1、2、3、4、5、6、7、8……
頭の中で、無意識のうちに数をよむ。
こんなことをしているのは、今日、何回目なのか。
……23日。
千葉のデートから、3週間と、ちょっと。
……と、言葉を変換すると更に長く感じるから不思議。
付き合い出してから、会っていない時間は今回が一番長いと思う。確か。
今日は、午後の外回りがないはずだから仕事の後に、と、ようやく会う約束をしてくれた。
早く、会いたいな。
待ち合わせ場所へ向かう人混みをすり抜ける足が、浮き立っているのが分かる。
ふ、と。ショップのウインドウに映った自分の姿が目に入った。
仕事が終わってから巻き直した髪。
メイクだって一度落として、きちんとフルメイクをし直した。
半袖のピンクのコットンニットは、春先に海斗がくれた『sweet rose』のモノ。
フレンチ丈のパフスリーブが、シンプルなのに可愛いんだ。
それに合わせた、買ったばかりのティアードスカートに、リボンベルト。
変じゃ、ないよね?
思わず立ち止まって、そこに映る自分のスタイルを確認する。
そんな自分が少し恥ずかしくなって、すぐに身体の向きを変え歩き出そうとすると、結局足を止めさせられる音がバッグの中から鳴り出した。
携帯の、着信音。
――海斗だ。
「もしもし?」
『菜奈?』
「うん! 今、向かってるとこ。もうすぐ着くよ。
あ、もしかして海斗、もう着いて待ってる?」
饒舌な自分とは違って、海斗は「あー」と低い声で口ごもった。
『――ゴメン。
今日やっぱ行けそうにない』
「えっ!?」
『マジで悪ぃ。
ちょっと担当の店で呼ばれててさ、これから行かなきゃならないんだ』
嘘……っ。
やっと会えるって思ってたのに?
「何時くらいに終わるの?
あたし、待ってるよ」
『だってオマエ、明日も仕事だろ? 無理しなくていいよ。
何時に終わるか分かんねーし、待たせらんねぇ』
「だって……」
『ゆっくり会えるときでいいじゃん。
マジでゴメンって』
「………」
固唾と一緒に本当は吐き出したい言葉を飲み込み、あたしは努めて明るく言った。
「分かった。仕事、頑張ってね。
あんまり無理しないで」
やだなぁ、と思う。自分で。
海斗に言った言葉は、本心でいて、本心じゃないから。
最近、不満に感じてる。
こんな風にずっと会えなかったり、ドタキャンされたり。
それなのに、あたしは理解してる女のフリを、してる。
不平を鳴らすことはしない。一言も。
せめて、電話やメールくらいもっと欲しいって思うのに、それさえ言えないでいる。
言ったとしても、そんなことくらいで壊れる仲じゃないって、分かってる。
でも、そういうの、海斗が嫌いなタイプだって知ってるし、重たいと思われるのも嫌で……。
ああ、もう! 何暗くなってるんだろ。
ふと、百貨店のウインドウに視線が行く。
マネキンが着ているのは、目にも明るい盛夏モノのワンピースだ。
「わぁ! 凄くお似合いですーっ」
フィッティングルームから出ると、店員は、顔の前で爪の先まで手入れがなされた指を合わせ、満面の笑みを注いでくる。
全身を映し出す大きな鏡の前で、あたしはワンピースの裾を揺らしながら身体の角度を変えた。
「……うん。可愛い」
「可愛いですよねぇ。
お客様の雰囲気に、凄く良く合ってます!」
「そーかな」
「本当に可愛いですっ」
お世辞だとは分かっていても、こういう気分のときに持ち上げられるのは嬉しい。
それに、やっぱりめちゃめちゃ可愛い!
雑誌で見て、一目惚れした『sweet rose』のワンピース。
だけど、本当はコレのピンクの方が欲しかったんだよなぁ。
「このワンピース、雑誌掲載もしてるので、絶対早めに手に入れといたほうがいいですよ」
「コレ、ピンクのほうを雑誌で見たんですけど。
ピンクもありますか?」
「あー、申し訳ありませんっ。
ピンクは、ウチのショップでは完売してしまったんです」
完売……。
「そっか……」
ピンクが欲しかったのにな。
どうしようかな、と悩んでいると、店員が言った。
「本社にはもうないはずなんですけど、他のショップにあればお取り寄せしますよ」
「お取り寄せ……?」
「はい。
私も絶対、お客様ならピンクの方がお似合いだと思いますし」
自信のある満面の笑みで微笑まれる。
むずむずと、した。
大好きな『sweet rose』の服で全身をコーディネートした店員はお洒落で可愛くて。
こういう押しをされると、ついその気になって欲しくなってしまう。
決めた! お取り寄せしてもらおう!
ピンクの、欲しかったし!
「お願いします」と言ったところで目に飛び込んだ姿に、一瞬息が止まった気がした。
あたしは思わず、咄嗟にフィッティングルームの中に隠れた。
「お疲れ様です」と言う海斗の声が、ドア越しに聞こえる。
仕事上の、声のトーン。
どうやら、あたしがココにいることには気付かれなかったらしい。
……て。何で隠れる必要あるの? ないじゃん!
でも、絶対『オレの仕事中に来るな』とか言うよね?
て、ゆーか、担当の店に呼ばれて、って、ココのことだったんだ?
ドアの向こう側で、今あたしを接客していた店員と、海斗の話し声が聞こえてくる。
「コレ、客注分持ってきた」
「あー! ありがとうございます」
「あと、明後日納品分のFAX届いてる?
追加の伝票もついでに持って来たから」
「あ、はい。ありがとうございます。
チェックしておきます」
なんか。不思議。
仕事してる海斗の声とか喋り方って、こんな感じなんだ……。
お店で鉢会わせたことないし(って言うか、来るなっていうし)新たな面が知れたみたいで、妙に得した気分。
でも、やっぱり今出たら、怒るかな?
眉をぎゅっと寄せて、目を細めて「何してんの?」とか言いそう……。
想像して思わず笑いそうになったのを堪えて、あたしは自分の服に着替え始めた。
「じゃ、僕、ゼネラルマネージャーと話があるから。
あと、よろしく」
「はい」
――“僕”だって。
コレ、初めて聞く。
声を立てないように、含み笑いをする。
「あっ! 待って、ねぇ、海斗」
だけど、聞こえてきた声に笑いがピタリと止まった。
いかにも知ったふうに親しげに呼んだ、海斗の名前。
今の今迄海斗が話をしていた店員の、女のひとの声で。
え? ……何で、名前で……?
「……つーか、仕事中はちゃんと名字で呼んで下さい、三河サン」
「はーい、大野サン。スミマセン」
「……で? 何?」
「やー、ただ、カナはどう、かなって?」
「元気だよ。今日も会うし」
「大事にしてよね」
「わかってるって」
ぶっきらぼうな言い方は、海斗の特徴。
照れ臭さが入り混じっていることが、ありありと感じられる。
――何?
さあっと、波が砂をさらうように、身体から一気に血の気が引いた。
それなのに、心臓の音だけは大きく鳴り響く。
カナ?
今日も会う?
大事にして?
何? それ……
この間の名前、聞き違いじゃないの?
“ナナ”じゃなくて、やっぱり“カナ”だったの?
――浮気
そんな言葉が、さっきから浮かんで消えない。
ううん。浮気だったら、仕事でかかわりのあるお店の子の友達、ってありえるかな。
皆に秘密で、っていうのなら分かるけど……『大事にして』なんて普通は言わない。
そんな言葉、普通は付き合っている場合にしか言わない。
それに、今日会うって、どういうこと?
あたしとの約束は破ったのに。どうして?
最近忙しいって、なかなか会ってくれないのは、そのせい?
あたしは従業員通用口前で、海斗を待った。
百貨店自体も既に閉店していて、ちらほらと従業員がそこから出てくる。
さっき『sweet rose』にいた店員の女の子が二人出てきたのも見かけた。
ゼネラルマネージャーのところに、と言っていたけれど、かなり時間は経つから、きっと用事は済んで、海斗ももう出てくると思う。
話を訊かないといられない。
だけど。
じゃあ、話を訊くって、どうやって?
“カナ”って、誰って。
これからその子に会いに行くの、って。
そう訊けばいいの?
いきなりこんな風に待ち伏せて?
どうしよう。考えが、纏まらない。
どうしよう……。
ぐるぐるぐるぐる。
頭は上手く働かない。
思考が、めちゃめちゃだ。
顔を覆いたくなった。
だけど、はっきりとしたその声に、俯いた顔をハッと上げた。
「海斗!」
声のする方を向く。
すっと背が高くて、線の細い女の人が手を振っている。
その女の人のところに、今入り口から出てきたばかりの海斗が近づく。
さっきの声の店員“三河さん”も一緒だ。
声が、かけられない。
「遅いー!
……って、あかりも一緒だったの?」
“カナ”らしき女性が、三河さんに向かって言った。
三河さんは“あかり”という名前らしい。
海斗とあかりさんに“カナ”の満面の笑顔が向けられる。
笑顔が、凄く綺麗なひと――。
「終わったから、ちょっと待って合わせて一緒に出てきたの。
会うって聞いてたから」
あかりさんが答えて、海斗はいつもの海斗らしく、ほんの少しだけ笑みをみせた。
あたしといるときと、同じように。
“カナ”とあかりさんは、いかにも仲の良い友達と言ったふうだ。
「そうなんだ、お疲れ様」
「身体、どう? 順調?」
順調?
あかりさんの言葉が何のことかと思うのと同時に“カナ”はお腹にそっと手を当てた。
「うん、順調」
愛しむような穏やかな顔で“カナ”はそう言った。
細い身体のラインから浮いた、たっぷりめのチュニックは、今まで気が付かなかったけれど、お腹に手を当てたところだけ少しふっくらとしている。
それって――。
ドクンと、心臓が不穏な音を立てた。
「大事にしてね」
「うん」
「何? これからどこか行くの?」
「ううん、海斗、ウチにくるのよ。
あかりも一緒に来ない?」
えっ!?
「あー。ゴメン、あたしこれから彼氏んち。
またにする」
「そっか、残念」
「じゃー、またね!」
耳を疑っている間にも“カナ”とあかりさんは、お互いに手を振った。
そして、二人と一人に別れる。
どうして……?
声も、出ない。
どうしよう。
どうすれば。
引き留めないと、行っちゃう。
「かい――」
どうにか詰まった声を押し出そうとした。
だけど、そこで声は宙に浮いてしまった。
彼女の長い指が、海斗の腕に絡んで、二人の背中がこちらを向いた。
待ってよ!
心臓の音がバクバクとしている。
違うよね?
彼女は、あたしでしょ?
一歩、足を踏み出した。
けれど、そこで踏みとどまる。
駄目。
待って。落ち着いて。
今、あたしが出ていったら、どうなる?
あたしはバッグから携帯電話を取り出した。
手が、震える。
発信履歴の一番初めが海斗で良かったと、こんなときにそんなことが思い浮かんで、あたしは通話ボタンを押した。
――出て!
祈るように、携帯を握り締める。
もう既に向こう側にいる海斗は、人混みの中で電子音に気付き足を止めた。
ポケットから、携帯を取り出す。
それを確認する。
そして――何かボタンを操作する。
あたしの耳から入る音が、呼び出し音から通話中音に、今――変わった。