繋いだその先

――大きい。


崩れ始めた山が落ちるよりも早く、ボードが波の腹を滑り下りる。

うわぁ、と思わず感嘆の声が零れた。
その声が出たときには、滑り降りたはずのボードは方向を変え、端から勢いよく覆い被さる波の中へと入っていく。

――チューブライディング

弾けて上がる白いしぶきと、ここまで聞こえる海面を叩きつける音が、圧倒的な波の大きさとパワーを感じさせる。
海斗はボードと一体となって波に追いつき追い越しながら、水のトンネルを潜り抜けていく。

そこから抜け出て姿を現したかと思うと、すぐにボトムターン、そしてもう一度上がってトップターン、カットバック。
空に向かって上がるスプレー。

白く泡立った波間から頭を出したのを見て、あたしは息をするのも忘れていたことに気付く。
そして、何とも言えないほど胸が高鳴って、高揚する。

波に挑んでいる海斗が、一番海斗らしい。
言葉にできない、って、きっとこういうことだと思う。


小脇にボードを抱えた海斗が、ぽたぽたと大粒の雫を砂の上に落としながら近づいてくる。
途中、あたしが見ていることに気が付いたのか、目を上げてこちらに薄く微笑む。
あたしもそれに微笑み返して、小さく手を振った。


……なんか、こういうのっていいなぁ、とか思う。
何気ないけど、幸せだな、って感じられる瞬間。


「お疲れ様」

「あー、疲れた」

「最後、凄かったね、チューブ。
あたし、初めて見た!」

「んー、気持ち良かった」


海斗は、そう答えてあたしの横に座ったかと思うと、そのまますぐにごろんと横になる。
本当に気持ち良かったんだなと窺わせるほど、満足気な表情で目を瞑った。


「千葉まで来た甲斐があったね」

「そーだな、サーフィン自体久しぶりだし。
たまにはいいよな」


……久し振りなのは、あたしもなんだけど。
こうして、会うの。
分かってるのかなぁ?


と思うと、急に腕を引っ張られる。
突然のことになされるがまま、あたしは押し倒された。
敷いてある更紗を通して、砂の柔らかい感触と熱が伝わる。
海斗の触れている部分も。


「早く会いたかった?」

「ちょ……っ! 人に、見られるんだけど!」

「人なんか、いねーじゃん」


確かに、ここは遊泳区域でもないし、サーファーがちらほらと海の中にいる程度。
湘南の海みたく、人がいないけど。

背中に回された海斗の掌が、今迄海に入っていたせいでひやりと冷たい。
だけど身体の芯は、急激に熱くなる。

瞼を閉じかけた潤んだ瞳も、薄っすらと開かれた唇も、もう目と鼻の先で、あたしは観念して目を閉じた。


……て。あれ?


数秒待っても、唇にはなんの感触もなくて。
ほどなく海斗の腕がするりと緩まって、外れた。


「眠い……」


目を開けると、瞼を瞑ったままの海斗が言った。


「このまま寝ちゃいそう……」


えー! 何よ! キス、じゃなかったの!?


本当に今にも眠ってしまいそうな顔つきの海斗に、一気に疲労感が押し寄せたように脱力する。
仕方なくあたしは、自分だけ身体を起こした。


「やっぱり、疲れてるの?」

「んー……」

「仕事、そんなに忙しいの?」

「んー……」

「そういえば、海斗の担当店舗、売り上げが全国一位だって言ってたもんね」

「………」

「あ! この間、雑誌に『sweet rose』のワンピが載っててね、それがすっごく可愛くて。
シフォンのピンクの花柄のやつ。ちょっと大ぶりのレトロっぽい柄なんだけど、海斗、分かる?」

「………」

「………」

「………」


えーと。返事がないのはもしかして……。


薄く唇を開けて瞼を閉じ、空を仰ぐ顔に、そっと自分の顔を近づける。
規則的な、呼吸。


……やっぱり!
信じらんないっ!
こんなにソッコー寝ちゃうかな!


思わず大袈裟なくらいの溜め息を、海斗に向かって吐き出した。
ほんの少し前に幸せだと思ったことが、嘘のようにしぼんでいく。
あたしは頭を垂らしたまま、気持ち良さそうに寝息を立てる海斗を睨むようにみつめた。


ここのところ海斗は、ずっと仕事が忙しいらしい。
前回会ったのは、三週間くらい前だ。
海斗はあたしよりも、どちらかと言うとサーフィンだし……。

電話もメールもマメじゃない海斗に、それじゃなくても我慢している。
放っておくと、平気で一週間とか全く何の連絡もないのはザラで。
結局、あたしのほうが焦れて電話やメールをする羽目になる。
それならいっそ、初めから我慢しないで自分からしたほうがいいということは、この二年の付き合いの中で学習した。

それに、元々自由人な海斗は、縛られることも嫌い。
何してる? とか、いちいち訊かれることも。

あたしとしては「おはよう」とか、「おやすみ」とか、そういった小さなメールのやり取りとかに本当は憧れるけど、そんなことを言ったらきっと「アホ」の一言で片づけられてしまうのは目に見えている。
だから、そういうのは一切我慢。

久しぶりに会えた今日も、波乗りに千葉に行こうって言われて「うん」って答えて。
――嫌なわけじゃない。
サーフィンをやっている海斗が好きだし、その姿を見ているのも凄く好き。

……だけど。

心のどこかで、久しぶりに会うんだから「菜奈の行きたいところはある?」って訊いて欲しい自分がいる。
ほんの少しでも、あたしを優先して欲しいって。
そうしたら「海斗のサーフィンが見たい」って、迷いなく言うのに、な。


……いや! 駄目! こんな風に思っちゃ!

それに、一緒にいて、安心出来るから寝ちゃうんだから。
きっと、あたしの傍が、一番落ち着くんだよね?


あたしも、目を細めて空を仰いだ。
あまりの眩しさに、思わず掌をかざす。

燦々と降り注ぐ金色の太陽。
底がないほど、どこまでも澄んだ青空。
そこに大きく浮かぶ真っ白な雲は、夏の訪れを感じさせる。

地響きのように、打ち寄せてくる波が砂から伝わってくる。
潮の香りを運ぶ南風は、心地良く頬と首筋を撫でて通り過ぎる。

そして、横にはあたしの大好きなひと。


顔に小さな影を作っていた掌をゆっくりと下ろし、全く力の入っていない海斗の手のすぐ横に並べる。


――うん。
じゅうぶん、幸せ。


そう思うと「ん」と、海斗が声を漏らした。

寝ぼけたように動いた手が、あたしの手に触れた。

それでも、まだまだ眠りからは覚めないらしい。

太陽の光線が眩しいのか、海斗は眉を寄せて、ほんの少し顔をこちら側に向けた。


可愛い、な。

――うん。
やっぱり、幸せじゃん、あたし。


こういう海斗の顔が見られるのは、あたしだけ。
全く、ゲンキンなヤツって自分でも思う。

海斗の瞼にかかる濡れた前髪を、そっとかき上げた。
細くて柔らかい、癖のある潮焼けした髪。

こうして触れられるのも、あたしだけ。

無防備な海斗の寝顔が愛おしい。


――キス、したいな。
ホントはさっきも、して欲しかった。


周りを見渡す。
海には波に向かったサーファーが数人。
それに、ずっと離れたところに、ひとり、ふたり。
きっと遠すぎて、それくらいなら気付かれないだろう。


――しても、いいよ、ね?


身体を屈め、そっと唇を合わせた。
少し、しょっぱい。
海と、海斗の味。


唇を離すと、海斗はまた眉を顰めた。


「……カナ、くすぐったい」


掠れた声が、言った。


「カナ?」


思わず、パッと身体を離した。

それと同時くらいに、海斗もパッと目を開ける。


「あー……ゴメン。寝てた……」


海斗はまだ眠たそうにまた目を瞑り、髪をかき上げながら上半身を起こす。


今の、って……。
“ナナ”の、聞き違い?


「どーした?」


ふあ、と。海斗は大きな欠伸を漏らす。


「ううん、何でも」


あたしは、ふるふると、どうでもいいくらい首を横に振った。


キスしたこと、気付いてないのかな?
気付いてたらきっと、またからかってくるはず。
そんなにオレとしたいの? とか、我慢できなかった? とか……


くるか? と身構えていると、海斗はまた気だるそうに生あくびをした。
どうやら、気付いてないらしい。


「眠いなら、寝てていいよ。
疲れてるのに、朝早かったし。
ここまで運転して、サーフィンしてるんだもんね」

「んー……そうする」


余程疲れているのか、眠いのか。
海斗は素直に寝転がった。


「帰り、あたしが運転してあげよっか?」

「ヤダ。オマエの運転、危険すぎ」

「……そーだけど」

「まだ死にたくねぇ」

「そこまで言わなくてもいいじゃん……。
確かにペーパーだけどさ……」


ちょっとは海斗が楽かな、って思ったのに……。


「どうせオマエ、車ん中でぐーすか寝て帰るんだろ?」

「寝ないし!」

「よだれたらして口開けて。
……て。そういや最初のデートのときも、そーやって寝てたな、オマエ」

「もうっ! 思い出さなくていいからっ!
あ! 笑わないでよっ! ちょっと、笑い過ぎだからっ!」


せっかく久しぶりに会ったのに、これだもんなぁ……。
もうちょっと、優しくして欲しい。
それに、寝たら一緒の時間がもったいないじゃん!
……って。今寝てたのも、これから寝るのも海斗じゃん!
もぉー……。


数秒前に憎まれ口をたたいていたとは思えないほど、穏やかな顔つきで瞼を閉じて空を仰ぐ海斗を上から睨み下ろす。
こんな膨れっ面をしていても、どうせ見ていやしないし。
ついでに眉を顰めて舌も突き出してやる。


「あとでさ」


気が付いて言ったのかと思って、急いで舌を引っ込めた。
だけど、思っていたのとは全く違う、予想外の言葉だった。


「……たまには、植物園とか行ってみる?」


え……。


「植物園?」

「ドライブがてら。
オマエ、花とか結構好きじゃなかったっけ?
たしか、動物もいるし」

「行くっ!」


頬を膨らましていたことも、睨んで舌を出していたことも、海斗の憎まれ口はパッとあたしの中から吹っ飛んでしまう。


嬉しい。


あたしってば、やっぱりゲンキンだ。

 

update : 2009.07.26