05
「それって、恋じゃない?」
「菜奈に話したあたしが馬鹿でした」
「何よ、それ」
菜奈は、ほんの少しムクれながら、食後のアイスコーヒーにガムシロップを落とした。
今日のランチは、会社近くにあるお気に入りのイタリアンレストランだ。
値段も手ごろで、ランチセットはお薦めパスタにサラダとドリンク付き。
朝からあたしの様子がおかしいと気が付いた菜奈は、社食ではなく、外へと連れ出したのだ。
そこで、本日のお薦め“トマトとツナの冷製パスタ”を食べながら、根掘り葉掘り訊かれた。
全く。
普段は鈍いクセに、たまに鋭いんだ、菜奈は。
九月に入ったとは言えど、まだまだ暑い。
丁度、冷たいモノが食べたいなー、なんて思っていて。
でも、ツナよりアンチョビのが良かったな、なんて。頭の片隅で考えながら仕方なく答えた。
あの日のことも、朝のことも、一応は全部。
「気になったのは、確かよ?
だって、めっちゃムカつくし! あの態度!
それなのに、いきなりあんなに優しくされたら、普通戸惑うでしょっ?
だからきっと、あたしもワケ分かんなくなっちゃったんだよ!」
「うん。まぁ……。
でも普通、そんな風に見ず知らずの人をおぶって、病院連れて行ってくれる人なんていないし。凄く優しい人なんだよ!
あ! ほら! 会社で冷たいのは威厳を保つため、とか?」
「威厳……ねぇ……」
なんか違う気がする。
でもまぁ、確かに、まだ若くてあのポジションで。あの東和重工から業績改善のために出向してくるくらいだから、そうと言ったらそうなのかもしれないけど。
いやいや。
それなら尚更、社員には優しくしなさいよ!
いくら仕事が出来ても、顔が良くても、嫌われるわよっ!
「とにかく! あたしに対するあの態度が許せないの!
だから気になるの!
こんなの、恋愛感情なんかじゃないっ!」
あたしが力説すると、菜奈は唇を引き攣らせたように笑みを浮かべて、ぽつりと言った。
「………。
どーしても、認めたくないのね……」
「え?」
「瑞穂、ときめいてるじゃん?」
「はあっ?」
「ときめいてるし。
朝だって苦しかったんでしょ? あんなこと聞かれちゃって」
「はあぁぁぁっ!?」
思わず、変な声が上がった。
口も開いたまま、菜奈を凝視する。
開いた口が塞がらないとは、まさにこのこと。
ときめいてる!?
アレが!?
あの感情はときめきっていう名のモノなの!?
このあたしが?
恋!?
違う! 違うっ!
絶っ対、違うっ!
身震いが走って、ぶるぶると勢いよく首を振った。
「や! とにかくっ!
何度も言うようだけど、寝込んでる間に気になったのも確かだし、知りたいと思ったのも確かよ!
でも、ムカつくものはムカつくの!
泣きたくなったのも苦しくなったのも、ムカつくからなの! きっと!」
息を切ったように、捲くし立てた。
菜奈は、そんなあたしを数秒黙ったまま見つめて。
そして、笑った。
「瑞穂」
「何よ」
「恋愛はね、頭でするものじゃないの。
“ココ”で感じるの」
とん、と。
菜奈の人差し指が伸びてきて、胸元を跳ねた。
「すぐに、わかるよ」
言葉と一緒に、物凄く嬉しそうな笑顔があたしに向けられる。
――“ココ”?
触れられた部分を両手で押さえて、上目遣いで目の前の笑顔を睨みつける。
「……何よ、偉そうに。
恋愛百戦錬磨のあたしにそんなコト言う菜奈なんて、生意気」
「ハイハイ」
「もー、マジで生意気っ」
「ハイハイっ」
………。
ホント、生意気なんだからっ。
朝のミカと、同じ顔。
ミカも「ふぅん」と、澄ました口調で、同じように笑っていた。
それに。
『認めたくないのね?』の前に、菜奈がぽつりと言った言葉。
さっきはよく聞き取れなかったけど、今――分かった。
――『嫌い嫌いも好きのうち』
昔、あたしが菜奈に言った言葉。
あたしはそれ以上の反論をせず、冷めたいアイスコーヒーを一気に飲み干した。
後を引くような苦みが広がって、しくしくと内側が軋んだ気がした。
午前中から始めた筈の伝票起算は、一向に進んでいない。
右手をマウスに添えたまま、左手で頬杖をついて、ディスプレイの中の表をぼんやり眺めていると、いきなり、ぽんと、肩に何か触れた。
「きゃっ」
咄嗟に声と身体が跳ね上がる。
あまりの驚きに物凄い勢いで駆け巡る脈に加えて、振り向いた途端、心臓までもが止まったかと思った。
「あー、悪い。驚かせて」
「あ! い、え! こっちこそ、大きな声出してすみませんっ!」
軽く頭を下げつつ、得意の笑顔を差し出す。
ヤバい、ヤバい。
仕事してないの、バレちゃうじゃん!
「もうっ! 部長ったら、びっくりしますよぅ!」
あたしはそう言って、ぽん、と、腕に軽く触れる。
こういうちょっとしたスキンシップに、男は弱いモノ。
その上で、可愛く拗ねた顔を見せればいい。
上司と言えど、上手く調子を合わせてやれば怒らせずに済む。
案の定、部長は「悪い悪い」と、目尻をいやらしく下げた。
「それでな、葉山くん、ちょっとすぐに販売促進部に行ってくれるか?」
「えっ?」
販売促進部?
それって……。
部長は、ニヤリと含み笑いをして言った。
「まぁ、行けば分かるよ」
……行けば分かるよ、って。
知ってるクセに。
教えないなんて、ほんっと、意地の悪いオヤジ。
大体、経理部のあたしが、販売促進部に呼ばれるということ自体が妙だ。
ウチの会社、TWフードは、食品の開発から、レストランチェーン店まで手広くやっている。
元々は、東和重工が、食品関連にも手を出して出来た会社らしい。
何せ、東和重工といえば、製品・技術分野は幅広い。産業機械や、船舶、航空関連のみならず、エネルギー開発にも乗り出しているくらいの大企業だ。
TWフードはその後ろ盾もあって、事業展開を食品開発から更に拡大していき、大きくなっていったらしい。
だけど、正直な話、自分が食べていけるお給料を貰えれば良くて。
業績だの、事業内容だの、興味なんてこれっぽっちもない。
かかわり自体がないっていうのもあるけど。
社内のことなんて、殆ど知らないのが現状。
どういう経営体制や販売体制なのかも、分かるわけがないし、全部の部署の掌握さえもしていない。
ただ、ウチの会社の販売促進部といえば、それなりの高学歴のやり手が揃っているのは確か。
営業関連の部署中でも、運営に関する重要な位置を占めている。
まぁ、その程度は、知っているけど……。
あたしの足の動きは、速まったり緩まったりを繰り返しながら、販売促進部に近づいていく。
心が乱れてる。
行きたいような、行きたくないような。
だって。
頭の片隅に追いやろうとしても、駄目。
どうしても、アノ人の顔が浮かぶ。
考えれば考える程、緊張するのが分かる。
自分の意志とは別モノのように。
いるのかな?
や。いるよね。
ううん。いないかも。
もしかしたら、業務管理部のほうにいるかもしれないし。
イヤイヤ。いたからどうだってのよ。
――ああ、もう、ヤダ。
はっ、と、気が付くと、販売促進部はもう目の前だった。
フロアーにしたらあたしのいる経理部の下の階なんだから、すぐ着いてしまうのは決まっているのに。
開いたままになっている入り口のドアから、ざわざわと、人の声が漏れてくる。電話の鳴る音も。
さすがに経理部よりもずっと騒がしく活気がある。
足を止めて、深呼吸。
落ち着け、落ち着け。
……って。
だから、何でこんなに緊張するのよ!
や。部長があんな風に急に声を掛けてくるからよ!
だから、さっきから落ち着かないで、心臓が鳴りっぱなしなんだ!
そうそう! きっと、そう!
よし!
無意味な気合いみたいなものを入れて、声を掛けようと一歩ドアに近づくと、室内の社員達が一斉にこちらに振り向いた。
驚いて、声を出し損ねる。
――何?
しかも、女子社員の目は鋭い。
如何にもライバル視のような、オンナを感じさせる目。
呼ばれた理由は分からないけれど。
これで、呼び出した人物は分かってしまった。
――韮崎。
アイツしかいないじゃん。
そう、答えが弾き出された途端、彼の姿が目に入った。
濃紺のジャケットに、黒のシャツ、上品な光沢のあるジャケットと同じ色のネクタイ。
他の社員とは明らかに違ったオーラは、否応なしに人目を惹く。
ドクン、と。大きく心臓が音を立てる。
「ああ、葉山さん」
笑顔の欠片もない無表情な顔がそう言いながら、窓際のデスクから立ち上がった。
朝と変わりない冷めた目つきが、あたしを見る。
――呼び出したのは、自分のクセに。
何? その顔……っ。
そう思うのに。
床に作り出される足音と一緒に、あたしに近づいてくるごとに、また脈拍が上がって身体中に煩いくらい響き出す。
いつもだったら、女子社員たちにも勝ち誇った笑顔くらい向けてやるはずなのに。
そんな余裕なんて、露ほども、ない。
それに。
あたしのこと……名前もちゃんと、知ってるの……?
「責任者の韮崎です。
きみに話があるんだ。ちょっと一緒に来て」
彼は立てた人指し指で、あたしの向こう側にある廊下を差した。
「は、い……」
「あー。悪いけど、隣にお茶持ってきてくれる?」
韮崎さんは、丁度、隣に立っていた女子社員の肩をポンと叩いた。
触れた瞬間、その女子社員の頬がほんのり赤く染まったのを見た。
……何か、ムカつく。
あたしに言うよりも、ずっと柔らかな物言い。
あたしには、平然と『邪魔』って、言ったクセに。
ムカつく。ムカつく。
女にちらりと目を走らせる。
――冴えない、女。
制服を着用しない、販売促進部。
それなのに、ありえない。イマドキ着るかな、って思えるダサい紺のフレアースカートのスーツ。
眉の整えさえ甘い、垢抜けないメイク。
10人の男がいたら、絶対全員あたしのが可愛いって思うんじゃない?
なのに、何であたしに対してのが冷たいわけ?
この人……この間の病気のときのあたしといい……もしかしたら、女の趣味が悪いとかじゃないの?
たまにそういう人っているもんね。
……それなら、納得だけど。
ああ、そう。きっとそう。女の趣味が悪いんだ。
……でも。ムカムカするのは、止まらない。
先に立って歩き出した彼に、あたしも、一応頭を下げてから後に付く。
あたしは背の高い方じゃないけど、目の前にある背中は広くて、見上げるほど。
緊張しているようでもないのに、すっきりと伸びた背筋。
それに、歩き方までスマート。
廊下に出て、彼は無言のまま、すぐ隣の部屋のドアを開けた。
通されたその部屋は、応接室だ。
営業関連の部が多く並ぶこのフロアーでは、接待に使われるのだろう。
経理のあたしからしてみると、無縁の場所。
ココに入るのは、初めてだ。
――だから。何でだろう?
ドキドキと、今の胃のムカつきが治まらない。
複雑な胸中に、浮かぶ疑問。
わざわざ就業時間中にこんなところに呼び立てる理由って何?
ちょっとした話なら、部の中だっていいはず。
「かけて?」
応接室に入ると、さっきから変わらない淡々とした態度で、ソファーに座ってと促される。
広いとは言い難いが、それなりの人数には対応出来る大きさの部屋だ。
大きな窓は明るいクリーム色のブラインドが下りていて、隙間からは午後の陽が差し込み、床に縞模様を作り出している。
その窓の横には、背の高いキャビネットがあり、会社の資料らしきファイルが幾つも 整然と並ぶ。
黒革で出来た、高級そうな横長のソファーが二つ。間には、白の大理石らしきトップのテーブル。
床に置かれた大きな観葉植物は、幹が編み込まれたパキラだ。あたしの部屋にもある。掌状に広がった葉の形が可愛くて好きなんだよね。
部屋の中に視線を一巡させて、あたしは「失礼します」とソファーに腰掛けた。
韮崎さんは、あたしが座ったのを見届けてから反対側に回って、そこに腰を落とした。
そして、膝の上で掌を組むと同時に口を開いた。
「早速なんだけど」
「……はい」
「きみ、明日からウチの部に来てくれる?」
………。
「はい?」
ワンテンポ遅れて声が出た。
高鳴っていた心臓は、嘘のようにさっと引いて静まる。
それほどまでに、今言われた意味の理解が出来ない。
ちょっと待って!?
明日? ウチの部!?
何言ってんの!?
「ちょ……っ! 意味っ、分かりませんっ!」
あまりにも唐突すぎる話に、あたしは思わず声を荒げた。