03

――ヤバい。


視界がぐらりと歪んで、今、立っている場所さえ分からなくなった。
身体はふらつき、咄嗟に手を出す。

ふう、と。荒い息を吐く。
ちょうどすぐ真横にあった住宅の壁で、どうにか倒れずに済んだらしい。


ヤバいなぁ……。


病院までは、あと10分程度の距離なのに。
こんな状態で、辿り着けるのかさえ不安になる。
だけど今更家に戻るとしても、所詮同じこと。

40℃の高熱。
喉は焼けるように痛い。
唾を飲み込むのでさえ一苦労なのに、咳は出るし、おまけに朝は嘔吐もあった。
目なんか真っ赤に充血して、瞼を開けているのも辛いくらい。

コレが何だか、は、分かっている。
ただの風邪じゃないことも。
おそらくプール熱だ。

さっき、相川さんからメールがきた。

『高熱が続いてるんだ。
普通の風邪じゃないな、って思ったらプール熱とかいうやつだって。
すっげー辛い。
こういうときってさ、瑞穂ちゃんの顔が見たい、なんて思う』


見た瞬間、バチンと乱雑に二つ折りの携帯を閉じた。


何が『顔が見たい』よ!
人に移しておいてっ!
ふざけるな!! 二度と会ってやるもんか!!


だけど――。
あの日。誰でもいいと、誘ったのは自分で。
こんな風に病気を移されたって、自業自得なのかもしれない。

そんな風に思うのは、身体が弱っているせいなのかな……。


頭がくらりとした。
上下がどちらか分からなくなるくらいに、もやが掛かる。
立っていられない。


――だけど。
どうにか病院まで行かなきゃ。
こんなとこで倒れるわけにはいかない。

だって。目が痛くてコンタクトも入れられなくて眼鏡だし。
普段は朝から寝る前までコンタクトだから、眼鏡なんて何年も前のめちゃめちゃダサい牛乳瓶の底みたいなレンズ。
おまけに白目は充血凄いでしょ。顔だって恐ろしくむくんでる。
化粧もヘアセットも、高熱でする余裕なんてあるわけないし。いつもは綺麗に巻く髪も、バサバサ状態で、黒ゴムのおばちゃん結び。
服だって起きてそのままのぼろぼろのダサい部屋着。Tシャツにスウェットみたいな感じ。
だって、着替える余裕なんてなかったし。どうせ行くのは病人しかいない場所だし。

誰が見てもあたしだって絶対にわからないくらい酷い状態なんだもん。
て、ゆーか。化粧取ったらお化けって、まさに今のあたしじゃん。
病院行くだけなら、知ってる人には会わないし、いいやって思ったけど。
倒れて誰かに迎えに来て貰うなんて。
そんなの絶対、絶対、ダメ!
絶っっ対、駄目!

あー。でも。
マジで限界かも……。
もう……。


「大丈夫?」


膝と掌にアスファルトの冷たい感触を抱いたと同時だった。
頭の上からその声が聞こえたのは。

低い、声。
何処かで聞いたことのあるような……
機能を失いかけた脳みその端で、そんな風に思う。


「具合、悪いの?」


その声がしたと思うと、ふわっと身体が浮いたのが分かった。


ええーっ!?


声を出す間もなく、あたしは見も知らずの人の肩にくの字になって担がれているってことだけは分かって。
油断してた、とか、そんなレベルじゃなく、予想だに出来ないことに、ただなされるがまま。


な、な、何!?


ぐるぐる回っていた頭は、突如起こった出来事に動揺し、更に速度を上げて回り出す。


痴漢!? 変質者!? 誘拐犯!?


「いやああああっ! 変態っ!!」

「うわ! 暴れんなよっ!
すっげー熱いし! これじゃ一人で歩けないだろっ!?」


両手を彼の背中に突っ張らせて反抗してみたけれど、慌てた声と一緒に、あたしの身体に回った手にぐっと力が入った。


駄目。無理。
今のあたしじゃ逃げたくても逃げられない。


抵抗したせいでまた頭の中がぎゅんと回り、結局、力尽きたように彼の背中に身体を凭せ掛ける。


「変なヤツじゃ、ないから」


彼の後姿が言った。
まるで落ち着かせるような、優しい声。


……じゃあ、何……?


だけど。
確証なんてないのに。
何でだか分からないけど、痴漢でも誘拐犯でもない、と。そう思った。

ほんの少し後ろへと傾けた顔は、よく見えなかったけど、イイ男……ぽい。
それに、背も高い。肩幅もあって、筋肉質。絶対、イイ身体してる。


「何? 病院行くの? 家、帰んの? 送ってく」

「え……。
や、でも……」

「こんな道端に放っておくわけにもいかないだろ? 女の子を」


――女の子?


その言葉が胸に入り込んで響いた。


嘘ぉ……。

だって、オカシイ。

いつものあたしなら分かる。
だけど、今のこんなブスでダサくてキモい女になんて。
普通、声なんてかけない筈だし。親切にするなんて絶対変!
しかも、変態扱いまでしたのに。

イヤイヤイヤ。
だって、あたしだったらキモ男になんて絶対、声掛けないもん!
断言する!


「で。何処?」


もう、送る、と決定された訊き方。


確かに、ここで倒れたらオシマイ。
この際、頼っていいのかな……。

だって、ホントにもう限界……駄目……。


「商店街にある、中野医院まで……オネガイシマス」


神にも縋る気持ちで言うと「OK」と、こちらを向かないままの彼の声が聞こえた。


「このまんまじゃ、身体痛いだろ?
背中におぶさって」

「………」


抱えられている腕が、するりと緩まって。
それでも地面に下ろす気もないように抱えられていて。
あたしは黙ったまま、彼の言う通りに首筋に手を回し、背負われた。


いいのかな。
重くないかな。


なんて。
そう思いながらも、身体を委ねるしか出来ない。
力の全く入らないあたしを、しっかりと支える腕が男らしい。

ふわふわと身体は上下に揺れ出す。
熱が伝わる彼の広い背中から、懐かしいような日なたのにおいがした。
あたしは心地良くて、まるで眠りに誘われたように目を閉じた。











どこか遠くの方で、声が聞こえた気がした。


ん?


頭の片隅に疑問符が浮かぶと、身体が揺さぶられていることに気付く。
微かな雑音も、耳へと入り込んでくる。


「……起きて」


その声にハッとして、瞬間、瞼を開いた。

真っ暗闇からいきなり飛び込んできた顔に、息が止まった。声も出ない。
ただ、あんぐりと口を開けて、その顔を直視した。


――な、んで!?


あたしの目の前には、アイツ――韮崎 光がいた。

この間とは全くもって違った心配そうな顔で、上から覗き込んでいる。
彼の向こう側には見慣れないクリーム色の天井が見える。


「目、覚めた?」


ふっ、と。彼の唇が笑みを零す。


――何で!?

何でコイツが――!!


ゴチン。

あまりの驚きに、咄嗟に上半身を起こした途端、目の前がチカチカした。


「痛ぁ……」

「〜〜〜〜〜」


どうやら、盛大におでこがぶつかったらしい。
額を両手で押さえながら、その隙間から薄目で覗くと、アイツも同じ場所に片手を当てている。

眉を寄せた渋い顔。


う。
怒る?


そう思っていたら、急にその頬が緩んだ。
続けてククククッと、笑い声が漏れてくる。
おでこに当てられていた手はそのまま口元を覆い隠し、目尻を下げ細くした目をあたしに向けた。


「すっげー音。大丈夫?」


――え。


「ああ。やっぱ赤くなってる。
俺、石頭だから」


手首をふっと掴まれ、それをゆっくりと下ろされる。

そこに、人懐っこい無垢な子供のような笑顔があって。
間近で覗き込んできた瞳に、あたしが映し出される。

心臓が、勢いをつけてドクンと跳ねた。


なん、で――……。
冷淡でムカつくヤツだと思っていたのに。


「あ、の?」

「ああ、ゴメン。
病院に着くまでに背中の上で寝ちゃってたから、受け付けに事情を話しておいた。
今、先生に呼ばれたよ。
診察終わったら、受け付けに言って、保険証出して」

「え……」


ま、待って?
もしかして――さっき道で声を掛けてきて、あたしをここまで連れて来てくれたのって、コイツ!?

ええっ!?
いや、いや、まさかそんな……!


まるで、言葉を取り上げられたように、声も出せずにソファーから彼を見上げた。



「あ。もしかして、立てない?」


また、さっきと同じようにふわりと身体が宙に浮いた。簡単に。

床に、とん、と。小さな音を立てて足が着くと、脇から腕を回されて支えられた。


――男の人の腕。


思わず、身体に回された腕をしげしげと見てしまった。
力強くて、筋肉質で、男っぽい腕。
筋肉の隆起と、すっと浮き出た腱。


何でだろう。ドキドキする。
こんな風に腕を回される事なんて、日常茶飯事。
男の腕なんて、見慣れてるのに。

や。これって、きっと。熱のせいだ。
だから心臓がばくばくいってる。
じゃなきゃ、オカシイ。

オカシイ。
オカシイ。


支えられて、そのまま予診室に入る。
すると、すぐに名前を呼ばれた。

――『韮崎さん』と。


やっぱり。
確実に、アイツだ。
ニラサキなんて名字、そうそういない。
しかも、あたしだって絶対気付いてないよね?
いや。気付く筈がない。今の格好じゃ、会社のあたしと雲泥の差。

あたしに『邪魔』と言ったアイツ。
会社じゃ、あんなに冷淡で感じ悪かったのに。
何で、こんなに優しいワケ!?

しかも、こんなブスな状態のあたしに――


診察室の扉が彼の手によって開けられ、支えられていた身体が離れた。

こうして立って見上げると、やっぱり背が高いなぁ、なんて思う。

上から見下ろす顔は、優しげな落ち着いた表情だ。

そんなところにも、胸がむずむずする。

そして、やっぱりいつものあたしとは違っていて。
社交辞令の笑顔も出せないまま、曖昧な顔つきでお礼を述べた。


「ありがとう……ございます」


あたしの言葉に、目の前の唇がきゅっと上がり、ふわっとした極上の笑顔が傾けられる。
思わず、釘付けになる。


「いってらっしゃい」


ぽん、と。大きな掌が、頭の上で跳ねた。

――その瞬間。
ストン、と。心が落ちたのが分かった。
あまりにも簡単に。
それは決して抜け出せないかのように胸を締め付けて、身体中に震動を響かせた。


――熱、が……


これ以上ない程の熱が、一気に突き上げる。

この胸の動きの異常な速さは熱のせいだと、そう思いたいくらい、自分の中の持ったことの無い感情に揺さぶられた。


だけどこの時点でまだあたしは。
この気持ちが恋なのだと、気付けないでいた。

  

update : 2009.01.31