって思われたら――。
それだけじゃない。
彼があたしを連れて来たんだから、あたしが何も出来なければ、彼の評判も落ちる。
……じゃあ、あたしに何が出来る?
何も教わっていないのに?
仕方無しに画面の中のもう見たはずのファイルを開こうと、マウスに手を添えたところだった。
デスクの上の電話が鳴り出す。
外線だ。
「TWフード、販売促進部です」
誰も見ていないのに電話の前でよそいきの声と一緒につい笑顔になってしまうのは、もう癖と言ってもいい。
手が空いているあたしは、ここ数日ですっかり販売促進部の電話番と言ってもいいくらい取り次ぎに慣れてしまった。
韮崎さんにも何度繋いだことか。
だけど、その度に一言返ってくるだけの返事が、余計に彼との間の壁を感じさせられる。
内心、韮崎さん宛てじゃないといいと思っていると、受話器の向こう側でガラガラの掠れた声が言った。
『お世話になっております。M&Sの佐藤と申しますけど』
随分しわがれたオジサンっぽい声だな、と思うと「葉山さんはいらっしゃいますか?」と続けられた言葉に、反射的にビッと背筋が伸びた。
M&Sって……例の、調査会社のはずだ。
「はい、私が葉山です。お世話になっております」
『こちらこそ、今回はお世話になります。
つい今、韮崎さんと少しお話したんですが。
今回のご担当者が、葉山さんだと伺って、挨拶だけでもと思いまして』
「あ、はい。よろしくお願いします。
わざわざお電話ありがとうございます」
『いえ。こちらこそ、お忙しい中、応対して頂い――っ……』
言葉が絡んで途切れたかと思うと、ゴホゴホと、乾いた咳の音が聞こえてくる。
しわがれた声は、風邪か何かのせいなのかもしれない。
かなり苦しそうなその音が治まってから声を掛けた。
「大丈夫ですか?
風邪、ですか?」
『……すみません。打ち合わせまでには良くなってると思いますので。
あ、まだ聞いてないですよね? つい今、韮崎さんと決めたばかりで。
月曜日の11時にそちらに伺います』
「あ、はい。月曜日、ですね?」
ようやく、始動するのか。
――だけど……あたし、何にも分かってない。
「あの……」
『はい?』
ガラガラの濁声が返ってくる。
あたしは、訊き出そうとした言葉を、やっぱりそこで取りやめた。
そして、代わりの社交辞令を連ねた。
「いえ。
至らない点が多々あるかと思いますが、ご指導よろしくお願いします。
月曜日、お待ちしてます。
風邪、早く良くなるといいですね。お身体、お大事にして下さい」
『………』
だけどすぐに佐藤さんからは返事が返って来ず、何か考えているように数秒の間が空いた。
『葉山さん』
「はい」
『月曜日までに、あなたのやれることをやって下さい』
「えっ……?」
やれること?
何? それ……。
『出来ますよね?』
念を押したかのような言葉に、何も出来ていないと言われたように感じて、カチンときた。
確かに、何も出来ていないけど。
だけどちょっと失礼じゃないの? その言い方。
仕事の話どころか、会った事も話したこともないのに。
「出来ます」
悔しさから、そう口走っていた。
確信なんかないくせに。
何をやるかも分かってないくせに。
強い口調で言ったのに対し、今度はガラガラ声は柔らかく言った。
『では、風邪が治ってお会いできるのを、楽しみにしています』
はぁ? 楽しみ?
それも嫌味?
あたしは、唇を少し攣らせながら引き上げた。
「私も楽しみにしています」
穏やかなトーンで言ったのに、嫌みを返したことに気付いたのか、電話越しにふっと笑う声が聞こえた。
『では、失礼します』
電話はそこで切れた。
あたしが「失礼します」と言わないまま、一方的に。
一応は、こっちがクライアントだというのに。
電子音を連ならせる受話器を耳元から外して、乱雑に元の位置に戻した。
ホントに失礼なオヤジだ。
悔しい。
ううん。
佐藤さんだけじゃない。
石田さんにも、部の人たちにも。韮崎さんにも。
何も出来ないと思われるなんて、嫌だ。
――『あなたのやれることをやって下さい』
あたしの。
何が、やれる……?
確かに、何も教えてくれないと、自分から探そうとはしなかった。
ヒントは与えられていたのに。
ただ待っているだけで。
もうあたしは販売促進部の人間で、どうやったら売り上げが伸びるのか考える立場だ。
それに、今回のプロジェクトの一応は責任者。
それなのに、自分から何もやろうとしないなんて。
――これじゃあ、駄目に決まってる。
韮崎さんに認められるどころか、皆に蔑まれた目で見られたって文句なんか言えやしない。
店舗の調査――渡された今迄の資料。
売り上げから、何が分かるのか……。
あたしはディスプレイを見つめ直した。
デスクの上の電話が鳴って、ハッとした。
そういえば、M&Sの佐藤さんからの電話の後、一度も電話に出ていないと思った。
販売促進部に来てから、こんな風に集中していたのは初めてだから。
どれくらいの時間が経っているのかも感覚がない。
すぐに誰かが取る外線とは違って、デスクの上では繰り返しオレンジ色のランプが点滅し、呼び出し音が鳴っている。
内線? あたし宛てに?
何だろ。誰……?
不審に思いながら受話器を上げた。
「販売促進部の葉山です」
――て。アレ?
電話の反応がない。
まさか、イタズラ電話ってことはないだろうし。
内線なのに?
「もしもし?」
『俺』
――え。
心臓が、高鳴る。
声だけで、分かる。
韮崎さんの席の方へ慌てて視線をやると、そこに彼の姿はない。
慌ただしく皆仕事をしていて、電話中の声や、コール音、キーボードを打つ音がそこら中から上がっているのに、受話器の向こう側は随分と静かだ。
どこからかけてきてるの?
『仕事、集中してたみたいだね』
「えっ? あ、はい」
……気に掛けてくれてたの?
ずっと無視してたクセに……。
『もう、お昼になるよ』
「えっ? ホントですか?」
答えながら時計に目をやると、12時2分前だった。
「ホント。もうそんな時間だったんですね」
『下で待ってるよ』
「え?」
『ロビーで。
彼氏が待ってるんだから、早く来れば?』
ドキン、とした。
嘘……!
信じられない!
『彼氏』なんて、言ってくれるなんて。
そんな風に認めたの、初めてじゃん!
社内で、話し掛けてくるのも。電話も。誘ってくれるのも!
それだけで、浮き足立つくらい、気持ちが大きく膨らむ。
「今! すぐに行きますっ!」
電話を切ると、急いで菜奈とミカにメールをした。
『ゴメン。韮崎さんとお昼食べる』と一言。
送信すると、時計はちょうど12時を切ってくれて。
バッグを引っ掴んで、年甲斐もなく走った。
――いっけない、口紅、塗り直してない。
廊下を駆けながら、ふと思う。
仕事をしながらコーヒーを飲んだから、落ちてるかもしれない。
オトコは待たせるのが当たり前で。
完璧な状態でしか見せなくて。
こんな風に、メイクよりも待たせたら悪いなんて、走ったことなんてなくて。
今迄は演技で、待ち合わせ場所寸前に如何にも急いで来たみたいに、息を切って小走りはしたけど。そのほうが、断然好感度が上がるから。
だけど――……。
そっか。
そういうこと――か。
待たせるのが、悪い気持ちもあるけど。
それよりも――きっと。
自分が、1秒でも早く、会いたい。
だから皆、好きな人と会うときは急ぐんだ。
気持ちが――逸るんだ。
混み合うエレベーターが開くと、人垣をかき分けたいのを抑えながらロビーに出た。
いた!
見回すほどなく、すぐに目立つ姿を見つける。
ロビーの真ん中に置かれたソファーの横に立った後ろ姿――だけど、分かる。
両手をパンツのポケットに突っ込んで。
でも、そんなルーズな姿も凛としている。
広い背中。
――あたしの、好きな人。
こういうの、何だかドキドキする。
呼び出されたんだし、いいんだよね? 声掛けて。
どんな顔、してくれるのかな?
ココでも、笑ってくれる?
気持ちを落ち着かせるように、すうっと、息を吸い込んだ。
「韮崎さん!」
あたしの声に気が付いたようで、すぐに後ろ姿はこちら側を向いた。
だけどそれと同時に、ソファーに座っていて見えなかった人物も立ち上がって、あたしの方を向く。
「瑞穂ちゃん!」
――嘘。
何で――。
驚きのあまり、足が止まった。
その場で動かなくなってしまったあたしの代わりに、相川さんが駆け寄ってくる。
「ゴメン、急に!
外回りで近くにちょうど来たから寄ったんだ」
目の前で満面の笑顔を浮かべて、相川さんがあたしに言う。
――や。
そうじゃなくて。
「何で……?」
相川さんの隣にゆっくりと歩いて並んだ韮崎さんを見上げた。
だけど、何ともないような顔つきで。
表情からは、何も読み取れない。
彼氏、って。待ってる、って。
それって――。
「あ、ゴメン、韮崎使って呼び出しちゃって。
韮崎はさ、大学からの友人なんだ」
えっ?
相川さんの言葉に反応して、そちらに視線が引き戻される。
思わず、裏返った声まで上がった。
「友達!?」
「うん、友達。
瑞穂ちゃんの会社に今月から出向するって聞いてたから、もういるのかなって思って電話したらさ、同じ部署だっていうからさ。
いや、マジで驚いたな」
驚いたな、って――それはあたしのセリフ!
嘘でしょ? ありえないでしょ?
ちょっと待ってよ!
唖然としていると、相川さんはニコニコしたまま続ける。
「プール熱で仕事休んでたから、ちょっとここんとこ追い込んで仕事してて、なかなか連絡取れなくて。
何回かは電話したんだけど、瑞穂ちゃんも忙しかった?
携帯、通じなくて心配してたんだ」
「それは――……」
着信拒否にしてたから。
……なんて、言えるはずもない。
韮崎さんと相川さんが友達だなんて、考えつくわけなかった。
どう説明すれば……。
考えを巡らせていると、あたしの気を知る由もない相川さんが笑顔を浮かべて、さっきから一言も言葉を発しない韮崎さんに言った。
「韮崎には、ちゃんと紹介したかったんだ。
葉山瑞穂さん――俺の、彼女」