彼女がどうだとか、どんな存在だとか、そんなことは忘れてとにかく急いだ。
家の門を押し開けると突っ切り、玄関のインターフォンを押す。
だけど、すぐに反応がない。


海斗! 出て!


ほんの数秒がずいぶんと長く感じ、焦慮する。

どうにかしなくちゃ、という焦りが先行して、ここが海斗の実家だということも忘れ、何度もインターフォンを押した。


お願い! 早く出て!
相手があたしだから出てくれないの!?


「海斗ってば!!」


泣き叫ぶように声を上げた途端、ドアが音を立てた。


「何だよ」


少し開いたドアの隙から、面倒くさそうに海斗の目がこちらを見て言った。
怒っているとも呆れているともとれる表情だ。
だけど今、一刻を争うかもしれない状態で、あたしだからと拒否されたら困る。
あたしはドアを閉じられないように、掴んで強引に開いた。


「カナさんが――!
とにかく、大変なのっ!」

「はぁ?
カナ……って――何で――」

「そこで倒れたの!
お腹が痛いって、赤ちゃんがっ!
早く病院に連れて行って!」


瞳を見開いたかと思った途端、海斗は走り出した。
あたしの横を通り過ぎたのなんて、一瞬だった。
背中さえ、すぐに見えなくなる。
手を放したドアが、後ろで勢いよく閉まった音が響いた。

バタバタとした音と声が、向こうから聞こえてくる。


大丈夫。
これできっと大丈夫。


「……っ」


安心したのか、何なのか、急に涙が溢れ出して、身体の力が抜けた。


安心?


嘘。
違う。
これは――


「菜奈!」


走ってくる足音が近づいたかと思うと、海斗があたしの名を呼んだ。
腕が、掴まれる。


「オマエも来い!」


強引に、ぐいぐい引っ張られる。


「えっ……!?
ちょっ……! 海斗っ!?」

「いいから、一緒に来い!」

「だって――!」

「オマエ、オレと話するために来たんだろ!?
オレもオマエに話があるんだよ!」


それって、三人で、ってこと!?


「こんなんで、オマエのこと置いてけないし!
これ以上、こじれるの、嫌だからな!」


乗れ、と。海斗の車の助手席が開けられる。
彼女は、後部座席で横になっていた。

息を飲んで乗り込もうとすると、座席にはさっき彼女が抱いていた子犬がちょこんと座って待っている。
どうしていいのか躊躇すると、反対側から運転席に座った海斗があたしを見て言った。


「菜奈、カナのこと、抱いてって」

「え、あ、うん――」


――て。
カナ!?


思わず、子犬を凝視する。


「ちょ……っ、カナ!?
この子犬、カナって言うの!?」

「え? オマエ、さっきカナって言ってたじゃん。
知ってたんじゃないのかよ?」


きょとんとした顔で、海斗が答えた。
後部座席で、クククっと、笑いを堪える声のあとに、痛てて、と続けて彼女が言った。


「ごめんね、菜奈ちゃん」

「姉貴の仕業かよっ」


海斗が瞬時に後ろに怒鳴り返す。


――姉貴!?


パッと、後部座席を見る。

こうしてよく見てみると、似ていないけれど、分からないでもない。
目の感じも違うけれど、鋭さとか、どことなく似ている気がしないでも――。

だけど、まさか……!?
確かに、海斗はあのときあたしに“姉貴”って言ったけど――。


彼女は痛みを耐えながら、くっくと楽しそうに笑った。


「勘違いしてるみたいだったから、つい面白くてぇ、悪乗りしちゃっ……っ、た、痛た……」

「ざけんな!
あー、もう! だから絶対会わせたくなかったんだよ!
つーか、病院着くまで頼むから後ろで静かにしててくれ!」


海斗が怒鳴ると、はあぃと、彼女は悪びれた様子もなく、悪戯っぽく返事をした。


――って。
どうなってるの!?














「切迫早産で入院。
このまま落ち着くまで絶対安静らしいけど、赤ん坊は、大丈夫だって。
姉貴の相手も今日夜勤だったから、ちょうど院内にいたし任せてきた。
両親は旅行中で留守だったんだけど、もう連絡もついたから」


悪かったな、と、夜間外来から戻ってきた海斗は、車に乗り込みながら言った。
バタン、と勢いよくドアが閉まる。


「そっか、良かった……」


ホッと、安堵の息を吐く。
犬はさすがに院内には連れていけないし、あたしはこのコと駐車場の車の中で待っていた。
ココはお姉さんが働いている総合病院だそうだ。
お姉さんの彼は、同じ院内の医師らしい。


「つーか、さ」

海斗は横目でじろりとあたしを見てくる。


「何を誤解して、オレに酷いコト言ったわけ?」

「や、だから、あの……」

「姉貴のこと、浮気相手と思ったんだ?
しかも、孕ませたとか思ってたんだ? へぇー……オレってスゲエな」

「え、だって……お店の人が、海斗に『カナのこと大事にして』って言ってるし。
そのドタキャンされた日、あたし待ってたの、お店の前で。
そしたらお姉さんと腕組んでるし、電話したのに切られるし」

「どうせオレは浮気とか全然平気なヤツだもんなー。
そんなヤツのこと、信じられないよなぁ?」

「ご、ごめん……!」

「菅野みたく優しくないしなぁ、誠実じゃないって?」

「や、だからそれは、言葉のアヤって言うか……。
本当にゴメンなさい!」


頭を下げた。

シン、としてる。


怒ってる?
怒ってる、よね……。


恐る恐る顔を上げると、海斗は窓の外を見ている。
駐車場の端に立つ大きな木はイチョウだ。
生い茂った扇形の葉が、ざわざわと風で音を奏で出す。

ピリピリとした空気を緩和するようにあたしの膝の上で、カナがくぅんと、甘い声を出した。

あたしは息を吸い込んで、言った。


「菅野くんは、取り寄せしてたワンピースを、家に届けてくれたの。
あたしのこと、お店で偶然見かけたみたいで、様子がおかしかったから心配してくれて、ただそれだけ。
それに、彼には今、彼女がちゃんといるし」

「………」

「酷いこと言って、ごめんなさい。
しばらく会えなくて、電話とかメールとかも海斗からはほとんどなくて……不満っていうか、不安になっちゃって。
そんなときだったから、そうなのかなぁって思ったんだけど……。
でも、やっぱり、海斗のこと信じたい、信じようって、思ったの。
きちんと海斗自身から話を訊きたいって。
だから、謝りにきたの」


海斗は、ふう、と小さく息を漏らす。
そして、あたしの方を向いて言った。


「カナは、その店のヤツ――姉貴の昔からの友達なんだけど、あかりってヤツから貰ったんだ。
オレが犬欲しいって言ってたから」


あかりさんから、貰った?


「海斗が?」

「ああ。ウチって母親がアレルギーなんだ。だから姉貴に預けてた。
あの日は、急に姉貴が遅くてもいいから、カナに会いに来いって言うからさ。
それに、あの女、あの調子だから。マジで昔からああいうヤツだから。
オレのこと、オモチャみたいに思ってんだよ。腕とかも、わざと組んできて、振り解けないように耳元で嫌み言うんだよ、あのときもな。
アイツの前でオマエと電話なんかしてみろよ。何言われるか分かんねぇ。
それで、あとでかけ直せばいいや、って電話切ったんだ。
大体、カナだって元々は”ナナ“って名前付けたんだぞ! アイツ!」

「えっ!?」


ナナ?


「そーゆーヤツなの!」


海斗は半ば自棄になって言い放つ。


そ、そーなの?


「じゃあ、引っ越すのはカナのため、なの?
会社辞めること、あたしに黙ってたのは……?」

「姉貴、看護師じゃん?
産後すぐ復帰したいんだって。
で、式はしないけど籍入れて、落ち着いたらウチに同居するんだよ。
そのために、母親も最近仕事辞めてさ。
オレ、邪魔になるからさ、家出ようかなって。
まぁ、それがきっかけで、色々考え出して……将来の、コト、とか」

「将来……?」

「んー……だから……さぁ……」


海斗は一度口ごもって、じっとあたしを見た。


「やっぱ、いずれは、とか、思うじゃん?」


えーと……。
“いずれは”って……。
それって、もしかして……。

あたしとの、こと……?


「じゃあ、何であたしに黙ってたの?
仕事辞めることも、引っ越すことも。
言ってくれれば良かったのに……!」

「カッコ悪いだろ」

「え」

「ちゃんと、全部決まってからにしないと」

「何が?」

「だから……」


ああ、もう、と海斗はひとつ息を吐く。


「これからのこと考えたら、ずっと今のままじゃどうかなって思って。
アパレルって給料もいいわけじゃないし、先のことを考えたら、もっと給料も良くて、不安のない会社のほうがいいって、就職活動してた」

「だからずっと、忙しいって言ってたの……?」

「……で。あとは、家。
海が近くて、静かで。古くても広くて、犬が飼えるとこ、探してた。
そういう生活って、昔から憧れてたし。
そしたらちょうど、あかりが子犬が産まれたからくれるって。
急だったから、家が決まるまで、姉貴のトコで預かって貰ってたんだよ。
カナのことも言わなかったのは、全部決まって菜奈を連れてったら、驚くかな、とか思って――つーか、驚かせたかった、つーか……」


そうだったんだ……。
だけど……。


「言って、欲しかった……」

「………」

「カッコ悪くなんて、ないのに……」

「………」


海斗は返事をしないまま、あたしを見る。

そして、大きな手で、あたしの掌を包んだ。
冷たい感触。小さな……。


「決まったから」


海斗は一言言って、手を離す。
あたしは掌を開いた。


――鍵。


「いつでも、来いよ。
居心地良すぎて帰りたくなくなったら、帰んなくてもいいんじゃね?」

「え……」

「コイツも、待ってるし」


ポン、と、膝の上のカナの頭に海斗の掌が乗って。
それとは反対の手が、あたしの頬に触れた。
そして、今度は鼻先が触れたと思うと、すぐに唇に海斗の唇が重なる。


――もう、ホントに。
なんてヤツ。

自分勝手に決めちゃって。
海斗らしいって言うか。

――めちゃめちゃ嬉しいじゃん!


熱い気持ちが内側からじわじわと込み上げてきて、堪らなく好きだという気持ちが込み上げた。
それは抑えようがないくらい膨らんで、あたしは海斗の胸元のシャツを強く握り締めた。
海斗の指は、頬からすうっと耳を撫で、髪を梳くようにまさぐってくる。
もっと、と口づけを深くする。

お互いを味わい尽くすように、唇を、舌を、何度も絡め重ね合わせた。
ふと離れた瞬間に、思わず海斗、と、うわごとのように名前を零す。

息が切れるほどキスを繰り返し、唇が離れると、首の少し後ろのほう――いつもの場所に、海斗はキスを落とした。
照れ屋で、こういうときだけは何も言わない海斗の――言葉のかわり、に。


「泣くなよ」


海斗の言葉で、いつの間にか溢れ出していたモノに気付く。


「……だって」

「オレも、悪かったってば」


そうじゃないのに……な。

本当は、嬉しいから、なのに。


ごしごしと、生温かい涙を手の甲で拭うと、海斗はその手を取った。
そしてそのまま、残った手はあたしの頭を手繰り寄せた。
まるで涙を塞き止めるように、海斗の胸に顔が押し付けられる。
温かくて、安心出来る、あたしの場所。
物凄くホッとして、あたしはそのまま身体の力を抜いて、海斗に寄りかかった。


「これからも、さ。きっと、こうやって喧嘩したり、色々あるだろうけどさ。
オレは、一緒にずっといるのは菜奈だったらいいな、って思ってるよ」


海斗が、言った。

ただ耳から聞こえるだけじゃなく、触れている海斗の身体から震動して、あたしの中に響いた。

いつもは、こういう言葉をくれない海斗。
だけど、大事なときには、こうやってちゃんと伝わる言葉をくれる。


「……うん。あたしも」


あたしも、きちんと伝えよう。
溜めこんでばかりはやめよう。
お互いをもっともっと、理解し合うために。


「ねぇ、海斗、好きだからね」

「え」

「好き。すっごく、好き」

「………」

「あたしね、ずっと海斗と一緒にいたい。
いつも一緒にいられたら、って思ってる。
会えない間も、寂しかった。早く会いたいって思ってた。
寂しくて、死にそうだったの」


握られている手に、力をこめた。
すると、同じように、海斗もぎゅっと握り返してくる。


「菜奈」


名前が呼ばれたかと思うと、また強く抱き締められる。


「好きだから、な」


キャン、と、カナの鳴き声が海斗の声と重なった。
咄嗟にあたし達はぱっと身体を離すと、カナが膝の上から落ちた。
運転席と助手席で、少し無理な体勢をしていたせいか、苦しかったのかもしれない。


「ごめーん! カナ!」


あたしはカナをもう一度抱き上げると、海斗の方を見た。


「今……半分聞きそびれたんだけど。
もう一回言って」

「あほ。
二度も言うかよ!」

「えっ、やだ! お願いっ!」

「言うかっつーの」

「ええーっ。そんなぁ……」


“好き”だなんて――今までに一回しか聞いたことないのに。

覚えてるのかな?
二年前、あたしに言った言葉。
次は一体いつになったら聞けるんだろ……。


がっくりと項垂れると、横で海斗が後部座席に手を伸ばした。
そして、手に取ったものをあたしの膝に乗せる。


「もう、いらないよな? ワンピース」

「え?」

「菅野が持ってきてくれたんだもんなぁ?」

「これって……」

「超、立場ねぇ……」


渡された紙袋から出てきたのは、あたしが欲しかったワンピース。
さっき、菅野くんが届けてくれたものと全く同じ、ピンクの花柄。


「ちゃんと、聞いてたんじゃん……!」

「聞いてた、つーか、眠りに落ちながら、つーか。
なんとなく、頭にオマエの声が残ってて。
そういや、今日で付き合って二年だから、たまにはこういうのもいいかな、って」


嘘……。


「覚えててくれたの……?
あたしたちが、付き合いだした日……」

「つーか、強烈で忘れられない日、つーの?」


もう!
ホントあたしって馬鹿!
こんなにちゃんと海斗に想われてるじゃない!


「ありがとう! すっごく嬉しいっ」

「菅野に貰ったやつなんか、捨てろよな」

「貰ったんじゃない、って言ってるじゃん……」

「アイツは信用できねぇ」

「彼女、いるってば」


ふぅん、と、あたしが彼を庇うのが納得いかないのか、それともその話を信用していないのか、海斗は不貞腐れて唇を突き出している。


「菜奈、相手知ってんの?」

「さあ?」


首を傾げてやった。
相手が未知花さんって知ったら、どんな顔するんだか。
あたしもやきもち妬きそうだから、敢えて黙っておくことにしよう。

だけどあたしは、何気に海斗のやきもちって嬉しいんだけどね。
それも秘密。


知らんぷりでカナの頭を撫でていると、海斗は「そういえば」と言った。


「コイツ、どうしようかな……。姉貴、入院しちゃったし。
今日は家に連れてくけど、親が帰ってきたら早々に千葉に行くっきゃないかな」

「なら、海斗の引っ越しまで、ウチに来ればいいよ。
ウチのアパート、大家さんが犬好きで、ペット平気なんだ」

「いいのか?」

「うん。だって、カナは……」


あたしの子でもあるよね?

そう言ったら、自分でも何だか物凄く照れ臭くなってしまった。

本当に、いつかそんな日が来るのかな。


海斗と、あたしの子。

……って。
アレ……?

海斗と、菜奈……。


「ねぇ、もしかして……カナの名前って――」


見上げると、海斗はパッと顔を向こうに逸らした。


「あー……」


それだけ言ったぶっきらぼうな海斗の横顔は、多分、赤い。
暗くてよく分からないけれど、絶対に、そう。


海斗の『カ』に、菜奈の『ナ』
あたし達の名前を、ひとつずつ取って合わせた名前。

つい、数時間前まで、聞きたくもなかったあたしに似た名は、本当はどれほどの意味を持っていたのか。

大好きな、ひとの。
何よりも特別な、名前。


さっき、お姉さんが“ナナ”って、名前をつけようとしたって言ってたけど……。


「カナって、海斗がつけたの?」

「姉貴だから!」


速攻返ってくる。
こちらを向いた顔は、やっぱり耳まで赤くなっていて。
駐車場の煌々と灯る白い蛍光灯が、車内に薄っすら差し込んでいて、それを教えてくれる。


それでも、了承してくれたんだ?


ふふっと、思わず笑いが込み上げた。


「嬉しい。
大事にするね」


海斗が言ったように、これから先、また喧嘩したり、泣いたり、色々あるだろう。
険しい山があって、底の見えないような深い谷もある。
だけど、それを乗り越えたとき、いままでよりもずっとずっと、絆は深まる。

大切なひととの、大切な時間。
未来に向かって、育んで行こう。
海斗と、あたしと、カナと――。


――愛してる。

そんな気持ちが、堪らなく湧き上がった。

まだ、言葉にするのには、早いのかもしれない。

繋ぎ合わせた先。
だけどきっと、お互いにそこに辿り着くはずの。
いつか自然と零す言葉。


そんな気持ちを密やかに込め、信じられないほど無垢な瞳とぬくもりを抱き締めながら、あたしはもう一度海斗にキスをした。





END

 

update : 2009.07.31