09
『―――』
頭の中を、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜるような声が響いた。
忘れたくても、忘れられない、声。
……やめて。
追い打ちをかけるように、二度三度とまた繰り返される言葉。
それが内側を揺さぶり、こだましながら痛めつけてくる。
やめて!
やめて!
やめて!
「やめてよっ!!」
今度は自分の声が響いた。
発したその声の大きさと、体を震動するような衝撃に驚いて、夢の中から引き摺り戻された。
勢いよく開いた目に映り込んだのは、見慣れたものとは異なるコンクリートの天井。
高い場所で回る、白いシーリングファン。
差し込んでくる柔らかい陽の光が、きらきらと空気中を舞っている。
芳ばしいコーヒーの香りが、鼻を掠めた。
――あれ……あたし……。
そうだ。
ココは韮崎さんのウチだった!
「大丈夫?」
目に映っていたものを全て遮るように、韮崎さんが間近で覗き込んできた。
「えっ? あっ……」
……て! ヤバい!
あたし、メイク……!
咄嗟に布団を被って、顔を隠した。
だけど、メイクは落としていないことを思い出す。
そうだ。
あのまま寝ちゃったんだ。
三度も崩されて。
疲れ果てて、痺れに意識が飛んで、寝入ったことすら覚えていない。
――あれから。
玄関で……の、後。
ベッドに流れた。
いつもだったら――まるで見下ろしているように、どこか醒めた自分があって。
理性が負けることもなくて。
だけど昨日は、自分の中の余裕なんて欠片さえ残っていなくて。
頭が真っ白になって、我を忘れて、ただ彼を感じた。
肌を合わせることが、あんなにも甘い行為だったなんて。
めちゃくちゃな自分が、恥ずかしいくらい。
怖いくらい、本能だけで求めて。
そして、溺れた。
こんなの――本当に、今迄感じたことなかった。
ひとつに重なる幸福感。
思い出される彼の熱に、また侵されるように胸がじんとする。
「変な夢でも見た?」
布団の上から、韮崎さんの優しい声がする。
「……はい。
でも、大丈夫、です」
「じゃ、顔見せて」
「えっ!? 今、駄目です!
見ないで下さいっ」
「何で?」
「だって寝起きだし。
顔……ボロボロだから、見られたくない」
いつもなら早く起きて、シャワーを浴びて、メイクをして、相手が起きるのを待つくらいの余裕を持つのに。
昨日は色んなことがありすぎた上に、韮崎さんの腕の中は極上のビロードに包まれたみたいに気持ち良くて安心して――深く眠り過ぎた。
だから、危険を察知するみたいに、あんな夢見たんだ。
それに、この間の――あの時の病人があたしだと気付かれたら……。
そんなの、絶対に、ダメ!
メイク云々より、格好も髪もボロボロだったし!
普段があんな子なんて思われたくない!
すぐ近くに気配は感じるのに、何も言わない彼を不思議に思って、布団から少し覗き見る。
顔を出した瞬間、数十センチ先に韮崎さんの顔があった。
あまりの近さに驚く間もなく、額にキスが落とされる。
「別に。可愛いのに」
耳元で囁くように言われ、どきっとする。
――ホントに。
女慣れしてる。
その言葉が、女の子を安心させる言葉だって、知っている上で言っている。
分かっているのに。それでも、ときめかされてしまう。
罠に――陥る。
「シャワー浴びておいで。
朝食食べて、着替えに戻る余裕はあるから」
本当に、余裕だと思う。
それは多分――あたしに対して恋愛感情がないから。
それが、分からないはずがない。
今迄、自分がしてきたことと同じだから。
感情が入り込まなければ、いくらでも作ることなんて出来る。
相手の好みの予測を立てて、それに沿った自分を演じればいいから。
――よく、分かってる、と、思う。
あたしの、コト。
あんな軽いキスひとつで、溶かされる。
甘い言葉のかけ方も。
なのに、全ては入り込めないような壁を作る。
それ以上踏み込まないように、踏み込めないように。
多くを語らず、曖昧にかわして。
掴みどころなく、するりとすり抜けるそれさえも、上手い。
無理にこじ開けようとすれば、きっと壊れてしまう。
あたしのモノには、決してならないオトコ。
分かっているから、苦しくもなる。
だけど。
近づきたい。
――『一緒にいて、幸せだと思う気持ちと同じくらい、苦しくなるんだよ』
……うん。
甘いのに、締め付ける。
――あたしの熱病。
猫足のバスタブから上がると、赤いガラス玉が埋め込まれたシャワーのハンドルを捻った。
熱めの設定にし直す。
デザイン優先だと使用勝手が悪いのかと思っていたけれど、そんなこともないみたいだ。
ウチのユニットバスよりも、ずっとずっと快適。
目の前に映る、自分を見つめた。
どこかの高級ホテルに迷い込んだような、全身を映し出す大きな鏡。
全てを落とした顔から、次々に雫が伝って滴り落ちる。
ざわざわと不安が湧きあがってくる。
何でこんな日に、あんな夢見ちゃったんだろ……。
ずっと――見ていなかったのに。
思い出さないように、忘れられるように、奥の方に、閉じ込めたはずで。
それなのに、消えない。
消すことなんか、できない。
瞼を閉じると上を向いて、もう一度顔を洗い流した。
シャワーから出て、洗面台でメイクをして髪を整えてからリビングに戻ると、パンの焼ける香りがした。
白くて角ばったL字ソファーの前のローテーブルには、頃よく出来上がったばかりの朝食が、湯気を上げている。
コーヒーにクロワッサン、ハムエッグ、ベビーリーフのサラダ。
クロワッサンは、大きめで皮がパリっとしていて、如何にも有名なパン屋のモノって感じがする。
「韮崎さん……作ってくれたんですか?」
これって、感動かも。
自分よりも男の人が早く起きていて、朝食を用意してくれるなんて。
「うん。結構料理とか嫌いじゃないんだ。
って、言っても大したモンじゃないけど」
紺色のエプロンを着けた韮崎さんがはにかんだ。
クールなイメージが一転する。
……て。可愛いんだけど!
「いいえっ! 男の人にこんな風に作ってもらえるのって、凄く嬉しいです!
しかも、タイミング良すぎですよ!
ちょうど出てきた時に出来たてなんて。
超能力でもあるみたい」
感動したように両手を顔の前で合わせて、嬉しくてたまらない笑顔を作る。
言ったことは本心なんだけど、こうやって可愛い仕草で持ち上げることに意味が
ある。
「超能力……」
ククっと笑いだすと、韮崎さんは先に料理の並ぶテーブルの前に腰を下ろした。
「や。女の子って、これくらいの時間かかるから見計らっただけ。
座って?
食べよっか」
………。
これくらいって、見計らって……って。
良く、知ってらっしゃるってこと、ね。
一体何人、この部屋に連れ込んだんだろ。
「はい」と、微笑み返してから、あたしもすぐに席に着く。
まぁ、しょうがない。モテるのは分かってることだし。
でも今後、あたし以外の人をこの部屋に入れられるのは嫌だな……。
だけど、バスルームは、女の形跡はなかった。
何でも使って、って言ってたし、借りるのに何があるのか見たけど。
部屋の中も昨日は見る余裕なんてなかったけど、こうしてざっと見まわしただけでも、特別に気になるものもない。
――男の人の一人暮らしの部屋にしたら、かなり片付いていてスッキリしてる。
隙がない、って感じ。
逆を言えば、いつでも女の子を連れ込める。
昨日、急にあたしにしたみたいに。
そんな考えを巡らせていることをおくびにも出さないような顔つきで、丁寧に手を合わせた。
「いただきます」
「どうぞ」
コーヒーにくちづけると、ひと口で美味しいと思った。
苦味の中にコクがあって、酸味も程良い。
クロワッサンも、外はさくさくで中はしっとり。卵がたっぷり入っているみたい。
これに、このホイップバターが良く合う。パンだけで、朝からいくつもお腹に入っちゃいそうなくらい。
ハムエッグの黄身は濃い黄色で濃厚。半熟のとろとろ。
ベビーリーフもしゃきしゃきで新鮮。和風ドレッシングも上品。
どれも素材が良いせいか、凄くシンプルなのに、極上。
「すっごく、すっごく、美味しいんですけどっ」
「良かった。沢山食べてって」
「はいっ」
元気良く答えると、韮崎さんも嬉しそうな顔をする。
そして一度止めたフォークを持つ手を、再び動かし始める。
豪快で、男の人の食べ方だ。
大きな口を開けて、次々に食べ物を運ぶ。
それなのにそういう姿もサマになっているのは、徳な外見だ。
「ここって、デザイナーズマンションですよね?
カッコイイですね」
「ん。たまたまこの辺で探してたら、見つかってさ。
場所もいいし、一目見て気に入ったんだ。
結構、有名な建築士らしいよ。俺はそういうの詳しくないけど」
「お風呂も可愛かったです!
猫足のバスって女の子には憧れなんですよ。
凄く、アレ、好きです」
「俺も、アレは気に入ってるんだ」
「え! 男の人でああいうの好きって、初めて聞いたかも!」
そう言いつつ、同じ趣味で嬉しいと言わんばかりの笑顔を作って続ける。
「インテリアもカッコイイし。
全部、韮崎さんの趣味なんですか?」
白いタイル張りの床に、コンクリート打ち放しの壁。
高い天井に不規則に並ぶダウンライト。
ステンレスキッチンもお洒落。
部屋自体が確かに格好良いけれど、それにインテリアもきちんと合せてある。
ブラインドもソファーもチェストも、白で統一してあって。
その中でベッドカバーのブルーが綺麗に映えている。
「うん。こういうシンプルなのが好きで」
「そっかー。だからスッキリしてるんだ?
部屋の中とか、男の人なのに綺麗ですよねー」
「週末掃除したばっかりだから。
仕事が忙しいと、服とかその辺に散らばってたりしてるよ」
韮崎さんは、苦笑いして見せる。
「そんな韮崎さんて、どっちも想像つかないけど見てみたいなー」
あたしはからかうように言ってから、またクロワッサンを口に入れた。
ふぅん。そっか。
週末に掃除したってコトは、今、特別な女はやっぱりいないって思っていいんだよね。
婚約者は――来たことあるのかな……。
「気に入ったなら、また入りに来れば?」
「え?」
頭の片隅を働かせていたせいで、一瞬何のことかと分からなくて、韮崎さんを見た。
笑みを含んだ黒い瞳が、あたしを捉えている。
「猫足」
目の前の顔は、ニッと、意味有り気に笑った。
――コイツってば。
入るって、そーゆーコトじゃん……。
でも、また来ていいってことは、嬉しい……けど。
「はい」
両手でコーヒーカップを包みながら、小さく頷いた。
韮崎さんも満足そうに微笑むと、あたしと同じようにコーヒーカップを手にする。
「あ。そう言えば、昨日買ったデザート、食べてなかったな。
冷蔵庫に入れてあるから、後で持って帰りなよ」
カップは口に運ばず、思い出したように韮崎さんが言った。
――昨日のデザート……。
冷蔵庫に、って、一体いつ入れてくれたんだろ?
「忘れないで、入れてくれたんですか?」
「んー。きみが寝た後」
「………」
あのまま、寝なかったんだ?
あんなにしておいて。
………。
何か、悔しいな。
全然平気な韮崎さん。
あたしが溺れたように、溺れさせたい。
一緒にいて、少しずつでも――。
婚約者がいて、たとえ全てがあたしのモノにならなくても。
気持ちは、向いて欲しい。
「韮崎さん」
「ん?」
「きみ、は、嫌です」
「え?」
韮崎さんはコーヒーカップを持つ手を宙で止め、何を言われたか分からないような顔であたしを見た。
「瑞穂、って呼んで下さい。
あたしたち、一応付き合ってるんですよね?」
立ち上がる湯気の向こう側で、一瞬表情を固めた顔は、ゆっくりと微笑みを広げていった。
「いいよ、瑞穂」
うん、と。
付き合ってる、という言葉を肯定しないところが、やっぱりズルイ男だ。
だけど。
それでもいい。
昨日、幾度も触れたこの唇から発せられる、あたしの名前。
それだけで、こんなに幸せな気分になれる。
自分の名前が愛おしくさえ思える。
さっき感じた不安なんて――もう、吹き飛んでしまった。