「ふ……っ」
涙と一緒に、膝から崩れた。
身体から、力が抜け落ちて。
コンクリートの床が、肌に刺すように冷たい。
「菜奈ちゃん」
大丈夫? と、菅野くんの手が差し伸べられた。
だけどあたしは、目の前の温かな手を取らず、かぶりを振った。
「ごめんなさ……」
ううん、と菅野くんも同じように首を横に振る。
そして、床に座り込んでいるあたしの目線に合わせて、菅野くんも座り込んだ。
「俺がココに来ちゃったから、問題を大きくさせちゃったしね。
二人の間に割り込む趣味はないけど、話、訊くまで帰れないよ?」
「菜奈ちゃんも海斗も、相変わらず意地っ張りって言うか、何と言うか」
菅野くんは、コーヒーの入ったカップを持ち上げながら、苦笑いした。
絶対帰らないと言う菅野くんに、さすがにこの時間に家の中に招き入れるのはどうかと思い、近所のファミレスに来た。
最初は、こんなことを菅野くんに話せないと思っていたのに、訊き上手の上、更に誘導も上手い菅野くんに、結局いつの間にかほとんどのことを話してしまった。
対面に座る菅野くんがカップを口に付け、ソーサーにそれを置き直すと、コーヒーの香りが微かに鼻を掠める。
あたしは、手元のなみなみと入っている黒い液体に目を落とした。
もうとっくに、温かな証拠の湯気は消えている。
「酷いこと、言った、って思ってる。
でも……海斗だって、酷い。他に女の人、いるくせに……。
もう、やだ……」
言っていて、愚痴ばかりだなぁ、と思う。
分かっているのにどうしても、自分の感情ばかりを吐露してしまう。
そんなあたしに呆れたのか、菅野くんは、ふう、と大きく息を吐いた。
話して、と、訊いてきたのは菅野くんだけど、きっと良い気分ではないと思う。
「菜奈ちゃん」
まるで諭すかのように名前を呼ばれ、ちくりと胸が痛んだ。
目を上げると、菅野くんはにっこりと笑ってこちらを見ていた。
「俺はさ、海斗が好きなのは、菜奈ちゃんだって思ってるよ」
「………」
「菜奈ちゃんは、そう思えないの?」
「だって……!
じゃあ、あの人は――」
菅野くんの右手がストップ、と、切羽詰まったようなあたしの顔の前に立ちふさがった。
そして、首を傾げて反問してくる。
「本人に、ちゃんと訊いた?」
「―――」
「訊いてないでしょ?」
「……そう、だけど……っ」
「さっき、海斗が俺を見て誤解したのと、同じような理由かもしれないのに?」
誤解?
菅野くんは、あたしの目をまっすぐに見て言った。
「好きなら、簡単に手放すな。
他人の言ってることや、見たことだけに惑わされるなよ」
「―――」
“惑わされるな”
ホントだ。
あたし達、二年も付き合ってきたのに。
海斗本人に、訊いたわけじゃないのに。
口は悪いし、甘い言葉を言ってくれるわけじゃないけど、本当は凄く照れ屋で。
言葉にしなくても、あたしのことを大切にしてくれていたのは、節々の態度で感じてた。
なのに、あたしは海斗に酷いことを言った。
憶測だけで決めつけて。
まるで信用をしていないみたいに。
会社を辞めることも引っ越すことも、あたしに言えない理由があったのかもしれないのに。
「菜奈ちゃんに、そんな顔させるために来たんじゃないんだけど……。
半分は俺のせいでもあるんだよな、事を余計に大きくしちゃったし。ゴメン……」
頭を下げる菅野くんに、あたしは、ううん、と首を振った。
「あたしが……あたしが、いけないの。
菅野くんがいなくても、きっと同じことを言ってた。
大切なこと、気付かせてくれてありがとう」
今度は菅野くんが、ふるふると首を振る。
「菜奈ちゃんには海斗のこと、しっかり捕まえててもらわないと、困るんだよね」
「捕まえてて?」
不思議に思うと、菅野くんは呟くように言った。
「おせっかいなんだけど。
彼女も、二人のこと、気になって仕方ないんだ」
「彼女……?」
「なんせ、ずっと海斗のことが好きだったんだから」
菅野くんは、苦い顔であたしにむかって笑う。
「え……?」
「まぁ、吹っ切れてるから、コッチに帰ってきたんだけどね」
それって、もしかして……。
尋ねるように菅野くんの顔を見ると、彼はテーブルの上でゆっくりと指を組み、その上で満面の笑顔をしてみせた。
「だから二人には、オレも彼女も、上手くいって欲しい、って思ってるんだよ」
「………」
「菜奈ちゃんなら、どうするべきか、もう分かってるよね?」
菅野くんの言葉に、あたしは立ち上がった。
そして、あたしも笑顔を向ける。
あのときも、二人の背中を押してくれた菅野くん。
「菅野くん、ありがとう。
未知花さんにも、よろしくね」
あたしは海斗の家に向かった。
もう、帰っているだろうか。
携帯は、繋がらない。
きっと、電源を切っている。
ちゃんと、会って話をしなきゃ。
ちゃんと、謝らなきゃ。
いなかったら、帰ってくるまで待てばいい。
閑静な恵比寿の住宅街。
自分の足音だけが、夜空に響いて上がる。
来たのはほんの何回かだけど、道も覚えている。
遠目に見えてくる、三角の屋根。レンガ造りの塀の向こう側にあるのは、大きな黒い木の影。
あれはシュロの木だって知ってる。
その細長い葉が、緩やかな風でざわざわと揺れている。
足音がもう一つ、耳に入った。
ペタペタと、踵のない靴の音は、こちらに近づいてくる。
もしかしたら海斗かもしれないと目線を音の方へと移すと、女の人の影が見えた。
その足下にはもうひとつ小さな動く影。
どうやら犬の、散歩らしい。
海斗じゃない。
――そう思うと、その人影は海斗の家の前で止まった。
どくんと、心臓が鳴った。
あたしも思わずそこで足が止まる。
急に音のなくなった中で、その人影が、ゆっくりとこちらを向いた。
防犯灯の灯りで映し出された顔は、白くハッキリとしていた。
“カナ”さん。
何でココに……。
海斗が呼んだの?
心臓の動きが途端に速まる。
どうしようかと思案に暮れると、彼女は海斗の家を通り過ぎ、あたしの方へと近づいてきた。
彼女の足音と、あたしの心臓の音が重なる。
「こんばんは」
彼女の高い声が、言った。
思っていたよりもずっと、明るい口調。
「こん、ばんは」
同じように返すと、ただじっとあたしを見つめてくる。
また少しの間が空いて、彼女が言った。
「菜奈、さん、でしょ?」
「え……」
「知ってる」
そう言うと彼女は子犬を抱き上げ、余裕にも取れる薄い笑みをして見せた。
アプリコットカラーをしたトイプードルは、気持ち良さそうに頭を撫でられている。
胃のあたりが、きりきりとする。
それでも「あたしも、知ってます」と、まっすぐ彼女を見て言った。
「カナ、さん、ですよね?」
彼女は、子犬からあたしの方へと目を上げた。
と思うと、急にさもおかしそうに笑い出す。
「やだなぁ、誰から聞いたのぉ?」
「偶然、知っただけです」
「じゃあ、今日はあたしに会いにきたの?」
「海斗に会いにきたんです」
「渡さない、って言ったらどうする?」
挑戦的な目があたしを見る。
子犬の頭を撫でていた手は、いつの間にか緩やかに膨らみを帯びたお腹へと移っていた。
ゆっくりと優しく上下する掌は、あたしへと見せつけている。
だけどもう、あたしは海斗を信じるって、決めた。
カナさんのことは、海斗本人から訊けばいい。
もう、他の人の言葉や、ただ見ただけのものには、惑わされたりなんてしない。
あたしが、好きなんだから。
好きな人を、信じたい。
今迄の、時間も、繋がりも。
「海斗が決めることです。
あたしは海斗を信じてます」
ハッキリと、言った。
自分の中でも、すっとするくらい。
カナさんは、目を丸くする。
「……ふっ」
また、笑ったのかと思った。
だけど、違った。
急に苦しそうに顔を歪めたカナさんは、がくりとアスファルトに膝をついた。
手の中から子犬が飛び降り、彼女はお腹を抱えて、ううっ、と唸り出す。
「どうしたんですか!?」
あたしも膝をついて、彼女を覗き込む。
「お腹……痛……赤ちゃんが……」
「えっ!?」
「痛い……っ」
ぎゅっと苦しそうに目を瞑った彼女の額からは、脂汗が滲み出ている。
一目見て、相当な痛みなのだと感じられるくらいだ。
どうしよう……!
「病院! 救急車、今呼びますからっ!」
慌ててバッグから携帯を取り出す。
ボタンを押そうとすると、彼女の冷えた手があたしの腕を掴んだ。
「……いと、が……」
「え?」
「海斗が……家にいるわ……。
呼んで、きて……」
――海斗が。
「待ってて下さいねっ!」
あたしは立ち上がり、数メートル先の海斗の家まで駆け出した。