28

レジカウンターの前で会計に並んでいる海斗は、落としたものの存在に全く気が付いていないようだ。


「ありがと」


声をかけながら横を通り過ぎると、聞こえてるよ、と言わんばかりに海斗は軽く手だけ上げた。
振り向かないのは相変わらず。
素っ気ないヤツ。

だけどやっぱり。
こういうところがスマートだな、と思う。

先に車に行ってろ、って言ったのも、レジであたしに財布を出させないようにするためだろうし。
普段は憎まれ口も多いのに、こういうところは本当に気の遣い方が上手いんだよね。
まぁ。女の子に慣れてる証拠なんだけど。
それでも嬉しいと思ってしまうあたしがいるんだ。


入り口のドアを開け放つと、強い風が吹き付けてきた。
音を立てて煽りつけてくるその風に、思わず一瞬目を瞑って、踏み出したはずの足を一歩戻した。
潮を含んだ海風は、あたしの長い髪を波のようになびかせる。


風が、強くなった。


台風の接近を匂わす、強い強い風――。


まるであたし達の関係に吹き荒ぶ嵐のようにも感じられて、拾って持ったままの小さな鍵をぎゅっと握り締めた。


どうしよう、この鍵……。
直接は、返しにくい……。

昨日のことだって話してくれないのに。
過去をあたしに話すのは、もっと嫌だろうし……。
訊くことなんて、出来ないよ……。


車に先に戻ると、運転席のシートの上の端に、鍵をそっと置いた。


暗い車内でこんな小さな鍵が落ちていることに、あたしが気付いてないっていうのは自然だよね?
パンツのポケットから落ちたんだから、ここにあってもおかしくないはず。
海斗が落としたことに気が付けば、まず探す場所は車の中だろうし……。


ふうっと、小さく息を漏らしながら、シートに身体を委ねた。

フロントガラスから見えるトーチの赤い炎の先が、風で大きく煽りを受けて形を歪めた。
あたしの心もそれと一緒に揺さぶられて、ぐらぐらとする。


色んなことが思い出されて、苦しいよ……。

もし――。
海斗が未知花さんを選んでいるなら、彼女はどうするんだろう?
それでもフランスに帰るの?
それとも日本に残る?
二人の関係は、どうなってるの?

未知花さんがフランスに帰ったら、この不安な気持ちは少しでも解消されるのかな……。



車に戻ってきた海斗は、いつもと何ら変わらない態度だった。
シートの上に置いた鍵にも気付く気配は見せない。
あたし達は、店を後にした。


「随分風が出てきたな。
良かったな、いい時間帯にテラスで飯食えて」


まっすぐフロントガラスを見つめながら、海斗が言った。
その視線の先に、前の車の赤いテールランプと対向車のヘッドライトが、反射し映り込んでは流れていく。


「うん、そうだね」


あたしは、サイドガラスに視線を移した。

強まった風は、時折悲鳴のような音を立てて木々を揺さぶっている。
さっきまでくっきりと形を見せていた月は、いつの間にか流されてきた厚い雲に覆われていた。
けれど空は流れ続け、ひと時と同じ姿を見せないでいる。

そんな空から何故か目が離せなくて、黙ってじっと見上げていた。


「何か、CDでも聴くか?」


沈黙を破るように、海斗がぽつりと言った。


「CD?」


言われてみれば、今日は車内に音楽がかかっていない。


「後ろの座席んとこ。カゴがあるだろ?」


海斗の言葉に振り向き後部座席を覗き込むと、シートの上には沢山のCDが入ったステンレス製のカゴが置いてあった。

荷台からあたしと海斗のシートの間へと伸びる新しいサーフボードを避けながら、身体を乗り出してそのカゴを手に取った。

レゲエやヒップホップ――海斗のイメージだな、というアーティストのものもあるけれど、あたしが知らないもののほうが多い。


「何か聴きたいのある?」


そう言われて、一枚のCDが目についた。

白いジャケットのまん中に、四角く切り取ったように絵筆で荒く塗られたブルー。
ただそれだけの、シンプルなデザイン。
けれどシャープに塗られたグリーンとブルーは、見事に調和されているのに混ざり合わず、目を惹き、美しい。
海のような、深い色。


――UB40。

映画の主題歌にもなった曲を歌っていたグループだ。
あたしも、大好きな曲――。


「コレ」

「UB40?
結構渋いなー」

「レゲエはあんまりよく分かんないけど、でもこの曲は知ってる。
凄く好き」

「ああ。
オレもスゲエ好き」


海斗はふっと笑うと、あたしの手の中からCDを受け取った。
ハンドルを握る反対の手で、そのCDをケースから取り出し、カーステレオに入れて操作する――7曲目。

数秒の静かな空気の後に流れ始めたのは、重厚で、それでいて透明感のあるボイス。


Can’t Help Falling In Love

――好きにならずにいられない。


あたしもきっと。
最初からそうなる運命だったんだ。


窓の向こうに見える湘南の海を眺めながら、あたし達は黙って、ゆっくりと流れるメロディーを聴いていた。












「うわ! 雨降りそー。
参ったな、これから初デートなのに」


会社帰り。
エントランスの自動ドアを潜ってすぐに足を止めた瑞穂が言った。

濃いグレーに色付いている雲は、瑞穂の言う通り今にも大粒の雨を落としてきそうな雰囲気だ。


「傘、持ってこなかったの?
台風が近付いてるのに」

「玄関に目立つように出しておいたのに、忘れたの。ほんっと、馬鹿だよね。
雨、強くならないといいなぁ」


瑞穂は空を見上げて溜め息を吐いた。


デートか……。
よくよく見てみれば、胸が大きく開いたデザインのワンピースはいかにも勝負服っぽい。
完璧に巻いた髪に完璧なメイク。
横から見た睫は、くるんと上向きにカール。

それにしても。


「瑞穂ってば、いつの間にまたそんな人出来たわけ?
あたし、聞いてないよ?」

「この間の合コンで。
大体さぁ、菜奈にそんなこと、話せる感じじゃなかったじゃない?」


言われてみれば……。
ここのところ、海斗のことで相談に乗ってもらうのはあたしの方。
確かに、落ち込んでばかりのあたしには、話しづらかったのかも。

瑞穂には――なんやかんや、いつも元気をもらう。
ふざけているようで、本当は優しいんだよね。


「はい」

「は?」


あたしが差し出した傘を、何してるの? と言った感じで、瑞穂は大きな瞳を開いたまま凝視する。


「貸してあげるよ。デートでしょ?
あたしは家に帰るだけだし。
家までは何とか天気も持ちそうだから」


そう言うと、瑞穂は傘から視線を上げて、今度はあたしの顔を凝視する。


「いいの?」

「うん。
瑞穂のことだから、初デートでビニ傘なんて、嫌なんでしょ?」


固まったままの瑞穂に、押しつけるように持たせてあげる。

一瞬の沈黙のあと、瑞穂は傘を片手にあたしをぎゅっと抱き締めてきた。
傘の柄が当たって痛いんだけど……お構いなしらしい。


「だから菜奈は好きーっ。
大好きー!
ありがとっ」


もうっ。
大袈裟だから!

瑞穂にはホント、お世話になってるから、まぁこれくらいはね……。






新宿駅で瑞穂と別れると、一人家路を急いだ。

電車に乗っている間にも雲行きはますます怪しくなり、空の色は更に色濃く暗くなっていた。
車内は多く湿気を含み、じっとりと肌に纏わりつく。
特有の空気だ。


新川崎の駅に着いたときにはまだ雨も降っていなかった。


急げば大丈夫そうかな。


一度空を見上げてから、あたしは足早に歩き始める。
家までは徒歩約10分。

けれどようやく半分の道のりまで来たところで、ぽつりと頬に冷たいものを感じた。


あっ、ヤバい……。


そう思ったのも束の間、それを合図にしたみたいに、ぽつぽつと雨は落ちてきた。
それはアスファルトに模様を作り始めたかと思うと、あっと言う間に黒く塗り潰していく。

降水確率90%の今日は、皆慌ただしく傘の花を咲かせる。
そんな中であたしは一人、頭も抱えず家まで走り始めた。

強い風が時折混じり、大粒の雨は痛さを肌に感じるくらい強い。
走ったけれど、意味のないくらいに頭も身体もびしょ濡れになった。

アパートが見えて、駆け足で階段を上がる。
ひさしの下に入ると、ホッと一息吐く。


ついてないなぁ。
取りあえず、すぐにシャワー浴びよう……。


そう思いながら、ようやく辿り着いたドアの前に立ち、玄関の鍵をバッグの中から探し出す。

ザザアッと、また強い風が吹き、隣家の大木が大きくしなって音を立てた。
吹き付けてくる雨粒に思わず目を瞑ると、風と葉の音と一緒に何かの音が聞こえた。

携帯電話の呼び出し音だ。


誰? タイミング悪いな……。


濡れた手で慌ててバッグの中から携帯を取り出す。

ディスプレイの着信を見て、大きく心臓が鳴った。


――未知花さん!?


一瞬、出ることに躊躇う。

そんな自分に嫌悪感も抱いて、すぐに通話ボタンを押した。


「もしもし」

『菜奈さん? 未知花です。
突然電話してごめんね』

「えっ、あ。ううん、全然」

『今、ちょっとだけ大丈夫?』


右手に持つ玄関の鍵へ視線を落とす。
それをぎゅっと握り締めると、答えた。


「うん。大丈夫」


明るくそう言ったのに。
緊張して、心臓は素早い音を立て始める。

あのね、と、彼女は遠慮がちに言った。


『金曜日の夜って空いてるかな?』

「金曜?」

『うん。
カフェが完成したんだけど、オープン前にパーティーがあるの』

「パーティが?」

『あたし、土曜日にパリに戻るの。
だからその前に、って、急に開いてくれることになって。
関係者のみのパーティみたいなんだけど、是非、菜奈さんに来てもらいたくて。
尚貴くんには、あたしから誘わせて、って言ったの』


――土曜日に、未知花さんはフランスに帰る……?


『菜奈さん?』


すぐに返答がないあたしを不思議に思ったのか、未知花さんは心配そうに言った。


『ごめんなさい。迷惑かな?』

「あっ、そんなんじゃないの。
突然だったから、用事あったかな、って、考えちゃって」


あたしは、そこで何か決心したかのように固唾を飲んだ。
ごくりと渇いた喉が鳴った。


「行きます。
誘ってくれて嬉しい。ありがとう」


顔なんて見えないはずなのに――電話の前でそう言いながら笑顔を作ってしまう自分がいる。


――嬉しい?

それは本心?

自分で言った言葉も心も理解しきれてないよ……。


『尚貴くんに訊いて、招待状送るね。
じゃあ、待ってます』


未知花さんの優しい声が、気味の悪い音を立てる風音と混じり合う。


「うん。わざわざありがとう」


濡れて束になった前髪から水滴が落ち、涙のように冷たい感触が頬を伝わっていった。

電話を切ったあとも、なぜか暫く耳から携帯が離せなかった。

また、強風が雨の群と共にあたしに吹き付ける。
見上げた空は、勢いよく黒い雲が流れていき、まるで魂がある生き物のように見える。
これから来る大きな嵐を彷彿とさせる。


土曜日が来れば、未知花さんは日本からいなくなる。

それなのに――。
ほっとなんて出来なくて。

ざわざわと鳴る木々の音と一緒に、あたしの心も波立っていた。

 

update : 2008.02.13