06
モノには順序ってのがあって、百歩譲っても、いきなりそんなこと言わないでしょ!?
何を考えてるのよ!?
信じらんないっ!
訝しく見ると、彼は眉間に皺を寄せた。
「分からない?
部の異動してくれって言ってんの」
理解してんのかとでも、逆に言いたげな顔。
ホント、何なのよ!?
怒鳴ってやりたいくらいの衝動を、どうにか堪える。
ここで驚いてたら、コイツの思うつぼじゃない。
あたしは、さも余裕があるように笑顔を作り、嫌みもこめて訊き直した。
「あたしは経理部ですよ?
普通に考えるとおかしいですよね?
言ってる意味、分かってます?」
怒って、歪んだ顔をみせればいい。
だけど、反論するあたしの顔を見て、彼はクッと笑った。
――あれ?
ドキッと、した。
社内で笑った顔を見るのは、コレが初めてだ。
額をぶつけて見合わせたときのような、楽しそうな顔。
……怒るかと、思ったのに。
こんなの、ズルイ。
不意打ちの笑顔。
「つーか、予想通りの反応かな?
結構、気ぃ強いだろ?」
………は?
また……っ。余計ワケ分かんないことを!
ドキッとさせられたあたしは、大バカ!
「ソレ、関係あります?」
「気が強いのは関係ないね」
「じゃあ、何で、ですか?
きちんと理由を言って下さい」
「可愛くて、スタイルいいから」
――はぁっ?
今度は拍子抜けするような、即答。
……ちょー……なん、て……?
可愛い?
スタイルいい?
治まっていたはずの動悸が急にまた跳ね出す。
――熱も。
説明しようのない感情も、一緒にせり上がる。
こんなの。オトコに言われ慣れてる。
『可愛い』なんて、日常茶飯事。
それなのに、コイツの唇から発せられたかと思うと、もう、どうにもならない程、身体が熱い。
本当に、あたしは――変。
分かってる。
こんなときに、こんな感情持つことがオカシイのは。
大体、その理由だけじゃ、説明が付かないじゃない!
それとも、こうやってからかって楽しんでるの?
ますます、意味、分かんない……っ!
たったそれだけの言葉で掻き乱されていることを悟られたくなくて、あたしは極めて平静を装う努力をする。
唇を引き、膝の上の手を握り締めて、彼の目をきっちりと睨み上げた。
「どういう経緯でそういった話になっているのか。
どうして、あたしがこの部に必要なのか、言って下さい」
ふっ、と。柔かい顔をしたかと思うと、急に真剣な顔つきに変わった。
髪と同じ色の黒い濡れたような瞳が、あたしを真っ直ぐに見た。
「きみ、覆面調査員って知ってる?」
「え?」
「調査員が、お客になりすまして、店舗のサービスを調査するってヤツ」
だから! それじゃあ意味分かんないってば!
どうして、と、本当は続けたい意に反して、癪だと思いつつ訊かれたことに答える。
「テレビの特集で見たことあります。
主婦とかがお客の観点から視る……っていうのですよね?」
「うん。それをね、今度ウチにも導入しようと思って」
「もしかして……、調査をあたしにやれって言うんですか!?」
「その手もあったか」と、彼はまたククッと笑った。
「いや。そっちの会社で、今、凄く伸びているベンチャーがあるんだ。
社長はかなりやり手だ。調査員の質もいい。ここ数年の実績もある」
唇の端をまたぐっと上げたかと思うと、今度は瞳の色が変わった。
切れ長の目が大きく開き、まるであたしを捉えるように見た。
そんな熱のある瞳に、また、どきっとさせられる。
「売り上げを伸ばす条件は、商品の質やハード面だけじゃない。
俺は、サービスのソフト面にかかってると思ってる。
全く同じモノを買うなら、消費者はよりサービスの良い方を選ぶ。
そう思わないか?
だが、頭の固い上層部、ってのは、古い体制やしきたりを変えたがらないんだ。
根本から変えていくには、信用と実績が必要だ。
確実に変わるという証明をしてからじゃないと、動けない。
俺は、この会社の業績改善のために来た。
ソフト面の強化によってどれだけ変わるのか、証明しに、な」
力強い瞳で、あたしに熱弁を振るう。
朝も。ついさっきだって。あんなに冷たい瞳だったのに。
経理部のあたしには、全く関係のない話――。
「でも、あたしは――」
「店舗側からしたら、結構そういうの嫌がるんだよ。調査とか。
特に直営じゃない店舗は、フランチャイズっていう意識よりも、プライドが働く。
運営側から言われるのは嫌いなんだ。現場は違う、ってね。
だから、そういう緩和面をきみに手伝って欲しいと思ってる」
「緩和面……ですか?」
緩和面……緩和面……。
それって、もしかして……。
いや、まさか……。
まさか、まさか……。
「苦情係でもやれってことですか?」
「ちょっと違うけど。まぁ、似たようなモンかな?
フィードバックや店舗改善の考案提示の際に、きみもいて欲しいってこと。
可愛い女の子の方が、オヤジ連中は甘いから」
……何!?
何よ、それ……。
ホステスみたいな接待をしろって、そういうこと?
コイツ……人のこと、馬鹿にしてんの?
「……言ってる意味、分かってます?
それ、セクハラにもパワハラにも当たりますよ?
それに、可愛い女の子がいたからって、それが仕事に影響するとも思えません」
唇を噛み締めたいのを我慢して、逆に引き上げてにっこりと笑ってみせる。
コイツ――本当に何なの?
本当の顔はどれ?
あたしの嫌味をあたかも楽しむように、彼はまた、ふ、と、笑った。
「ただ可愛ければ誰でもいいなんて思ってないよ」
「――は?」
眉根を寄せて、睨むように目の前の顔を見つめる。
「ただ、頭の良い子じゃ駄目なんだよ。可愛いだけでも駄目だ。
オトコを狂わせるくらいの妖艶さ――。
それに、馬鹿な振りも、頭の良い振りも出来る子じゃないとね」
――なっ……!
もしかして、コイツ――初日のことも、分かって――?
「きみだから、出来ると思ってる。
きみが、必要だ」
大きな鼓動が胸を打った。
笑みを含んだ瞳から、それはまた真剣なモノに変わっていて、あたしを射貫く。
真っ直ぐに。曇りさえ、ない。
吸いこまれたように、瞳が逸らせない。
瞳だけじゃない。
心も掴まれたみたいに。
強引に、引きずりこまれる。
あたしだから、出来る……?
奪われた視線を引き戻すように、急にドアをノックする音が入り込んだ。
「失礼します」
ハッ、と。音の方を向くと、さっきの女子社員がお盆に湯呑を二つ乗せて入ってきた。
いかにも不機嫌な顔。
感情が透けて見えるほど。
装う、ってコトが出来ないのか。
コツコツと立てられるヒールの音さえ、苛立った雰囲気を増長させている。
彼女はテーブルの前で立ち止まると、軽い一礼をしてから、そっと韮崎さんの前に湯呑を差し出す。
そして、あたしにも――
と、思ったところで、湯のみがこちら向きで倒れた。
勢いよくそこから緑色の波紋が広がる。
避ける間もないまま、あたしのスカートの上に熱いお茶が滴り落ちてきた。
「……っつ!」
咄嗟に立ち上がったけれど、スカートにも足にも、ばっちりとお茶がかかった。
沸騰したばかりのお湯でないとはいえ、淹れたてのお茶はそれなりに熱い。
火傷とまではいかなくても、太ももがじんじんとする。
――コイツ!
「すみませんっ! 大丈夫ですか!?」
慌てたように、お盆の上に載せられていたお手拭きが、彼女の手から差し出された。
だけど、してやったりとでも言うように口元が緩んだのを、あたしが見逃すわけがない。
大体、こんなイジワルするなんて、大したことない女。
余程、自分に自信がないのね?
もっと、正々堂々としなさいよ。
「大丈夫か?」
驚いて立ち上がった韮崎さんも、急いでテーブルを回り込み、あたしの前へと来て心配そうな顔を見せる。
「すぐに冷やさないと!」
あの日と、同じ顔。
本気で心配していることを窺わせる。
この人ってば、本当は――……
「大丈夫ですから、気になさらないで下さい」
絶対、赤くなってるはず。
大丈夫なワケないだろ!
そう心の中で毒づきながらも、あたしは平然とした態度で、にっこりと微笑んだ。
苦笑いにならないように作り上げるのは、得意。
泣きごとを言わないあたしが本当に大丈夫だと思ったのか、彼女は一度唇を引き攣らせる。
「制服もびちょびちょですねぇ……。
ココって制服ない部署だからよく分からないんですけど、替えってないですよね?
どうしましょう……」
まるで、自分が困っているかのように、抜け抜けと女が言う。
――全く、わざとらしい。
あたしは、スカートから緑色の液体を滴らせながら、何ともないように差し出された布巾を受け取り、彼女に向かってもう一度微笑んだ。
「これから韮崎さんと、二人で外に出ますから。
私服に着替えるし、大丈夫です」
「ね、韮崎さん?」と、今度は彼に向かって意味を含んだ笑みを送った。
Yesと答えるしかない道を作る。
まさかここで「急に何を言い出すんだ!?」なんて、頭の切れる男が言うはずがない。
勿論、予想通り、彼は目を丸くする。
だけど、“やられた”と、逆にそれを楽しむようにクックと笑いを堪えた。
そして、彼女に向かって言った。
「うん、ちょっと外出てくるから」
韮崎さんの言葉に、彼女は呆気に取られた。
だけど、すぐに状況を飲み込んだようで、悔しそうに唇を噛む。
あたしに喧嘩を売るなんて、100万年早いわよ。
「……本当に、すみませんでした」
彼女は、感情のこもらない言い方であたしにお辞儀をしてから、部屋をさっさと出て行った。
それを見届けると、あたしはようやく渡された布巾で、濡れたスカートを拭き出した。
二人きりに戻った応接室は、防音にでもなっているのかと思えるほど静かで、スカートと布巾が擦れる音が響く。
「すぐに冷やしたほうがいい」
彼の声が優しく言った。
冷淡さは、どこへ行ったのか。
「平気です」
「平気なわけないだろう。女の子なんだから痕が残ったら――」
「じゃあ、韮崎さんが冷やしてくれますか?」
言い掛けた言葉を遮る。
動かしていた手を止めて、上目遣いで見つめた。
「こうなったのも、韮崎さんのせいって自覚あります?
韮崎さんの、せいですよ?」
彼はまたクッと楽しそうに笑った。
「待ってて」
2、3分くらい待っただろうか。
彼は氷の入った透明のビニール袋と、白いタオルをどこからか持ってきた。
ウチの会社に来たばかりだっていうのに。氷の場所なんて知らないでしょ?
部下の女の子に急いで持ってこさせたの?
まぁ、一言で、瞬時に誰か馬鹿な女が持ってくるんだろうけど。
「コレも、セクハラに当たるんじゃないの?」
彼は床に膝を着き、ソファーに座るあたしの足の上にタオルを掛け、氷のビニールを当てながら言った。
……痺れるほど冷たいのに。
……焦げるほど、熱い。
「そうかもしれませんね。
人に見られたらそう思われますね、確実に」
「きみって、面白いね」
「そうですか?
韮崎さんのほうが、よっぽどですよ」
「そう?」
くっ、と。あたしに笑ってみせる顔は、やっぱり楽しそう。
ほんの。
ほんの少し、彼の本当が覗き見えてきたみたい。
「悪かった――ね」
「え?」
「少しは自覚してるつもりだよ。
だから、一応は気を付けて、周りを寄せつけないようにしてる」
「………」
……ああ。
モテる、って分かってるんだ?
そういう女慣れもしてる、ってわけ?
あたしに取った態度も――そういう、わけ?
「自意識過剰ですねぇ」
「そうかもね」
「そうですよ」
「きみだって」
「そうですね」
「………」
沈黙が、落ちる。
……引いちゃった?
だけどもう、どうせバレてるし。
それに――……
冷淡なの?
優しいの?
それとも――……
知りたい。
このひとのコト。もっと。
心がざわつく原因は、もう――わかった。
上がったり、下がったり、一言ひとことに惑わされるのも。
あの日の感覚も、何なのか――。
就業中とも思えないほど静かなこの部屋。
息遣いさえ聞こえてきそうだ。
手を伸ばせばすぐ触れられる。
あたしに跪いている彼を、頭の上からじっと見つめる。
「さっきの話の続きだけど……」
暫く黙っていた韮崎さんが、顔を上げないまま切り出した。
「はい」
「良い返事は貰えるのかな?」
「どうせ、もう、決定事項なんじゃないんですか?」
膝の上の氷水の袋が、小刻みに揺れ出す。
下を向いていて表情は見えないけれど、どうやら笑っているらしい。
ふ、と。彼は、顔を上げた。
「うん、そうだね。決定してる」
ようやく顔を見せてそう言った彼を、じっと見つめる。
熱を、こめて。
「韮崎さん、さっきあたしのこと、可愛いって言いましたね?」
「え?」
「それって、韮崎さんがそう思ってるんですか?
あたしは韮崎さんのタイプですか?」
韮崎さんは、面喰った顔をした。
そして、クククッとまた笑い出す。
「きみって――……ホント、面白いなぁ」
「答えて下さい」
「うん。そうだよ。
俺のタイプ」
「じゃ、あたしと付き合って下さい」
「は?」
「あたしのこと、タイプなんでしょ?」
「………」
黙った。
まぁ、当然だろうけど。
「無理」
「即答しないで下さい」
「愛人席なら、空いてるよ」
「は――?」
今度はあたしが面喰う。
「愛人でも構わないなら、どうぞ」
愛人?
「だって……独身じゃ……?」
そう言いながら、さっと彼の手に目を走らせた。
あたしの膝のすぐ上にある、氷の袋を持つ、手。
――やっぱり! 指輪なんてないじゃん!
「婚約者がいるんだよ」
指から彼の顔へと視線を戻したと同時に、はっきりとした声が耳を通り抜けた。
……婚約者?
「それって――……
よく漫画や小説ににありがちな展開の、社長の娘とか、そういう類の……?」
「そーだね。そういう類だね」
「………」
愛が、ないってヤツ?
でも、そういう言い方をしたのは、ある意味、あたしのプライドを壊さないため。
それに。あたしのプライドからして「うん」と言わせないため。
ううん。あたしが絶対言わないと思ってる。
それとも、本当にズルイ男?
業績を上げるために、あたしを上手く利用しようとする。
それは純粋に仕事熱心だから?
女が寄り付かないようにしているのは、婚約者のため?
それとも自分の保身のため?
読めない、オトコ。
だけど。
――馬鹿だなぁ。
あたしに少しでも選択の余地を与えたのは、見当違い。
引き下がると、思ってるの?
今なら、菜奈の言葉の意味が分かる。
だって。
“ココ”が言ってる。
高鳴る心臓も。締めるような苦しい思いも。
甘く満たす気持ちも。狂いそうなほどの熱も。
――そのせいだって。
彼が好きだって。
他の女には渡したくないって。
もっともっと、知りたい。
何を考えているのか――本当はどんな人なのか、彼を知りたい。
傍にいたいって。
あたしの“ココ”が、言ってるの。
社長の娘?
上等!
それくらいじゃなくちゃ、張り合いがない。
あたしは、目の下で氷水の袋を持つ手を、ぐっと掴んだ。
驚いた漆黒の瞳を、瞬時に捕らえる。
そして、極上の笑みをしてみせる。
「言ったんだから、取り消しなしですよ。
あたしは今日から韮崎さんの『愛人』決定です」