08
夜のコンビニは、一瞬目を細めるほど煌々としている。
客も数人いて、店内にいるだけなら深夜とは思えない雰囲気だ。
何となくホッとして、小さな息を漏らした。
デザートの棚から、生クリームのたっぷり乗せられたプリン、大きめのエクレア、それに具だくさんのゼリーを次々手に取って、かごの中に入れる。
胃が、きりきりする。
あんな風に待ったのが初めてなら、待たされたのも初めてだ。
お店が閉店して。そのあと店先で30分くらい待って。
それでも来なくて。結局、電車に乗って。
そのまま家に帰る気にもなれなくて。途中のコンビニに寄った。
くやしいから、もういっこ買おうかな。
前屈みになって、棚とにらめっこをする。
秋の新作デザート。限定の、和栗のモンブラン。
薄茶のマロンクリームに、星のように散る上品な金箔。てっぺんには大きなマロングラッセ。
コンビニにしてはちょっとお高いけど、限定商品ってのに弱いんだよね。
最後のいっこみたいだし。
うん。コレにしよう。
棚に手を伸ばすと、標的は触れる前に大きな手によってパッと消えた。
指先は宙を切ったまま固まる。
「太ってくれんの?」
落ち着いたバリトン。
――何、で……?
「うん。
もうちょっと、食べて太った方がいいよ」
その声を追うように、即時に首を後ろに回す。
あたしの欲しかったケーキを持つ人物に、目を見開いた。
「何で……ココにいるんですか……?」
「何でって、家、近くだし」
「近く……?」
嘘ぉ!
あっけらかんと言う韮崎さんを、その場から茫然と見上げた。
ああ、そうだ。
考えてみたら、あの日――倒れた日。
助けてもらったのは、この近くだった。
だけど――。
ウチと、近所なの?
「こっちが驚いた。
店の前通ったら、奥の方に後ろ姿が見えて。
まさかなーって、思ったんだけど。
家、近いの?」
ケーキを手に持ったまま、苦笑いする韮崎さん。
「そう、です……。
ココから、10分くらい」
「マジで? その偶然凄いな!
いや。驚いた」
驚いたのは、あたしの方だよ!
明日会ったら、どんな顔してやろうとか。
何言ってやろうとか。
絶対、意地悪なこと言ってやるって思ってたのに。
会えたら会えたで、上手く言葉が出てこない。
こんな偶然って、あるの……?
「ゴメン。凄い、待たせたろ?
悪かったよ。番号まだ訊いてなかったし。連絡とれなくて。
気が付いた時にはもう、約束の時間は過ぎてて。
仕事、急いで終わらせようと思ったんだけど、なかなか……キリも悪くて。
こっちに来たばかりの身分で、途中で帰るわけにもいかなかったし」
仕事、終わらなかったんだ……?
「こんな、時間まで……ずっと?」
「うん。終わってソッコー店に行ったけど、もう閉店してたし。きみもいなかったし。
明日、どうやって謝ろうかと思ってた」
仕事……。
――分かる、ケド。
仕事につべこべ言う理解のない女は、嫌い。
よくある『あたしと仕事、どっちが大事?』なんて、比べること自体オカシイと思うし。
自分がそういう女にはなりたくない、って、常々思ってる。
だけど。
初めての約束で、これってちょっと酷いよね?
文句言うの、アリ?
「ずっと待ってたんだ」って、可愛く拗ねて言うのもいいのかもしれないけど。
こんな時間までずっとあの場で待ってた、って思われるのは、この人にとっては重たい気もするし。
あたし自身、そう思われるのも、何だか癪。
いつもなら、何とでも可愛く演じられるはずなのに。
なのに――悩んでしまう。どうしたら一番いいのか。
上手い立ち回りが、見つからない。
イイ女が、形無しだ。
ただ黙っていると、韮崎さんは困ったようにはにかんだ。
「怒ってる?」
「………」
「心配した?」
――また。
そんな風に聞くの、ズルい。
心配したって、言わせようとする。
言わないんだからね!
唇を引き、上目遣いをして見つめたままでいると、韮崎さんは、鼻の頭をくしゅっとさせた。
「ゴメンって。そんな顔、すんなって。
会えて、良かった」
優しく微笑まれる。
そして、大きな手が柔らかくあたしの頭を撫でた。
胸が、きゅうっとする。
それがご機嫌取りだって分かっているのに。
本心かも、分からないのに。
それなのに、どうにもならないくらい、あたしも会えて良かったという気持ちが込み上げてきてしまう。
手にかかっていた重みが消えた。
韮崎さんが、あたしの持っていたかごを奪ったから。
「ウチ、来る?」
コンビニから、徒歩7〜8分。
夜でも美しく見えるように計算されたオレンジ色のスポットライトが、三つずつ規則的に並び、白い正方形のタイルとコンクリート打ち放しの壁を照らしている。
モダンな外観の、7階建てマンション。
黒いタイルで長めにとられたエントランスは、高級感がある。
コンクリート壁のスリットから漏れてくる灯りは、スタイリッシュでいて上品。
吹き抜けのロビーも悠々していて、上まで伸びる大きなガラスの向こう側には、夜景と空が広がっている。
如何にもデザイナーズマンションといった様相で、お洒落だ。
桜新町あたりは、場所的にも便が良くて落ち着いている割には、アパートやマンションも手ごろだと思う。
だけど、ココ……それなりの値段だよね。
さすが、東和重工のエリート社員。
さっきから黙ったまま、二人の足音だけが響く。
エレベーターの入り口をくぐって、彼が5階のボタンを押した。
小さな箱はすぐに閉ざされて、上へと動き出す。
「仕事……そんなに大変だったんですか?」
歩いている間に、だいぶ気持ちも落ち着いたあたしは、ようやく口を開いた。
壁側に立つ彼を見上げると、韮崎さんはあたしの方を向いて、ふっと、苦笑いをする。
「……ん、まぁ。異動してきたばっかりだし」
「明日から……あたし、どんなことするんですか?」
「いいよ、仕事の話は」
「え」
ポーン、と。軽快な電子音が鳴った。
「今はもう、仕事じゃないだろ?」
開いたドアから先に立って歩き出す。
部屋は、エレベーターの斜め前で、そこまではほんの数歩だった。
韮崎さんは、パンツのポケットから鍵を出して、重たそうな厚みのあるドアを開くと、そこに寄り掛かるような仕草で、あたしに部屋に入るようにと促す。
「どうぞ」
「お邪魔します」
一人暮らしには勿体無いほどの玄関だと思った。
黒い御影石のタイル敷き。十分な広さ。シューズボックスも作り付けで、天井まである。
カッコイイ、な……。
後ろでドアが閉まり、かち、と、鍵のかかる音が聞こえた。
パンプスを脱ごうと、踵を上げた瞬間だった。
ぐい、と。腕が引かれて、態勢が崩れる。
だけど倒れるどころか、そのまま身体は引き寄せられ、抱き締められた。
あっと思う間もなく、彼の唇が落ちてくる。
だしぬけにされた行為に、余裕もないまま。
舌が入れ込まれ、絡められる。
手慣れた、キス。
――信じられない……
そう思いながらも、じんと、頭の芯も身体の奥も痺れた。
彼の香りが、広がる。
エキゾチックで刺激的な、グリーンノート。
甘くて、甘くて。
自分も執拗に唇と舌を合わせる。
あたしの腕を掴んでいた掌は、するりと胸元へ流れた。
「……んっ」
嫌でも、声が漏らされる。
……コイツってば……
なされるがままの身体が、壁に押し付けられた。
背中が、冷たい。
靴が脱げた、片足の裏も。
手際よくブラウスのボタンがひとつふたつと外されて、そこに唇が寄せられる。
まさか、ココで……?
確かに『愛人』でいいと言ったのはあたし。
それは、そういうことだって。
それだけの関係でもいいと言っているのも同じ。
それに、それでもいいと思っていたし。
今迄と、同じだって。
さっき菜奈に言ったばかり。
だけど……。
言葉も紡がれないまま、先へ先へと進む。
――ズルい。
ズルい。
ズルい。
そう思うのに。
もう、駄目だった。
身体の芯が熱くて。思考回路は弛む一方。
いつもなら、こんな扱いをされたら、絶対に拒むはずなのに。
『好き』の感情の強さに、翻弄されている。
込み上げてくるのは、愛しさ。
目の前のオトコが、欲しいと――。
電流のようなモノが、爪先から駆け上がる。
感じる熱は、幸せなのに、苦しい。
全てとろとろに溶けてしまいそうで。
それでいて、自分でも説明のしようのない何所かを、ぎゅっと締め付けてくる。
息苦しさの中に、甘い香りを吸い込んだ。
――エゴイスト プラチナム、だ。
あたしは、ただ突き付けられた肌の熱さに、身体を委ねるしか出来なかった。
*エゴイスト プラチナム……香水の種類の名前(シャネル)です。