04
帰っちゃった……?
診察が終わり、待合室へのドアを開けた途端、彼を探している自分がいた。
なのに、姿が見えない。
妙に不安感が高まる。
診察を受ける前とは、全く違う心臓の動きが、身体中に冷たい血を送り出す。
そこに立って、一巡で見渡せる広さの待合室をきょろきょろと見回した。
死角になっている奥の方まで覗き込んでも、彼の姿はない。
やっぱり、いない……。
元々ふらふらの身体から、更に力が抜けた。
まるで誰もいない孤島に一人取り残されたみたいな気分だ。
何でこんな気持ちになっちゃうんだろう……。
ここまで付き合ってくれただけでも十分ありがたいし、当然のこと。
目の前にあった横長の椅子に倒れるように腰掛けると、かけていた眼鏡がずるりと下がってずれた。
何だか、泣きたくなってきて。
まるで涙を拭うような仕草で、それを元の位置に戻した。
「これ、預かってますよ」
受け付けの女性の声が、あたしに向かって言ったなんて、最初は気付かなかった。
「えーと、韮崎さんのお連れさん?」
ハッと。
その名前に反応して受け付けカウンターを見る。
声を掛けてきた受け付け女性の前に、コンビニの小さめのビニール袋が置かれている。
「あたし、ですか……?」
「そうですよ。
あ、保険証出してくれますか?
お名前も伺ってないし」
「は、はい! 葉山です! すみませんっ!」
慌ててバッグから保険証を取り出す。
立ち上がって、保険証と交換するようにコンビニ袋を受け取ると、その重量感が手にかかった。
「あ、の……っ。これ、渡してくれた人は――?」
ビニールから受け付けの女性へと顔を上げると、彼女はほんの少し眉を顰めた。
あたしの付き添いだと思っているのなら、そう訊かれれば不審に思うのも当然だ。
「帰られましたよ。
それ、預かる時に、後はよろしくお願いします、って、言ってましたから」
受け付けの女性は、答えながらあたしから視線をカルテに移し替え、仕事に戻る。
「そう……ですか……」
やっぱり……。
でも、これ……?
のろのろと渡されたビニール袋を開いた。
……お粥……?
レトルトのお粥が2つ。
それと、栄養ドリンクが二本。
もしかして、診察の間にわざわざ買ってきてくれた、とか……?
そのお粥を中から取り出してみると、ビニールの奥には小さな紙切れが二枚入っている。
何だろう、と、それも取り出す。
手帳から乱雑に切り取ったと窺える紙に、タクシーチケット。
このご時世にタクシーチケットなんて……。
そこまで珍しいモノというわけでもない。
そういうオトコとは付き合ってきてるし。
だけど。
見ず知らずの女にあげちゃうかな……。
そう思いながら、二つ折りにされた紙を開いた。
『家まで送ってあげたかったけど、仕事があるので行きます。
タクシーを呼んで帰って下さい。
しっかり食べて、よく寝て早く直して下さい。
お大事に』
「―――」
胸が、詰まった。
今迄に感じたことのない得体の知れないものが、奥底から膨らみ始める。
ふわふわと、身体中侵されたみたいに。
しっかり食べて、よく寝て……って――
コドモみたいなこと……。
何であの人がそんな優しい言葉をくれるのよ……。
だから。
何であたしは――
こんな風に、泣きたい気分になっちゃうんだろう……。
絶対、痛い目合わせてやるって思ってたのに。
ムカつくヤツの筈なのに。
おかしい。
絶対、熱のせいだ。
タクシーチケットには、やっぱり『韮崎 光』と。
アイツの名前が刻まれていた。
仕事って、大丈夫だったのかな。
考えてみれば、平日のあんな時間に。普通に考えても就業中の時間だし。
ああいう立場の人なら、仕事を優先するのが当然。
何で、あんな状態のあたしにあそこまで親切にしてくれたんだろう……。
だって。会社ではあんなに冷たい態度だったじゃない。女なんて寄せ付けないような。
それがどうして、あんなに優しい笑顔を見せるのよ。
仕事に遅れるだろうに、わざわざ病院まで背負って。
寝ちゃったのに、それも見守って診察に呼ばれるまで待って。
おまけに、お粥まで買ってきてくれて。
本当は、どんな人なんだろう……。
冷たいようで、優しい人。
熱があるのに。
喉も痛くて、目も痛くて、気持ちが悪くて……。
なのに。
考えるのは、彼のことばかり。
眠りが浅くなる合間には、ふと、あの顔が浮かぶ。
背中の広さも。
掌の温かさも。
それに。
思い出すと、妙に胸の辺りが疼く。
痺れたように。甘く。
身体が、火照る。
――熱のせい。
そう、思いたいのに。
「お。瑞穂、病み上がりなのに完璧ぃ」
5日ぶりに出社した更衣室で、顔を合わせた途端、ミカが言った。
緩めに巻いた、けれどきっちりとした髪。
ホットビューラーでくるりと上げた睫に、重ねづけのマスカラ。
新色のアイカラーは4色使いのグラデーション。
大人っぽく見えるレッド系チークに、艶を出したグロスはぽってりと厚めに色っぽく。
……確かに。
ロッカーの鏡に映るあたしは、完璧よ? 今日も。
「あれ? 瑞穂やつれた?」
「普通に痩せた、って、言ってくれない?」
溜め息をこれ見よがしに吐き出しながら答える。
実際、3キロも落ちた。
当然だ。
4日間高熱がバッチリ出て、喉の痛みも酷いけれど、食欲も無くて、ろくに食べ物を口に出来なかったんだから。
去年かかったインフルエンザと同等なんじゃないかと思うほど、辛かった。
「もう、大丈夫なの?」
「うん、まぁ……」
「でもさぁ、プール熱って普通子供がかかる病気じゃないの? 大人もなるんだ?」
「……オトコに移されたのよ」
ミカは一度視線を固めてから、くっと笑った。
「瑞穂らしー」
「まーね」
「あ」と、急に思いだしたように声を上げたミカは、「そういえば」と耳元に顔を近づけた。
「ね、この間の韮崎さんっているじゃん?」
え?
ミカの口から出た名前に、ドキンと心臓が跳ね上がった。
急激に動悸が速まる。
――や……。もう、何で……。
「な、に?」
「何かスッゴイ急なんだよねー。
昨日から、もうウチの会社に来てんの。
アレねー。女子社員の噂の的だよ。
やっぱねぇ、カッコイイし。皆、狙うわ」
昨日から?
会社に来てる!?
何で? 随分、急過ぎない?
多分いつもなら、そこで突っ込んで訊くところだ。
だけど、あたしの口からは「そう」と、さほど気にしていないような言葉が出た。
ミカに、気にしてる、なんて、思われたくないからだ。
ただ、名前が挙がっただけでこんなにドキドキしてるなんて。
そんな自分を、見せたことがないし、あたし自身が見たこともない。
多分、訊いたってミカは何とも思わないと思う。
だけど、駄目なんだ。自分が。
いつもとは違うのが、明らかだから。
もう……ヤダ……。
オカシイ……。ホントに調子が狂う……。
自分が情けなくなって、漏れそうな溜め息を飲み込みながら更衣室を出ようと、無言で入り口に向かう。
「もー。待ってよ、瑞穂」
後ろから、慌てた声が聞こえる。
ドアのところでミカが追いついて、ドアノブに手を掛けた。
「ねー、今週末、合コンあるよ。
行くでしょ?」
――合コン……
「行かない」
「はー? うっそ? 何で?」
「別に。行きたくない」
それは本当。
いつもなら二つ返事で参加するけど。
何だかそんな気分じゃない。
ミカの方を見ずに、ドアを開けた。
「あ。また新しい彼氏出来たー?」
調子の良い声でミカがそう言った時、ドアの目の前を通り過ぎた彼の姿に目を見張った。
――え。
目が合った。
ほんの、一瞬。
冷えた、目。
まるで、蔑むような――。
助けてくれた日の優しい目とは、大違いの。
周りの音が消えた。
何も、考えられない。そんな余裕がない。
ただ見つめる背中が、徐々に遠退く。
廊下の向こう側へと、消えていく。
「――っ、と! 韮崎さんじゃん!
やば。聞こえちゃったかな」
ミカの声で、急にざわざわとした雑音が帰ってくる。
「韮崎さん、マジ、カッコイイ」
「アノ顔でデキるオトコっしょ? ヤバイわぁ」
向こう側から歩いてきた女子社員二人が、通りすがりに興奮気味に話しているのが耳に入った。
黄色にも見える声が、あたしの焦慮を煽るよう。
……聞かれた。絶対。
「瑞穂?」
「………」
「えー。ごめんって!
もしかして、彼のこと狙おうとしてた!?」
「………」
「瑞穂?」
「なんか、苦しい……」
「は?」
「分かんないけど、苦しいの」
何だろう。コレは。本当に。
胸のあたりが、痛いっていうか。
それに。
また、何だか泣きたい……。
自分が自分で分からなくて。
あたしは、ただその場で目を瞑り、大きく息を吸い込んだ。