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「こっちが全体の物。で、こっちは地区別。
あなたはレストラン店舗の方の担当だから、これは必ず覚えてね」
ドン、と。あたしのために新たに用意されたデスクの上へ、雑に資料のファイルが積まれた。
今にも崩れそうな多さなのに、上手く置くことが出来るのは、このくらいの量の資料を扱うことの慣れからなのか。
「ありがとうございます」
今どきファイルで資料を渡すなんて随分アナログだな、と思いつつ、取りあえず笑顔でお礼を述べた。
昨日あたしにお茶を引っかけた石田さんは、やれるもんならやってみろとでも言うような皮肉な笑みを浮かべる。
「それに、こっち。全部チェックしておいて。
ファイル名見れば大体予想つくでしょ?」
アナログなんて思ったのも束の間。
石田さんは、ファイルが積まれた奥に置かれたPCの画面の中から、わざわざフォルダを開いてくれて、膨大な資料の多さを教えてくれた。
全部チェック?
大体って、適当な……!
そう思ってもコイツには、最初から分かりませんなんて弱音は言いたくない。
「分かりました」
もう一度にっこり微笑んで見せると、鼻で笑った音が聞こえてきそうなほど、石田さんは引き攣った笑顔を見せた。
「分からないことは訊いてね。
あとは、直々に主任が教えてくれるとは思いますけど。
私も、新しいプロジェクトのことは殆ど伺ってないし」
そう。
昨日言われた、店舗のサービス調査の導入は、初めてのことらしい。
そのプロジェクトの発端者も中心も、勿論、韮崎さんで。
担当者に、あたし――と、いうか。
あたしがプロジェクトリーダー……という立場になって動くらしい。
そして、補佐には石田さん。
どうやら、こんな少人数で進めること自体稀で。
その上、営業のことは右も左も分からないあたしがリーダーで。
ベテランに近い立場の石田さんが、あたしの補佐なんて、皆の反感を買うのは尤もだと思う。
彼女のプライドは、ボロボロだろう。
――なのに。
ウチにきたばかりの韮崎さんは、他のことでも忙しいらしくて、こんなところにいきなり連れてこられたってのに、あたしのことは丸無視状態。
二つの部署を行き来して、相手をする暇さえないのは分からなくもないけれど、ちょっとくらい声を掛けてくれてもいいのに。
同じ部署内にいても、目さえ合っていない。一度も。
昨日はあんなに燃え上がったのに。
朝までの優しさも、嘘のよう。
本当に、全く。
確かに、二人の関係がバレたらマズイけど。
しかも、彼には、婚約者もいるわけだし。
相手は『社長の娘』らしいし。
それは――理解、してる。
それを承知で言ったんだから。
卑怯な真似だけはしたくない。
立場を、関係を、壊してしまうようなことは。
「で。販売促進部って、何やってんの?」
実はあたしが問い質したいことを、ミカが口に出した。
返答に頭を巡らせている間に、ミカは目の前で焼き鮭をほぐす。
今日も社員食堂は賑わっていて、そこらじゅうから飛んでくる話し声がうるさい。
「さあ?
あたしもよく分かんない」
首を傾げると、今度は隣に座る菜奈が訊いてくる。
「瑞穂はもう、新しい、その――プロジェクトのほう、やってるの?」
「ううん」
「ええ?
だって、今日から来てって言われたってことは、急いでるとかじゃないの?」
「まだってことは、急いでないみたい……ね」
「じゃあ、わざわざ今日からって、何のためなんだろうね?」
「あたしが訊きたいわ……」
溜め息を吐き出しながらそう言うと、菜奈もミカも怪訝な顔をした。
「じゃーさ、瑞穂、午前中は何やってたの?」
「挨拶して、データーやらなんやら渡されて。
それから、その内容をチェックしてた。めちゃくちゃ膨大な量。売り上げとか、店舗とか」
「へぇー」
感心するような声を上げる二人。
それをすぐ失望させるように、あたしは大げさに抑揚をつけて言った。
「言っとくけど、全っ然、分かんない。
だって、資料渡されただけで見といてとか言われて、それっきり何も教えてくれないで、ほっとかれたの。
一体、どーしろってのよ?
自分で自分の仕事を見つけろーみたいな。
その上、どうせ出来ないだろみたいな、蔑まれた目で見られてさー」
二人とも、思ったとおり不思議そうな顔をする。
「だって、韮崎さんは?」
「それがさー、恐ろしく忙しいみたいだけど、声掛け以前に目さえ合ってない」
「ええっ!? 何で!?」
「あたしが訊きたいわよ……。
もー、信じられない……。
昨日はあんなエッチしてきて、朝だって優しかったのに」
一応は社食内ってことを考慮して、そこだけ声のトーンを抑えて言った。
菜奈とミカは、驚きのあまりか、ワンテンポ遅れて大きな声を上げた。
「ちょっ……! 何!?
聞いてないし!!」
「言ってないし。
昨日のコトだもん」
「あっ」
急にミカが、視線をあたしの向こう側にやって、何かを見つけたような声を出した。
「瑞穂! 噂をすれば、韮崎さん」
「え」
即座に、ミカの視線の方へと振り向いた。
丁度、定食の小鉢を全部取り終えたのか、トレーを持った韮崎さんが、配膳カウンターの前でこちらを向いたところだった。
隣にいる男の人と何か話しているけれど、あれは――。
「韮崎さんの隣にいる人って、業務管理部の荒井さんじゃん」
菜奈が、カウンターからあたしの方へと視線を戻して言った。
荒井さんには、結構前にしつこく言い寄られたことがあった。
上手くかわしたつもりだけど。
基本的には、あたしは社内の男とは付き合わないし、関係も持たない。
後で面倒なことになるのが嫌だし。
例外は二つ程あったけど。
まぁ、彼は……それ以前に、タイプじゃないの一言に尽きる。
「あ。こっち来るじゃん。
声、掛ければ?」
「――うん」
そうは答えたけど。
荒井さんと一緒じゃあ、声掛けにくいなぁ。
それに、こんな目立つところで声掛けたら迷惑かな。
でも、同じ部なんだから、それくらいはいいのかな。
挨拶するくらい、普通だよね?
悩んでいると、ふと、韮崎さんはこちらを向いた。
ばちりと視線が合わさる。
――あ。
気が付いた!
あたしは即座に笑顔を傾けた。
なのに。
すぐに視線は外された。
――え?
まるで存在が目に入らなかったように、韮崎さんは横を通り過ぎて行く。
隣の荒井さんも、あたしがいることに気付いていないようで、文字通りの素通りだ。
絶対、目――合ったのに。
姿を視線で追うことも出来なくて、テーブルに向き直る。
手に持ったままの箸をぎゅっと握り締めた。
「ね……今、韮崎さん、こっち見たよね?」
目が合ったのは勘違いではないとでも証明するように、ミカがテーブルから身を乗り出して、小声でそう言った。
「見た……」
菜奈もちらりとこちらを見て頷く。
「……て。アレって酷くない?」
「うん。あそこまで何で無視できるかな……」
「同じ社内で、しかも部下に手ぇ出しておいて、アレ?」
「しかも、昨日でしょっ? 信じらんないっ」
「何か、馬鹿にしてない?」
「ちょっと、瑞穂、何か言ったほうがいいよ。
都合良すぎでしょ」
あたしが言葉さえ失っているのを見て、ミカと菜奈は次々と小声で口を揃えた。
まるであたしの気持ちを代弁するかのように。
ホントに――そう。
あたしだって、そう思う。
アレはないでしょ?
ちょっと酷過ぎない?
いくら――愛人でいいって言ったからって。
「いいの」
だけど、口から出たのは気持ちとは裏腹な言葉。
二人の悪態は、ピタリとあたしの一言で止まった。
「アレは――しょうがないよ。
社内では、わざとああいうキャラ通すみたいだし。
モテるの分かってて、前にそういうのが多くて大変だったみたいで。
だから、女子社員が自分に近づき過ぎないようにしたいって、女の子とは接したくないみたいなこと言ってた。
ほら、仕事中以外に、あたしにだけ話しかけるのも変だし。バレたらヤバいし」
驚いたように視線を固めたままの二人に、あたしはにっこりと笑顔を作ってそう言った。
本心なんかじゃ、ない。
だけど、そうであって欲しいこと。
「だって、さっきだって、瑞穂――」
「やめて」
思わず、笑顔が崩れた。
菜奈とミカがあたしの味方で、あたしのことを想ってくれて言ってるのは分かる。
だけど、二人に同調されると、余計にみじめになる。
あたしの存在が、韮崎さんにとってそんなモノだって、どう思われてもいい程度だって、そう言われているみたいで。
だけど、それ以上に、彼のことを悪く言って欲しくないし、そう思って欲しくない。
庇うなんて――その程度の女でもいいって、認めてるみたいなのに。
それなのに。
あたしは、笑顔を作り直す。
「ちゃんと分かってるから、いいの。
それでも午前中、目さえ合わなかったのが、なんとなく寂しくて愚痴っただけ」
そう言うと、さっきから殆ど手をつけていないA定食のご飯を口に運び出した。
ただでさえ美味しくないのに、もう、味なんて感じない。
まるで粘土でも食べているみたい。
ぼそぼそとしたものが喉を詰まらせるように通り過ぎて、苦しい。
朝食べた、喉元を滑り落ちていくような濃厚な卵とは大違いで――躍起になって、その感触を思い出そうとした。
無言で、目の前のモノを飲み込みながら。
全く話し掛けてくれないのも――忙しいだけ。
うん、忙しいだけ。
韮崎さんが、あたしのことを買ってくれたんだもん。
放っておくはずないし。
そう、自分に言い聞かせたのに。
販売促進部では、一人放置されたまま資料を見つめる時間を過ごして。
その変わらない状態は、週末まで続いた。