01

――愛、って。
何だろう、って思う。

目に見えるモノじゃなくて。
物凄く不確かで、曖昧。

それに、男なんて。
いくら口では『愛してる』とか、『好き』とか、甘い言葉を口にしていたって。
結局は、一人の女だけじゃ満足なんて出来ないイキモノ。

いちいち他の女とのことで嫉妬して怒ったり、会えなくて寂しかったり。冷たくされて悲しくなったり、苦しくなったり。
そんな感情、疲れるだけ。
だったら、最初から恋愛感情なんて持たない方がいい。
自分にとって、どれだけトクになるか。
ひとときでも楽しませてくれれば、それでいい。

どうせ。結婚しちゃえばソレで終わり。
いくら愛があったって、ソレはそのうち簡単に泡となって消えるんだから。
そこに愛なんてなくたっていいよ。
だったら優良物件を掴んだもの勝ち、ってね。


あたし、葉山 瑞穂(はやま みずほ)は、24歳にもなって、本気の恋愛は一度だってしたことがない。
オトコノコは大好き。
甘いモノも、可愛いモノも、綺麗なモノも、好き。

せっかくオンナに生まれたんだもん。
それを謳歌しなきゃ、損。
利用できるものは利用しないと、ね。

見た目……自分でも可愛いと思う。
小柄で細いボディに豊満な胸は、それだけで男が釣れる要素。

オンナノコは可愛い方が、絶対、絶対、得なんだから。
あたしは身を持ってそれを知っている。

――小悪魔。
そう呼ばれることにも慣れてるし、自分でもそう思う。

でも。
それでいいの。








「ねぇ、瑞穂、菜奈、知ってる?」


ミカが、A定食のおかずの皿をカウンターからトレーに載せながら言った。

昼休みの時間に入って、まだ5分しか経っていないのに。
既に社員食堂は、人が溢れかえっている。

新宿にあるウチの会社は、大きいとは言い難いけれど、自社ビルだ。
その最上階にある社員食堂は、街を見渡せ、眺めも良い。
その上、値段も安い。だからウチの社員はココの利用者が多いのだ。

難点は、食品関連の会社だっていうのに、味がそこそこなことかな。
もう少し美味しいといいのに、って毎度思う。
あとは、社員の人数のわりに狭い。
いつも混雑していて、席を見つけるのも一苦労。


あたしは、既にB定食のセット全てをトレーに載せ終え、テーブルに向かおうとしていたけれど、肩越しに振りかえってミカに訊き直した。


「何を?」

「何を、って? 瑞穂なら絶対知ってるかと思ってた」


ご飯が山盛りの茶碗をトレーに載せたミカは、あたしの隣に並んで歩き出した。
その横に菜奈も並んで、首を伸ばして覗き込んでくる。


「大元会社の東和重工から、ウチの会社に出向してくるってエリート。
めっちゃイケメンだって。しかもまだ29歳。独身。
聞いてない?」


東和重工から出向?
エリート? イケメン?


「うっそ!? そんなの聞いてない!」


本当に顔が良ければ、かなり美味しい物件じゃんか。


あたしは思わず声を上げたけど、菜奈は「へぇ」と、ただ感心したような声を漏らす。


菜奈とミカはあたしと同期で、入社時からずっと仲が良い。
あたしと菜奈は経理部。ミカは人事部。
そのせいもあって、ミカはそういう情報を仕入れるのは早いのだ。


「何でも、相当やり手らしくて。
ウチの会社の業績改善しに、プロジェクトを組んでくるみたいだよ。
販売促進部と業務管理部、両方に籍置くって。凄いよねー」

「販売促進部と業務管理部?
両方……って。な、なんか凄いね」


賛嘆したように言うミカに、目を丸めて驚く菜奈。
あたしは黙ってミカの言葉に頭を巡らせていた。


東和重工からの出向に、販売促進部と業務管理部。
期間限定で出向してくる、ってことだよね。
部署も違うし、やりやすい。
ハクもあるし、かなり狙い目なオトコじゃん。


そんなことを考えながら人の間をすり抜け、いくつも並ぶ長テーブルに目を走らせる。
空いている三つの席を見つけ、その前で足を止めると、ミカは「あ」と声を漏らした。


「ね! ね! アレっ」


ミカの細い指の差す先に目をやった。

そこには”お偉いさん”が数人そのオーラを放つ中、それに引けを取らない雰囲気を持った男が、頭一つ抜けて見えた。

少し長めの黒髪。
すっとした高い鼻。
整った眉に切れ長の瞳は、如何にも自信が満ち溢れている。

ひとつひとつのパーツは遠目から見ても綺麗で。
それが形の良い骨格の中に上手く嵌めこまれている。

がっちりとした広い肩幅に、ジャケットの袖口から覗かせる大きな手と節の目立つ指。
背もかなり高い。

大人の雰囲気を持った、如何にもイイオトコ。
ウチの社内では目にしたことがない人だ。


「もしかして、あの人が例の人?」


あたしが思っている通りの言葉を、菜奈がミカに発問してくれた。


「そうそう! 写真と一緒! 韮崎 光(にらさき こう)さん!
何だろ、異動前に挨拶にでも来てるのかな? それか、視察とか?
やば。めっちゃ、イイオトコじゃん!」


ミカが興奮気味に、だけど声のトーンは抑えて言う。


「……ふぅん」


――ニラサキ コウ。
うん。いいじゃん。


テーブルにトレーを置くと、そこから水の入ったコップだけ手にする。
そしてそこにミカと菜奈を置いて、あたしは徐に彼の方へと歩き出した。
「瑞穂?」と、不思議そうな菜奈とミカの声が聞こえたけど、素知らぬ振りをする。


こういうのは、早いモノ勝ち。


顔を見ないフリで近づていく。

重役と談笑している彼の声が耳に入ってくる。
機嫌が良いなら尚更都合がイイ。

すれ違う――寸前。
あたしはわざと手を滑らせた。


カシャン。

高い音を立てて、ガラスと水が床に飛び散った。

何事かと、一瞬、周りの目がこちらに向く。
だけど、コップや食器を社食で割ってしまうことなんて日常茶飯事。
「なんだ」程度に、皆すぐに元の視線に戻る。

この目の前の男さえ立ち止まればいいの。
話すきっかけが出来れば。


「す、すみませんっ!」


如何にも慌てたようにその場に屈みこんで、ガラスを拾い上げようとする。
その際に、彼のスラックスがきちんと濡れてくれたか確認も怠らない。


よし。丁度いい濡れ具合。


「大丈夫か?」

「君、そのままでいいよ!」


オヤジどもの声が頭上から聞こえてくる。
あたしはその場からぐっと思い切り顔を上げた。

上目遣いで目を大きく見せることも忘れずに、ね。


「本当にすみません! 今すぐに片付けますから!
あの、水、かかりませんでしたか!?」


彼は、少し驚いているような顔をしていた。
でも、ただそれだけ。


普通は、ここで「大丈夫だから」とか、「怪我しなかった?」とかの言葉がある筈なんだけどな。


あたしは心の中で舌打ちをし、構わず続けることにした。

すぐにまた下を向き、たった今気が付いた、といったように、「あ」と声を上げて、濡れたスラックスを見つめる。


「ヤダ! パンツの裾が濡れてるっ! 
あのっ、すみません! どうしようっ」


如何にも申し訳ない風に、急いで制服のスカートのポケットから、ハンカチを取り出し、彼の足元を拭こうと手を伸ばす。

その時。
床に影が出来たと思うと、ハンカチが触れる前に手首をぐっと掴まれた。

そして、そのまま力強く腕が引かれ、屈んでいた姿勢は簡単に立たせられる。


あ。いい匂い。


ふわっ、と。何か高級な甘い香りがした。
きっと彼のつけているフレグランスだ。


腕を掴まれたまま、彼を見上げた。


あ。やっぱり近くで見ると尚更イイオトコ。
顔、綺麗。


そう思いながらも、戸惑ったように瞳を大きく見開き、唇も僅かに開いて、可愛い顔を作ることは忘れない。
この顔でオトコを落とすんだから。


「いいから」

「えっ……」

「いいよ、そんなの」


その言葉と共に、パッと、腕が放される。


うん。まぁ、当然。
シナリオ通り。


「あの、じゃあ、コレ、使って下さい。
私、経理部の葉山です。本当に申し訳ありません」


そう言って頭を下げ、ハンカチを差し出した。

言うまでもなく、次に繋げるための手段。
これで断るオトコなんて、見たことない。


「邪魔」


頭の上から降り注がれた声。

何て言われたか、最初は分からなかった。


「え?」


顔を上げると、冷めた彼の目があたしを見下ろしていた。


「邪魔。どいてくれる?」


――は?


声が上がるよりも前に、彼はすっと、あたしの横を通り抜けていた。
いや。声さえ上げることが出来なかったって方が正しい。


何? 今の……


ぐるぐるぐるぐる、今の言葉が頭の中に回る。

水浸しの床に、行き場のなくなったハンカチが、はらりと落ちた。
それに目を向ける余裕もない。
一人そこに取り残されたあたしは、近くにいる社員たちに、ちらちらと視線を浴びさせられる。


や。だって。どういうこと?


ようやく、事の全てが頭の中で整理され始めると、身体の奥の方からふつふつと怒りが込み上げてきた。
それは一気に膨れ上がる。


ちょっと待ってよ!
なんなの、アイツ!! 信じらんないっ!
何様!?
このあたしに、何言った!?

邪魔?
ふざけんなっ!!


遠目から一部始終を見ていた菜奈とミカが、茫然と立ち尽くすあたしの横にと来る。


「うわぁ。かなり上手。
瑞穂の色目に引っ掛かんないなんて」


ミカは、あたしに追い打ちをかけるように、感嘆してヤツの背中を目で追った。
ぎりっと、噛み締めたあたしの奥歯が小さく鳴る。


「……ムカつく……っ」


いつもよりもずっと低い声のトーンで呟くように言うと、菜奈とミカは、「え?」と不思議そうな声を上げた。
あたしはそんな二人をキッと睨み上げてから、ガラスの破片も水浸しの床もそのままに、ずかずかと先に席に戻った。


ムカつく。
ムカつく。
ムカつくっ。

こんなの、あたしのプライドが許さない。


――ニラサキ コウ。

絶対、絶対。
痛い目見せてやるんだから――。

 

update : 2009.01.31