02
「海斗! こっち!」
隣のスツールに座る、菜奈が入り口に向かって軽く手を上げた。
菜奈とその彼氏の海斗くんは、付き合って1年くらいになる。
この二人、最初こそ最悪な出会いで、お互いに意地を張りまくっていたけど。
付き合い出したらなんやかんやラブラブで、週末はいつも一緒にいる。
だからこんな風に菜奈と二人でお酒を飲みに来るなんて、毎日会社で顔を合わせていても、本当に久しぶり。
薄暗い店内に浮かぶダウンライトの下を横切って、海斗くんは、あたしたちの座るカウンター席の方へと向かって来た。
予想通り、入り口からココまで歩いてくる間、彼は綺麗な間隔で散らばったテーブル席に座る女の子たちの視線を独占する。
そう。
誰が見ても、イイ男なのだ。菜奈の彼氏は。
あたしだって、合コンで最初に会った時は、狙っていたんだもん。
さすがに、菜奈と……ってなったら、そこに割り込む気なんて、さらさらなくなったけど。
「終電なくなったからお迎えさせるなんて、イイ根性してるよ、お嬢様」
菜奈に向かって意地悪そうに彼の口元が上がると、あたしの方を向いて、付け加えたように挨拶する。
「久しぶり、瑞穂ちゃん。
悪いね、菜奈のお守り」
「お守りとか、言わないでよね!」
ぷぅ、と。頬を膨らませて、座ったまま海斗くんを睨み上げる菜奈。
あーもう! やってらんないっ!
ただでさえ、あのオトコのことで苛ついてるのにさ。
「そーんなコト言って、ホントは心配なクセに」
にっこりと笑みを作り、カウンターに頬杖をついてわざとらしく言ってみせると、彼のクールな顔つきも、ほんの少し崩れる。
バレバレですよ?
海斗クン。
わざわざこんな遅い時間に迎えにくるんだから、心配以外のなにものでもない。
まぁ、海斗くんの昔の女のコトで悩んでいた菜奈の為に、ちょっと彼を煽ってやって、迎えに来させたのはあたしだけどね。
あたしからしてみると、海斗くんは小学生みたいだ。
好きな女の子をからかって、苛めてその反応を楽しんでる。
可愛くて仕方無い、って、ね。
彼は、今迄、散々遊んできたオトコのようだけど、菜奈は本命。
大事にしてるオーラはそこはかとなく感じる。
菜奈は菜奈で、そんな彼にどっぷりとハマってる。
大体、菜奈の話は、彼の話ばかりだ。
またその姿は、酷く幸せそうだから、参る。
「早く、菜奈のこと連れてっちゃってくれる?
もー、さっきからウザいから。だってねぇ、海斗くんが一番――」
「みっ、瑞穂っ!」
菜奈は顔を赤らめて立ち上がった。
さっきまで、海斗くんの昔の女のコトと、菜奈の昔の男のコト、それに海斗くんとのエッチがどうたらって話をしていたから、バラされたくはないんだよね。
はいはい。
長く付き合ってても、こういう反応は男にとっては可愛いよね。
あたしだって、可愛いって、素直にそう思う。
海斗くんが、ちょっかい出す気持ちも分からなくもないよ?
「瑞穂ちゃんも、家まで送るよ」
海斗くんが、如何にも用意していたような社交辞令の言葉を取り出す。
「あー。ありがとう。
でも、あたしもカレが迎えに来るから」
あたしはにっこりと微笑んで、これまた用意していた言葉を並べる。
『カレ』なんて約束は、勿論ないけど。
あたしの性格を分かっているからか、菜奈はすぐに「分かった」と引き下がる。
それに仮に約束なんてしていなくても、本当これから誰か男を呼ぶのだと思っているのだろう。
二人が楽しそうに店を背にする姿を、席を立たないまま見送った。
菜奈の横に並ぶ海斗くんが、入り口の重厚なガラスのドアを押し開ける。
ちょこちょこっと、早足で潜り抜ける菜奈。それを見守るように待って、後に続く海斗くん。
店内の音楽で、ドアの閉まる重たげな音も掻き消され、空間はまた閉ざされる。
ガラスドアの向こう側に、薄っすらとした灯りの中、手を取り合った二人が見えた。
はぁ、と。大きな息が漏れ、天井を仰いだ。
白い天井には、薄っすらとした細い影が並んでゆらゆらと波打っている。
すぐ傍に置いてある、大きなアレカヤシの葉だ。
空調で、柔らかに揺らされている。
くるりと、身体の向きをカウンターに戻し、頬杖をついて目の前に置かれたグラスを見つめる。
あたしの注文したカルテッド・アイスクリームは既に空。
菜奈の残したロングアイランドアイスティーが、真上にあるダウンライトに照らされ、きらきらと光を反射して輝いた。
まるで、宝石のトパーズみたい。
紅茶を使わずに、見事にアイスティーの風合いと色味とを表現した、不思議なカクテル。
あたしは手に取って一気に飲み干した。
喉越しが熱い。
甘くて女の子にはさらりと飲みやすいけれど、実はこのカクテルは、アルコール度もぐっと高い。
空になったグラスを目の前で揺らし、中の氷をカラリと鳴らす。
――なんでだろう……
最近。
菜奈と海斗くんの二人を見ていると、妙な焦燥感のようなものに掻き立てられる。
二人の関係が羨ましい、って。
あたしって何なんだろう、って。
そんな風に、思う。
今迄どんなに仲の良いカップルを見ても、そんなこと思わなかったのに。
きゅうっ、と。何故か胸が締め付けられるように苦しくなった。
いつもと違う自分に、余計に苛立ちを覚える。
それに何故か。
急にあのオトコの顔が脳裏を掠めた。
――ニラサキ コウ
鋭い目つき。
あたしを見下げた顔――。
あー、もう! ホント、イライラするっ!
こんな時にアイツが想い浮かぶなんて!
徐に、携帯を手に取る。
アドレスを開けると、一番初めに目についたオトコの名前のボタンを押した。
――相川 充(あいかわ みつる)
この間、合コンした相手、だ。
大手の広告代理店に勤めるエリート。
顔もスタイルも、合格点。
――誰でもいい。
今のあたしの。
この訳の分からない心の小さな隙間みたいなモノを埋めてくれれば。
正面から二つ並んだ光が流れ、すり抜けるようにいくつも続けて横を通り過ぎていく。
如何にも高級車といった感じの重厚感あるエンジン音が、目の前の赤信号によって小さく音を絞られる。
「瑞穂ちゃんが、こんな風に電話してきてくれるなんて思わなかったな」
相川さんは、ハンドルを握ったままこちらを向いて言った。
「ごめんなさい。急に、こんな時間に……」
ちらりと彼の顔を見て、ほんの少し瞳を伏せる。
「でも」と、目線と顎を上げる。
「どうしても、会いたくなって……」
瞬きをせずに彼を見つめる。
開いたままの瞳は僅かに潤み、薄暗い車内に入り込む街の灯りが映り込んで、綺麗に光るのだ。
「……ホントに?」
熱のこもったような視線と声が注がれる。
「うん」
小さく頷き、その瞬間に大袈裟な瞬きをし、長い睫を揺らす。彼に見えるように。
ここから先は、自分から煽る言葉は出さない。
男の方から誘わせる。
これがセオリー。
グロスを塗った唇を僅かに開きながら、首を捩りもう一度彼を見つめる。
どのくらいの唇の開き方が一番色っぽく見えるのか、そんなことも計算済みだ。
膝の上に載せた掌も、如何にも緊張しているようにゆっくりと握り締め、スカートの布地にすうっと効果音を立てる。
エンジン音だけが静かに響く車内では、この小さな音が、相手の緊張感をより高めてくれる。
目の前の顔はゆっくりと目を細めながら、角度をつけて近づいてくる。
「瑞穂ちゃん……」
掠れた甘さを含んだ声。
唇が触れる前に発せられると、すぐに塞がれる。
相手の反応を探るように遠慮がちに入れ込まれた舌。
それに合わせてぴくりと身体を跳ねさせる。
絡められる舌を、まるで戸惑っているかのように一旦引く。
これで、迷っているかのように錯覚させるのだ。
彼の舌があたしを追うように更に濃密な動きになると、なされるがままの状態から、今度は自分も絡ませていく。
「……んっ……」
甘い息とくぐもった声を漏らす。
コレも、勿論演技。
更には、そっと、首元に手を添える。
服の上じゃなく、直接触れる性感帯は、あたしの体温が伝わって、気分を更に高めさせるはず。
それによって、更に深く、と。キスも激しくなる。
――チョロイなぁ。
あ。そろそろ信号変わるかな。
冷静な自分にある意味呆れながらも、彼の首元に触れている指を外すと、重なっていた唇も離れ出す。
エッチは嫌いじゃない。
好きな人とのソレがどんなものか知らないけど。
好きな人とじゃなくたって、ちゃんと気持ちイイし。
それよりなにより。
人肌は温かい。
身体が繋がっていることで、安心感のようなものを得られる。
腕の中で囁かれる甘い言葉は、魔法の言葉。
『可愛い』
『綺麗』
その言葉が、脳内を麻痺させる。
そして。
あたし、という人間を、実感させられる。
魅力的な人間だと、そう肯定されている気がするの。
今は、得も言えぬ焦燥感と、この虚しさを埋めたい……。
ただ。
それだけ。
「帰したく、ないんだけど」
再度アクセルを踏み出した車と一緒に、耳元に甘えるような言葉が流れ込む。
あたしは「うん」と。
コレも用意した曖昧な笑みを浮かべて答えた。