30

――彼?

彼って……?
それって――。


彼女から、そのすぐ横の海斗へと、見上げるように視線を這わした。

また、視線が絡まる。
無表情にあたしを見つめ返してくる海斗は、きつく唇を結んだまま。


どうして何も言わないの?
海斗が出した答えは――。
海斗が選んだのは、未知花さんなの?


「福島さんの、彼?」


菅野くんのお父さんが、思い切り苦い顔をさせてそう訊いた。


「ええ。
ずっと離れてたんですけど、ようやく再会できたんです」


未知花さんは少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに言った。

菅野くんはあまりに驚いたのか、黙ったまま二人を凝視する。

あたしも、やっぱり、言葉なんてひとつも出てこない。
何を言っていいのかも分からない。

何か、言って欲しいのに。
言われるのも、怖くて。
どうしようもなくて、ただ見つめるしかできない。

けれど、今の今まで絡んでいた視線は、海斗によって外された。
菅野くんのお父さんに向かって彼の頭は下がり、あたしのベッドの上で触った少し長めの柔らかい髪が、束になって垂れた。


「初めまして、大野です。
ご挨拶が遅れて申し訳ありません」


てっぺんが見えるほど、頭は深く下げられて――表情は全く見えなくなって。

オーナーに敬意を表した挨拶だということが、一目で見て取れるほど丁寧なもので。

息が、止まった。
爪先から、一気に身体が冷えた。


それは――。
その意味は、未知花さんの彼氏として――だよ、ね……?


頬に生温かいモノが伝わっていったことだけは分かって。
その感触は、顎の先で一度止まってから、床に向かってぽつりと落ち、濡らされた部分は急激に冷たく感じた。

ずっと我慢して塞き止めていたものは、ぷっつりとそこで切れたみたいで。
あたしの意思を無視して、大きな涙の粒が瞳から次々と溢れ出た。


何で――言ってくれなかったんだろう……。

未知花さんと再会して、やっぱり忘れられなくて、まだ好きだって気付いたなら――。
それならそうと、ちゃんと言って欲しかった。

いくらゲームだ、って言ったって。
こんな結末にするくらいなら、あの日に言って欲しかったよ。
海斗の口から、ハッキリと聞きたかった。

そしたらちゃんと、「良かったね」って言ってあげたのに。

今は笑える自信なんて、少しもないよ。


「……っ」


とうとう、声まで漏れる。
視界は全部、涙で歪んで見える。
どうにもならなくなって、あたしは俯いた。


「菜奈、さん?」


未知花さんの心配そうな声が聞こえてくる。

未知花さんだけじゃない。
店内の招待客も異様な雰囲気に気が付き、ざわめいた。
こんな華やかな席で、泣くなんて――。


どうしよう……。
未知花さんに、変に思われちゃう。

あたしと海斗の関係なんて、知らないんだから。
やっと二人の想いが繋がったなら、あたしはそれを壊しちゃいけない……。


自分の中の想いを抜き出すように、ぐっと身体全体に力を入れる。

そして、すぐ傍にいる菅野くんの腕を取った。


「……ごめん、なさい。
何か……具合、悪いみたいで……」


こんなの、不自然なのも分かってる。
泣いている理由にもならない。

でも、今もう、ここにはいられない。
無理に笑うこともできない。


顔を上げていられないあたしを、菅野くんは察してくれたようだった。
あたしの頭の上に、彼の掌が柔らかく落ちてきた。

何も言わなくても、分かってるから――と。
まるで、そう言ったかのように。


「悪いけど、外出てくるから。……ごゆっくり」


今迄に聞いたことがないくらい低い声で、菅野くんが言った。
掴んだはずの腕を逆に取られ、あたしの手は彼に力強く引かれる。

申しわけありません、と、俯きながらオーナーに一言だけ残すのが精一杯だった。

もう、海斗の顔も、未知花さんの顔も、見ることなんて出来なかった。









「乗って」


丁寧に車の助手席のドアが開けられ、乗るようにと促される。
あたしは菅野くんの言われるまま、無言でそこに乗り込んだ。

ドアが閉じられると、あたしはシートに深く凭れた。
菅野くんの車は、海斗の車とは全く異なる匂いがする。
上品な香りは鼻の奥につんと沁みて、また涙が溢れ出てくる。

当然のことだけど、海斗はあたしを追いかけてなんてくれなくて。
だけど、店から駐車場まで歩く間、本当はどこかで期待してた。
慌てた足音が、聞こえてくるんじゃないか、って。
後ろから、呼び止めてくれるんじゃないか、って。

ほんの少しの確率にさえ縋りたかったのに。
そんな0に近い期待なんかした自分が余計に情けなくなって、ぎゅっと胸を突く。


「どこか行きたいとことかある?」


菅野くんが、フロントガラスの向こう側を見つめながら訊いてきた。
街の灯りが無数に浮かんでいて、真っ暗なはずの夜の色を明るく輝かせている。

あたしは、さっきから止まらない涙をようやく甲で拭った。
そして、あたしも菅野くんの方を向かずに、フロントガラスの先をまっすぐ見つめながら言った。


「……湘南平」

「湘南平?」

「……うん」


車のエンジンがかかって、機械的な音が立った。

菅野くんはそれ以上何も言わずに、車を発車させた。







高い壁に囲まれた東名高速道路は、既に暗く変わった夜空のせいもあって、車が走り続けても景色はあまり代わり映えしないように思える。

この間、七里ヶ浜に行った時や、初めてのデートの時と同じ道のりではないことに、あたしは少しだけホッとした気分だった。

だって、同じ景色を見ていたら、楽しく過ごした時間を余計に思い出すだろうし。

光の粒を浮かべた海も、江ノ島の立ち並ぶお洒落な店も、松の木が犇めいた長い道も。
海斗の隣で見たモノは、忘れられないよ。



「少し、落ち着いた?」


何もない景色を眺めていると、あたしの涙はいつの間にか止まっていて、菅野くんが優しく言った。


「……うん」


一言答えて、缶コーヒーのプルタブを開けた。
さっき高速に乗る前に、菅野くんがコンビニで買ってきてくれた。
温かいよ、と。

ひとくち口をつけると、喉の奥へ、じんわりと熱が広がった。
缶を持つ指先からも、温かさを感じる。


……菅野くんは、優しい。

いつも意地悪なことばかり言う、海斗とは違う。

……違う、そうじゃない。
海斗だって、優しい。

意地悪に見えて、優しいんだ。
それを知ってるから、たまにそうしてもらえるのが、凄く嬉しくて……。

あたしが優しくされたいのは、海斗だけ……。


だけど――……。


「菜奈ちゃん」


まっすぐに伸びた道を見つめたまま、菅野くんが言った。


「訊かせてくれるかな」

「………」


菅野くんは、ちらりとだけあたしの方を見た。
あくまで問い詰める言い方ではないけれど、彼が訊くのは当然のこと。

菅野くんも、ドリンクホルダーからあたしと同じ缶コーヒーを手に取り、運転しながら口をつけた。

彼の喉元を、ごくりと通り過ぎる音が聞こえた。
あたしは、小さく息を吸い込んだ。


「……同級生なの、あの二人。高校の……」

「同級生?」

「うん……。海斗は――ずっと未知花さんのことが好きだったの。
だけど未知花さんには、その当時、彼氏がいて……。
その人が、海斗と凄く仲の良い先輩で……。
だから、お互いに好きでも、付き合うことが出来なかったみたいで……」

「………」

「未知花さんは、彼氏のことも海斗のことも、関係を壊すことが出来なくて、どっちも選べなかった。
卒業して、一人で急にフランスに行ったんだって。
だから――海斗の気持ちは、残ったままになっちゃったの。
ずっと、忘れられないままに……」


「じゃあ、」と、菅野くんは、パッと一瞬こちらを見た。


「それは、海斗がまだ福島さんを好きだってこと?」

「海斗は……この間、そんな気持ちも分からない、って言ってた」

「分からない?」

「分からなくなるくらい昔のコトだから、って……。
だけど、未知花さんは海斗のことがまだ好きなの。
日本に帰って来たのは、海斗に会うためなの。
だからこの間海斗に、会って自分の気持ち確かめてきて、って……」

「菜奈ちゃんが二人を会わせたの?
もしかして、それって土曜日のこと?
だからあの時、海斗に電話するなって言ったの?」


菅野くんは、呆れたように少し高い声を上げた。


「……ごめんなさい」


俯いてそう言うと、大袈裟なくらい大きな息を吐き出す音がすぐ横から聞こえた。


「馬鹿だな、菜奈ちゃんは……。
それでいいの?」

「だって、海斗がどれだけ未知花さんを好きだったか、その強い想いを知っちゃったから」

「………」


菅野くんは、それっきり黙ってしまった。
あたしも、それ以上何も訊いてこない菅野くんに、口を噤んでいた。

けれど、そんな菅野くんの気遣いは、ありがたかった。
車内には音楽もかかっていなくて、ただ、車が走る音が緩やかに響く。
隣の車線を追い抜く車と、対向車の走り去る音は、流れてはすぐに消えていく。
相変わらず代わり映えしないように見える道と、浮かんで伸びていく対向車のライトの光を、ぼんやりと見つめる。


結局――。
好きだって、言うことさえ出来なかった、な。


そう思うと、この間のレストランでのことが脳裏に走った。

また一緒に海に行こうと、約束したあと。
海斗が何か言いかけたのに、風と波に打ち消された言葉――。


あれは、もしかして……。
未知花さんとのことを話そうとした?
だけど、言えなかったの?
あたしの本当の気持ちを、察したから?


――『それでいいの?』

菅野くんについ今言われた言葉が頭を掠める。


うん。

海斗が好きだから。凄く。
海斗の強い想いを知っちゃったから。
ずっと、長い間燻っていた想いを。

未知花さんを選んで、彼女と上手くいくなら、あたしのせいでそれを壊すことは出来ないから。
幸せになってもらいたいから。

だから――。

外そうと決めた。湘南平の鍵を。
何もない気持ちで付けた、あたし達の鍵。

海斗の強い想いで付けた鍵とは違うから。
その願いを遮りたくないから。

だから、外すよ。
他の女と付けた鍵なんて、残さないで。

たった一つ。
これからはそれを大切にして、守って。










桜の木が風に揺らされ、ざわざわと寂しげな葉音が立つ。
鈴生りとなった鍵が視界を邪魔するけれど、フェンスの向こう側は、薄っすらと明るく表面を染めた黒い海が広がり、カラフルな光を散らした美しい街が、あたしの瞳を迎える。

あの日と変わらない、湘南平。


「海斗と来たの?」


菅野くんはあたしの隣に並び、夜景を眼下にして言った。
風が、また緩やかに通り過ぎていく。


「……うん」

「そっか」

「ごめんね、菅野くん。こんなことに付き合わせて」

「オレこそ、結局、海斗の前で彼女だなんて……。
福島さんに紹介されて、嫌だったろ?」

「もう、いいの。
海斗だってきっと、あたしが菅野くんといたこと、ホッとしたのかもしれない」


あたしは、笑顔を作って見せた。


笑ったけど。
本当は、辛くて仕方なかった。
小さな箱に、入りきらない大きな気持ちを無理矢理押し込めて。
膨らんで今にも開きそうだというのに、鍵を掛けて二度と開かないようにしなくちゃならないんだから。

だけどそれよりも。
痛みより辛さより、海斗の気持ちのほうが、あたしにとってはずっと大事。

自分よりも誰かを想うこと。
――それをあたしに教えたのは、海斗だよ。
海斗と会わなければ、きっと、知らなかったこと。


あたしはフェンスに無数に付く鍵たちを見上げた。

付けた場所は、大体だけど、覚えてる。


「愛を確かめ合う南京錠……って、ココ、有名だよね。
もしかして、海斗と付けたの?」


菅野くんも、あたしと同じように鍵を見上げた。
あたしはゆっくりと、フェンスから菅野くんへと視線を移した。


「うん。だからね、外そうと思って」

「外す?」

「海斗と未知花さんね、昔、ここで一緒に南京錠を付けたんだって。
付き合えなかったけど、その時の想いを心に秘めて、鍵に託してたの。
未知花さんも海斗も、お互いにずっと、その鍵を大切に持ってた。
あたしみたいに、何もない気持ちで付けた鍵があるなんて……何かね、悪いなって。
だから外して、あたしの気持ちもフッきりたいの。
それで、二人の関係を祝福してあげたいよ」

「……で、この中から付けた鍵、探し出すの?」

「うん。一人で探すから。
ごめんね、菅野くん。下で待っててくれる?」

「ホントに馬鹿だな、菜奈ちゃんは……」


菅野くんはふうっと小さく息を吐くと、眼鏡の奥の瞳は目尻を下げて優しく微笑んだ。


「一緒に探すに決まってるだろ? どの辺?」





何万、とも言えるほどの、愛の証。
ひとつずつ皆、強い願いと誓いを込めて付けたのだろう。

そんな愛の中に埋もれた、あたしと海斗の鍵。

大体の場所は覚えているとはいえ、暗い中、この膨大な量の中から探し出すのは一苦労だ。
特に、あたし達が付けた海側は景色も良いせいか、他の場所よりもずっと付いている数も多い。
ざっと流して見るだけでもそれはかなりの量で、鍵はこれ以上付ける場所の余裕を与えないくらいフェンスを埋め尽くしている。


探しても、探しても、なかなか見つからない。

時間が過ぎるに連れ、あの日のことが思い出される。


手を繋いで歩いた、葉桜の並木道と広場。
展望台では、後ろから抱き締められた。
そこから一緒に見た、360度広がる夜景。
知らないカップルから貰った南京錠――海斗がカタカナで書いた名前。

そして。
海を見下ろしながら、フェンスに一緒に付けて――小さな鍵を、二人で分けたね。



ふと、急に視界にその文字が入ると、心臓が大きくどきりと動いた。

フェンスの細いワイヤーにかかる、まだ新しさを残す色の南京錠。


「……あった」


呟くように声が漏れて、自然と手が伸びた。

指先にひやりと冷たい感触。
金属の小さな重み。


『カイト ナナ』
横に並んで書かれたカタカナの文字。

海斗の、キタナイ字――。


「見つかったの?」


菅野くんはあたしの異変に気付き、すぐさま横に来た。


「うん」


あたしは一言答えただけで、手に取った鍵をじっと見つめたままでいた。


――これを外せば、終わり。


そう思うのと同時に、鋭い痛みが胸を突き刺す。


それでも……。


あたしは、バッグの中から南京錠の鍵を取り出した。

人差し指と親指で摘んだその鍵は、とても小さくて。
指先が震えて、上手く持っていられない。


「大丈夫? 俺が外そうか?」


菅野くんが、心配そうに覗き込んで言った。

あたしは、首を横に振った。


最後のけじめは、自分でつけたい。


薄暗いせいもあって、鍵穴になかなか刺さらない。
もしかしたら、無意識に自分で拒否反応を起こしているんじゃないかとも思った。

けれど、そんな風に思った途端、すぐに入らなかったはずの鍵穴に、すんなりと先端が刺さった。

それを回すと、消えそうなくらい小さな音で、かちりと鳴った。

そしてゆっくりと、二人の南京錠をフェンスから外した。


掌に感じる、鍵の重み。

もっと重いと思っていたのに。
それは、ずっとずっと軽くて。
中身がまるで空っぽみたいで。
やっぱり二人の愛の証はこんなものなんだ、って――。


頬の内側を噛み締めるみたいに、思い切り唇を横に引いた。

だけど。
そんなことしたって無駄で。

やっぱり、苦しくて苦しくて、息が出来なくなって。
結局引き結んだ唇は、奥から込み上げてくる何かに簡単に開かされて、息が漏れた。


「……っ」


一度膨れ上がった涙は、止めることなんて出来なくて。
ぽたぽたと。次から次へ、歪んだ足元に落ちていく。


信じたかった。
ひとすじの願い。

でも。
もう、これでオシマイ……。


ぎゅっと。冷たい南京錠を握り締める。


――海斗……っ!


「菜奈ちゃん」


心の中で叫んだ名前は、菅野くんの口から発せられたあたしの名前で掻き消された。

その優しく呼ばれた声と共に、あたしは菅野くんの腕に引き寄せられ、閉じ込められるように、彼に強く抱きしめられた。

update : 2008.02.27