07
見つめた瞳は、見開いて。
それは、驚いているようにも、呆れているようにも見えた。
黙ったまま、どちらとも外さない視線。
根負けしたかのように、彼が大きく瞬きをして、笑った。
あたしが掴む反対の手の甲を口元に当てて、くつくつと声を立て始める。
「マジで……面白いなぁ……」
目を細めてくしゃくしゃにした顔は、本気で楽しそう。
面白いとか、言うかな……。
だけど、否定しないってことは、OKってこと?
「本当に駄目ですよ……?」
少し掠れた甘い声で、もう一度決定付ける。
韮崎さんは返事をせずに、ニッと意味深に笑ってみせた。
否定も、肯定もしない。
ホント、ズルい男。
だけど。
――こういうズルさに惹かれてるのかも……。
他の男では味わえない。
握ったままの手を引き寄せて、もう片方の手も捕まえる。
いつまでも笑いの止まらない口を封じるように、あたしは唇を合わせた。
膝の上で、氷が小さな高い音を立てる。
……柔らかい。
……ほんのり、温かい。
甘い疼きと、心臓の高鳴りが入り混じる。
軽く触れただけなのに、身体中の血が全部集まったような感覚。
たかだかキスで、ドキドキするなんて、初めて。
だけど――この高揚感が、堪らなく心地良い。
「……仕事中」
咎めるように、もう笑顔もない澄ました顔で、韮崎さんはすっと立ち上がった。
それと同時に、あたしの膝の上から冷たさも消え去る。
あれ? もしかして、怒っちゃった……とか?
それとも、やっぱり駄目って、否定する?
顎を上げて、姿を視線で追うと、からかうような笑みを浮かべている。
「仕事、終わったらな」
菜奈とミカには、奇声のような声を上げられた。
呆れているとも、感心しているとも言える。
まぁ、当然だよね。
このあたしが、恋してる(しかもこの歳にして初恋)って気が付いて、その上、彼には婚約者がいて。
しかもしかも、それでもいい、って。
更に、人事部のミカだって知らなかった、唐突に決まった明日からの人事異動。
驚かなかったら、それはそれで問題。
さっき経理部に戻って、異動すると挨拶をしたときにも、予想通り皆凄い顔をした。
明日からなんて、ありえないって顔。
うん。あたしもありえない、って思うよ。
いや。
そんな強引なことが、ウチみたいな会社でOK出たことが不思議。
それだけの力が彼一人にあると、知らしめるみたいだ。
ただ、当分は引き継ぎも兼ねて、経理部にも通うことにはなっている。
その辺は、韮崎さんも承知の上での異動だ。
「やっぱ、止めたほうがいいよ」
会社から一番近いスターバックスで、席に着いた途端、菜奈が言った。
急な人事異動のための引き継ぎで、残業だったのは言うまでもない。
夕食は、仕事をしながらデスクの上でハンバーガーを食べて、軽く済ませた。
そんなこんなで、さっきまでびっちりと仕事をした。
勿論、菜奈も、とばっちりを受けて一緒に。
韮崎さんとの約束は、ココで22時。
むこうは更に忙しく、その時間くらいまでは終わらないらしい。
時間潰しのために、菜奈は約束の時間まであたしに付き合ってくれたのだ。
こんな風に、仕事が終わるまで誰かを待つなんて、初めて。
元々、待つのって嫌いだし、そういう約束は端からしない。
だけど、好きな人に「待ってて」なんて言われるのも、案外悪くないとか思う。
なんだか、初めてする中学生のデートみたいで、わくわくする。
そんな嬉々としたあたしとは違って、菜奈の顔付きはさっきからずっと険しい。
甘いモノ大好きな菜奈のために、カスタムで多めにしてもらった生クリームが、カップの上にこんもり乗っていて、気になって目を落とす。
菜奈が言いたいことの予想はついていて。
だから半分は聞きたくなくて、視線をそこに固定したまま返す。
「何が?」
「分かってるクセに。
韮崎さんのこと。
瑞穂が本気で人を好きになったのは嬉しいけど。
こんなことなら、話は別。
婚約者いるんだったら、止めなよ」
ほら、やっぱり。ね。
「ヤダ」
「ヤダって……。瑞穂らしくない」
「あたしらしいって何?」
「瑞穂は、自分に興味を持ってる人じゃないと、付き合わないでしょ?」
「うん」
――そう、今迄は。
いくら自分のタイプでも、あたしに目もくれないようなオトコは願い下げ。
餌を撒いたら、それに喰いついてこないと駄目。
だって、自分に興味のないオトコなんて疲れるもん。
だけど、今は――。
「好きになっちゃったんだもん」
菜奈の目を見て答えると、緑色のストローを咥えて中身を吸い込んだ。
苦いのに、甘い。
コーヒーの苦みの中に、バニラとキャラメルが甘さを広げる。
冷たくて、優しくて。
ホントはどっちなのか、分からない。
何を考えているのかも……。
「うん。コレみたい。
そういう男なんだよ」
そう答えながら、半分なくなったアイスカフェアメリカーノを指差す。
「ワケ分かんない……」
「うん。いいの。それで」
「瑞穂が泣いても知らないよ」
「泣かないしー」
おどけて見せると、菜奈は小さく溜め息を吐いた。
菜奈のスターバックスラテは、カップの表面が小さな水滴の粒で綺麗に埋め尽くされている。
口を付ける様子は一向にないらしい。
「いくら想っても、彼にはちゃんと他の女の人がいるんだよ?
瑞穂のモノにはならないんだよ?」
「あたしがいいんだから、いいの。一緒にいられれば。
だってさぁ、どうせ、今迄だって心がないだけで、やることは同じなんだもん。
だから、平気」
「……もう……」
菜奈は呆れるというよりは怒ったような顔で、テーブルの上で指を組み、もう一度ゆっくりと息を吐き出す。
「瑞穂」
「何?」
「同じじゃないよ」
「は?」
「気持ちがあるのとないのとじゃ、全然違うよ。
言葉だけじゃ足りなくて、言い表せない気持ちを伝え合うんだよ。
片方だけじゃ、駄目なんだよ。
一緒にいて、幸せだと思う気持ちと同じくらい、苦しくなるんだよ」
菜奈のカップから、大きく膨らんだ水滴が、とうとうテーブルの上に流れ落ちた。
――遅いなぁ……
ガラス越しに通り過ぎる人々を、頬杖をついて、ただぼんやりと眺める。
疲れた顔のサラリーマン。崩れたメイクのOL。
皆、どことなく早足。
少しでも早く、家に帰りたいのだろう。
ひとりになってからもうかなり時間が経っている。
二杯目のスターバックスラテの中味はとうに空。
菜奈も、そのコーヒーを注文する前には帰ってしまった。韮崎さんが来るのに、一緒にいたらまずいからって。
浮かれていた気分は、徐々に重たいモノに変わっていった。
こんなに誰かを待つことが楽しくて。
そして辛いものなんて。
菜奈に言われた言葉が、じりじりと思い返される。
吐き出したい溜め息を飲み込み、掌の上から載せていた頬を外すと、顔の前で手を合わせた。
クロスさせた指先を、意味もなく見つめる。
店内に流れている音楽が変わった。
閉店の音楽。
――もうそんな時間?
携帯電話のサブディスプレイに目を落とすと、23時近くになっている。
「……嘘……」
思わず、声が漏れた。
もしかして……。
コレって、待ちぼうけ、ってヤツ?
あの時、一応は仕事中だったし。
携帯も、経理部のほうに置いてきちゃったから、番号も、メールアドレスも交換できなかった。
後で、って。
だけど、約束したのに。
向こうから、仕事が終わったらって言ってきたのに。
ズキン、と。胸が痛んだ。
小さく溜め息を零して、立ち上がった。
空になったカップの載るトレーを、カウンターにのろのろと返しながら考える。
こんな時間だから、もう待ってないだろ、とか思って、家に帰っちゃったのかも。
店を出る。
それでも、足は店先で止まってしまう。
まだ、会社かもしれないし……。
通り過ぎる人が、目の端に映る。
ついさっきよりも、人の数は目に見えて減った。
何だか、泣きたい気分に駆られる。
慣れない、感情の波。
……何、やってんのかなぁ、あたし……。
だから、恋愛なんて、ヤなんだ。
こんな感情持つの、ヤダ。もう、ヤダ。
それなのに、待ちたいって気持ちが残っているのは、何でなんだろう。