『オンナ、だね』
「分かってる、ってば……」
『海斗くんならやりかねないなぁ』
「そういうこと、言わないで……」
テーブルに顔を伏せたまま答えると、受話器の向こう側で瑞穂はくすくすと笑った。
一人でいるとどうにもならない気持ちになって、あたしは家に帰ると瑞穂に電話をした。
こういう言いにくいことも、さっくり言ってくれちゃうのは、やっぱり瑞穂らしい。
『まぁねぇ。もう、二年だっけ?
そろそろお互いに飽きる頃だもんねぇ』
「あたしは飽きてないもん……」
『じゃあ、信じれば?』
「信じられない……」
『へぇー。好きなのに、信じられないんだ?』
「………」
――“好きなのに”
言われたことは、もっともだ。
返答が出来ないでいると、瑞穂は冷めたように言った。
『確かにさぁ、海斗くんって、いかにも遊んでましたって感じでさ。
簡単に女の乗りかえしそうだもんねー。
浮気とか、ガンガンしそうじゃん?
菜奈、そういうの、許せないタイプでしょ?
見えないところでやってるかもねぇ』
「そんなに言わないでよ!
確かに海斗は、あたしと付き合うまで色んな女の子と遊んでたみたいだけど。
でも、それはずっと好きだった未知花さんのことが忘れられなくて、自暴自棄になってて。
そういうの、知ってるし。知ったから、そういう一途な面が余計に好きになったし。
あたしと付き合ってからだって、浮気なんてしてないもん!」
つい怒ると、瑞穂は、ふふっと笑い声を漏らした。
そして、今度は優しく言った。
『じゃあ、信じなよ。
ごくごく、シンプルじゃん?』
――信じる?
あたしも、そう思ってる。
そうしなきゃ、駄目だって思ってる。
だけど、じゃあ、あの状況をどう受け取ればいいの?
今も、あのひとといるの?
『気になるなら、もう一度電話、してみれば?』
「電話……」
『さりげなく、だよ。
問い詰めるようにしちゃダメ』
「………」
あたしは瑞穂との電話を切ると、そのまま海斗の番号を開いた。
正直、勢いみたいなものもあった。
瑞穂に言われなければ、きっとすぐに電話をかける勇気が出なかった。
だって、今、一緒にいるかもしれないから。
またさっきみたいに、電話を切られてしまうかもしれないから。
それとも、電源を落としたままかもしれない。
だけど、信じたい。
ふたつの相反する気持ちが混在している。
迷いを打ち消してボタンを押すと、呼び出し音が耳元で響き出した。
電源、落としてない……。
ほっと息を吐き出す。
それでも緊張は鳴り止まない。
コールのひとつひとつが、いつもよりもずっと長く感じる。
――出て!
プッと、一度音が途切れて、どきっとする。
『あー、菜奈?』
声を聞いた途端、どっと身体中の力が抜けた。
電話の向こう側は、シンとしているけれど、微かにざわついた音が聞こえる。
多分、外、だ。
海斗が電話に出て安堵した自分と隣り合わせに、そんな風に勘ぐる自分がいる。
「う、ん。さっきも電話、かけたんだよ」
『あー、ゴメン。ちょっと立てこんでて』
立てこんでて?
それは、あの女の人と一緒だったから?
「そうなんだ、ゴメン。
今は平気なの?」
『ん。今、家に帰るとこ』
海斗の言葉に、またほっとする自分がいる。
だけど「ねぇ」と、あたしは続けて訊いた。
「こんな時間まで仕事だったの?」
ほんの、一瞬間が空いた。
『あー……仕事終わってから、ちょっと、姉貴んちに行ってた』
「お姉、さん……?」
『ああ』
お姉さん?
あの人が?
本当に?
“カナ”さんって、言うの?
お姉さんだったら、大事にして、って言われてもおかしくないけど……。
でも……じゃあ、どうして電話を切ったの?
「えっと、お姉さんって、看護師さんしてるんだったよね?
一人暮らしなの?」
『んー、そう。
それはいいけどさ、悪かったな、今日は。
で、何か用事だった?』
あたしが勘ぐっているなんて思ってもいないような声で言う海斗に、一瞬どうしようかと思う。
「ただ、声、聞きたくなって……。
最近、なかなか会えないから」
『……うん』
「………」
次はいつ会える、って、訊いていい?
『ごめんな』
言おうと思ったら、海斗がそう言った。
それは、今日会えなかったから?
またしばらく会えないから?
それとも、違う意味を含んでるの?
笑って『いいよ』って、言わなきゃ。
だけどなかなか言葉が出なくて。
じりじりと沈黙が続いたあと、海斗は言った。
『来週、会おうか』
「え……」
『月曜の夜でもいい?』
月曜の、夜。
その日は――……あたし達が、出逢った日だ。
そして、付き合い始めた日。
電車の中で、痴漢って勘違いして。
格好良いけど、最悪なヤツで。
合コンで再会して、ただの意地の張り合いで始まった。
だけど、あたしにとっては大切な日。
あたし達の始まりの日だから。
土曜でも日曜でもないその日を選ぶのは……もしかして、覚えていてくれてるの?
海斗にとっても、大切な日だって――。
「うん! 空けとく!」
海斗のたったそれだけの言葉で、あたしの気持ちはすうっと軽くなった。
ねぇ。
信じていよね?
あたしは――海斗のたったひとりの彼女だよね?
月曜日。
あたしは仕事が終わると、先週取り寄せをしてもらった『sweet rose』のワンピースを取りにショップへと向かった。
早めに行って、買ったらそのワンピースに着替える予定だ。
着てたら、海斗、驚くかなぁ?
待ち合わせの時間まではまだまだ余裕がある。
それでもやっと会えると思うと、どうしても気が逸る。
百貨店内に入り、ショップのある階のフロアーを歩いていると、どこかで見たことのある二人組の女の子が前から歩いてきた。
一人は、すぐに分かった。
――三河あかりさん。
“カナ”の、友達だ。
あたしを接客したんだから、あのときの客、って、もしかしたら気付かれるかもしれない。
緊張する。
どうしてだろう。
ただの、お姉さんの、友達じゃない。
なのに、何で?
普通にすればいい。
それに、あたしが海斗の彼女だなんて知るはずがないし、ただのお客の一人でしか過ぎないんだから。
だけど、普通ってどうやって?
どうしよう、と思っていると、向こうは気付く素振りもなくあたしの横をすり抜けていき、そんな心配は無用に終わった。
ほっと、胸を撫で下ろす。
二人とも透明のビニールバッグを持っている。
早番でもう上がるのか、それともこれから午後の休憩にでも行くらしい。
今のうちに、ワンピースを取りに行けば、気を張らなくてすむし、ちょうどいい。
そう思ったときだった。
「三河さん、大野さんの話って、本当ですか?」
その名前が耳に入って、思わず足を止めた。
「会社、辞めちゃうって話」
え?
反射的に振り向く。
あかりさんはほんの少しだけ沈黙して、怪訝な顔で彼女に反対に訊き返した。
「どこから聞いたの?」
「ウチの担当が変わるって話を聞いたちょっとあと、噂になってますよぉ。
何でも、彼女のために辞めるとか?
でー、わざわざ恵比寿から千葉だかに引っ越すとか?
もしかして、結婚でもするのかなぁーって、スタッフの噂なんですからぁ。
ああーっ! ホントならショックぅ!」
息が、止まった。
会社を辞める?
引っ越す?
彼女のために?
何、それ……
知らない。
あたし、そんなの、知らない!
「あのっ!」
勝手に、声と手が出ていた。
自分でも知らぬ間に掴んでいた、あかりさんの腕。
彼女は何事かと目を丸くして、あたしを見つめてくる。
あたしはハッとして、すぐに手を放した。
「あ、すみませんっ!」
「いえ、どうかなさいました?」
「……あの」
一瞬、訊いていいのか躊躇した。
だけどもう、訊かずにはいられなかった。
「大野さんて、会社辞めちゃうんですか?」
「え? あ……営業の、大野のお知り合いですか?」
「はい。すみません、知り合いなんです。
今、話が聞こえて驚いて」
「そうなんですか、」と彼女はあたしに微笑した。
「何でも、今月いっぱいで辞める、って、先日辞表を出したらしいんですよ」
今月いっぱいで辞める?
辞表を出した?
あたし、聞いてない……!
「そう、ですか……」
ありがとうございました、と頭を下げると、二人はすぐに行ってしまった。
あかりさんは、少し納得をしていないような顔を覗かせたけれど、先日の客だとは気付かなかったようだ。
緊張したのは――嫌な予感だったんだ。
これは、きっと、女の勘。
あたしはその場ですぐに麻紀に電話をかけた。
『はい』と、麻紀の落ち着いた声が出る。
いつもと違うトーンに、仕事中だったんだ、と気遣う余裕さえなかったことに気付いたけれど、もう今更だった。
「ゴメン、仕事中だった?」
『菜奈? うん、どうしたの?』
「ちょっとだけ……変なこと、訊いていい?」
『うん?』
「海斗のお姉さんの名前、知ってる?」
――『優しい海って書いてユウミ』
“カナ”じゃなかった。
海斗は、あたしに嘘を吐いた。
お姉さん、じゃ、なかったんだ。
会社を辞めることも、引っ越すことも言ってくれなくて。
仕事が忙しいって、あたしと会おうとしないで。
約束を破って“カナ”と会ってた。
ああ、そうだ。
ちゃんと考えてみたら、土曜日だって日曜日だって、会えないなんてオカシイじゃん。
お店はやってる、って言ったって、本社は休みでしょ?
元々、休日のはずでしょ?
何を……我慢してたんだろう。
海斗は今忙しいんだから、って、会いたいのも、電話も、メールも。
自分にそう言い聞かせて。
信じようと、思ったのに。
何よ、これ……。
だって、何を信じればいい?
あたしはもう海斗の彼女じゃないの?
海斗の今の彼女は“カナ”なの?
カナは妊娠してて。
カナのために。一緒に住むために引っ越すの?
嫌だ、こんなの。
それなら何でハッキリしてくれないの?
言ってくれなきゃ、分かんない。
きちんと、言って欲しい。
――嘘。
嫌……。
言われるのも、怖い。
別れるとか、考えられないし。
もう、どうしたらいいのか、分かんない!
握り締めたままの携帯に目を落とし、ひとつずつ、ボタンを押した。
わざわざアドレス帳を開かなくたって、履歴から引っ張らなくたって、分かる。
頭の中だけじゃなくて、指も自然と覚えてる。
海斗の、携帯の番号。
ワンコール、ツーコール……珍しく早く、そこで海斗の声に切り替わる。
『菜奈?』
「……うん」
『どうかしたのか?』
心配そうな、海斗の声。
約束よりもずっと時間は早いから、何かあったのかと思ったのかもしれない。
けれど、あたしは構わず言った。
「今日、行かれない」
『は? ゴメン、まだ仕事中で――。
ちょっと、待っ――』
「だから! 行かないから! 仕事、してればいいじゃん!」
そこで電話を切った。
海斗の返事を聞く間も持たなかった。
馬鹿みたい。
こんなことをしたら、余計にあたしから離れてくのに。
だけど会えない!
今、会いたくなんかない!
携帯の電源を落とし、まっすぐ家に帰った。
部屋の中の明かりもつけないまま、電話線も引っこ抜く。
そして、そのまま倒れるようにベッドに横になった。
そういえば、取り寄せのワンピースのこと忘れてた、なんて思い出す。
可愛くて欲しかったけど、もういいや。
もう、知らない。もう、どうでもいい。
ベッドのすぐ脇の窓から、月が見える。
あのときと、似てる。
未知花さんの元に行かせた、あの日と。
目を瞑った。
何もかも、見えないように。塞いでしまうように。
何かをする気力も起きない。
眠ることも出来ないまま、ただ身体を横たわらせていた。
どのくらい、そうしていたのか。
いきなり鳴ったインターフォンの音で、どきっとしてパッと目を開けた。
――海斗?
すぐにぎゅっと目を瞑り直す。
――知らないっ!
掛け布団の端を握り締めると、もう一度、短くインターフォンが鳴った。
知らないんだから!
そう思うのに、心は迷ってる。
どうしようもなく、脈拍が高まる。
ベッドから動けないでいると、足音がした。
じりっと、その場を踏み締めて、それが遠のいていく音。
あたしは思わず、立ち上がった。
もう、何かを考える余裕もなく玄関へと走った。
「待って!」
ドアを、開ける。
「やっぱり、いたんだ?」
見透かしたように、その人物は振り返って、笑った。
「菅野くん……」
どうして? と訊く前に、あたしに紙袋が差し出される。
『sweet rose』の、袋。
「これ……?」
「店で見かけたんだ。
コレ、忘れたでしょ?
て、言うか、買って帰れなかった? 何かあった?」
「何で……」
「取り置きの名前、菜奈ちゃんって見つけちゃって。
俺、今度海斗の代わりにあの店の担当になるからさ。今日、店にいたんだ」
海斗の代わりに……菅野くんが?
あは、と、苦笑いが勝手に漏れる。
「菅野くんも……そっか、知ってるんだ? 海斗が辞めるの。
そうだよね。同じ会社だもん、知らないわけないよね……。
知らないのなんて……」
「えっ」
菅野くんは、まずいことを言ったと思ったのか、そこで口ごもった。
あたしは、首を振った。
「ありがとう、わざわざ持ってきてくれて。
お金、払わなきゃね。
あ、ちょっと待ってね」
財布を取りに行こうと、玄関から家の中に足を踏み入れた。
すると、急に後ろから腕を取られた。
驚いて、あっ、と思わず持っていた紙袋を落としてしまう。
バサッと音がして、袋の中からワンピースが床に滑り出た。
「菅野、くん?」
「海斗と、何かあった?」
菅野くんは何かを見透かしていそうな、そんな目をしている。
まっすぐに、真剣に、あたしを見つめてくる。
「店で菜奈ちゃん、凄く青い顔して泣きそうだった。
マネージャーと一緒だったから、声、かけられなかったんだ。
そうしたら、店に取り寄せのワンピースがあるじゃん?
今日来店予定って書いてあったのに取りに来なかったから、どうしても気になって」
「………」
もう、あれから二年もたつ。
菅野くんとは、海斗や麻紀を通して一緒に、数回会った。
何もなかったように、普通の態度で、普通に笑って。
あたしのことなんて、もう別に何とも想っていないのも、分かってる。
だけど、またこんなときだけ、菅野くんに頼るなんて……。
何でもない、そう言おうとしたときだった。
ハッと、息を飲んだ。
階段を上る音が聞こえてきて、すぐに海斗の姿が見えたのは。
「何で、菅野がいるんだよ?」
海斗が驚いた顔でそう言って、菅野くんの腕があたしからパッと離れた。
「あー、俺は……」
「何? それ」
菅野くんが言いかけたところで、海斗が遮る。
海斗の視線は、つい今落とした『sweet rose』の紙袋にあった。
その袋から散らばって床に広がっているワンピース。
鋭い目つきが、すぐにあたしへと移った。
「今日会わないって――菅野と会うため?
携帯も、家の電話も切ってたのって、コイツを家に呼ぶためかよ?
何で手なんて握ってるんだよ」
「あたしは――!」
「しかもそれ、欲しかったワンピだろ?
菅野に貰ったんだ?」
違う、と言いかけて、その言葉を飲みこんだ。
ワンピのことも、あのとき、聞いてたの?
それでも、聞いてない振り、したの?
だって――じゃあ、海斗は何?
あのひとは、何?
あたしと会わないで、彼女とは会ってたクセに!
「そうだよ、菅野くんは優しいもん。
海斗なんかと違うもん。
海斗みたく、浮気とか、そういうのだって、きっとしない」
「はぁ?」
「どうせ、海斗はそういうの、全然平気なんでしょ?
それとも、あたしじゃなくて、他にもう違う本命のコが、いる?」
海斗は、きゅっと唇を噛んだ。
――と、思った途端、バンっと壁を殴る大きな音がして、あたしは瞬間的に目を閉じた。
「そーだな」
冷えた声がしたときには、もう遅かった。
海斗、と菅野くんの声が言ったけれど、返事はなかった。
金属の階段に作られる足音が、空に上がって響く。
あっという間に、海斗の姿は見えなくなっていて。
何てこと、言っちゃったんだろう。
酷いこと、言った。
だけど――否定して欲しくて。
違うって、言って欲しくて。
本当は、好きだから。
あたしは、海斗しかいないのに。