27
一番上まで上り切ると、床板が僅かに軋んだ音を立てた。
その音に、海斗も麻紀さんもさすがにあたしの存在に気が付いたようで、二人の会話はそこでピタリと止まった。
入り口からそっと覗き込むと、二人ともこちらを向いていて目が合う。
「お帰り。
そーいや、コンビニの場所、知ってたのか?」
話を聞いていたなんて微塵も思っていないような海斗の笑顔が向けられた。
知ってるワケ、ないじゃん。
鈍感なヤツめ……。
それでも二人に笑顔を傾ける。
そんな自分がまるで作ったモノのようで、本当は嫌だな、なんて思いながらも……。
「海沿い歩いてたら見つけたよ。
夜の湘南もいいよね。すっごく綺麗。
夜景に見とれちゃった」
「あー。だから遅かったのか」
だからっ!
ホントにこういうトコは何で鈍感かな!
心の中で悪態をつく。
全く何も感づいていないような顔つきの海斗が憎らしい。
きっと、感付いてないと言うよりも考えてないんだ。
今度こそぎこちない笑顔で麻紀さんに「どうぞ」とお茶を手渡すと、「ありがとう」とお礼の言葉と一緒に感じの良い笑顔が返ってくる。
そんな麻紀さんの笑顔を見ていると、自分の幼さを痛感させられた。
ああ、もう……。
ホント、あたしって子供かも……。
「はい、コレ」
気を取り直し、海斗にもお茶を差し出す。
海斗は何か考え込んだような表情で、あたしの顔色を窺うように見つめながら手の中からペットボトルを受け取った。
何だろうと思うと、大きく開いていた目は細められ、唇の両端が上がり、くっきりと頬が高さを出した。
「海見たいなら、近くにいい店あるよ。
雑誌にもよく載ってる海沿いのカレーの店。
テラスもあるし、そこ行く?」
極上の笑顔。
とくん、と、胸が鳴る。
ああ、もうっ。
嵌められたカンジ。こんなの。
話を聞いていたのなんて、気付いてないはずなのに。
あたしのご機嫌取り、してるわけじゃないよね?
その顔、可愛すぎだから!
「うんっ」
結局、調子良く返事をしてしまう。
あんなこと、聞いたばかりなのに。
だって、嬉しい。
「麻紀さんもそこでいい?」
麻紀さんに尋ねると、返事を聞く前に、頭の上にポンっと大きな手の感触がした。
パッと見上げた時には、その張本人はあたしの横をすり抜けるように通り過ぎた。
あれ? と、無意識に反応して、その触れられた部分を両手で押さえながら、後姿を見つめる。
「腹減った。
菜奈、行くぞ」
広い背中が、そう言う。
振り向かないまま、長い足が颯爽と進んでいく。
ええっと。
それって――。
確認するように麻紀さんの方へと顔を向けると、彼女はあたしに向かって嫌みのない微笑みを見せ、椅子から腰を上げた。
そして、海斗と同じようにそのままドアへと向かう。
その途中――あたしの前で、彼女は立ち止まった。
「素直にならないと、大事なもの、失くしかねないわよ」
――えっ?
麻紀さんの言葉にあたしはすぐに何の言葉も出せず、見つめ返した。
彼女はふっと薄く微笑んで見せると、目の前を通り過ぎていった。
長い髪を揺らし、そこに薔薇のような甘い香りを残して。
大事なもの――。
それは――……。
海を望む国道134号線。
石張りの建物はお洒落な南国調の外観で、見た瞬間、以前雑誌で目にしたことを思い出した。
所々置かれたフェニックスの葉が風で揺らされ、赤く燃え盛るトーチがこのロケーションをよりロマンチックに照らしている。
オープンエアーに、味わい深さを出した木のテーブルが置かれたテラス。
店内は、木彫りの柱に梁のある高い天井、薄く点る照明が大人カジュアルな雰囲気を醸し出している。
運良く空いたテラス席に通されて、そこに腰を下ろした。
目の前には真っ直ぐな水平線。
右方面は、江ノ島の灯台の明かりが小さく点されているのが見える。
「良かったな、テラスが空いてて」
テーブルに両肘をつき、指を組みながら海斗が言った。
真ん中に置かれた小さな間接照明で、海斗の顔はオレンジ色に染められ、ほんの少し端の上がった唇が艶やかに光る。
節の太い指と、半袖シャツから覗かせる陽に焼けた腕が、男っぽくて。
あたしに向けられた笑顔が、こういう場所のせいか一段と格好良く感じてしまう。
「うん。すっごいお洒落だね。
雑誌に載ってるの見て、来てみたいと思ったんだ」
「なんだ。じゃ、昨日言えば良かったのに」
そうサラリと言ったかと思うと、海斗は堪え切れなくなったように、ぶぶっと吹き出した。
何で笑うかな、そこで!
「ちょっとっ!
失礼じゃないっ?」
「いや。だって、さ。
うどんって、オトコにねだる料理じゃないよな?」
「だって!
海斗、お酒飲んだあとだったでしょ? だから……!」
瑞穂の言う通りじゃん……。
やっぱり、馬鹿にしてたんだ……。
あたしだって、ちょっとは気を遣ってるんだよ!
さっきだって、電話に出させてあげたじゃん。
分かってんのかな、もう……。
大きな溜め息でも吐いてやりたくなる。
そんな衝動を仕方なく抑えた。
すると、楽しそうに笑っていた顔は、一気に優しい顔つきに変わった。
「変な気、遣うなよな」
「えっ?」
変な気?
「つか。お前って、確かに洋食つーより、和食って感じだけど?」
「何、ソレ?
褒めてるの? 貶してるの? どういう意味?」
「だから飽きないのかもなぁ。
面白過ぎ」
「だからぁ。意味、分かんないっ」
またあたしのこと、馬鹿にしてるんでしょ?
どうせ、所帯臭いとか言いたいんでしょ?
別に、いいもん。
――思い出してしまった。
未知花さんのケーキを。
甘くてふわふわで愛らしく完璧なケーキ。
比べること自体、間違ってるけど。
思い浮かばずには、いられないよ。
あのふわっとした、柔らかい笑顔を。
お行儀悪く両肘をテーブルの上につけて頬杖をつくと、恨めしそうに上目遣いで睨んでやった。
けれどそんなあたしの顔を見て、海斗はクッと笑った。
「こういう料理って、そのときはスゲー美味いって思うけどさ。
やっぱ次の日は、白い飯に味噌汁飲みたくなるっつーの?
最終的には、家庭の味ってヤツ?」
――えっ?
その言葉に心臓が瞬時に反応する。
瞬きもしないで見つめた顔は、まるで目の前のあたしを愛おしむような、そんな顔つきで――……。
そう感じるのは、思い上がりなんだろうか。
言葉を返せずにいると、店員がオーダーを取りにやってきた。
海斗は慣れたように、メニューを指さしながら迷わず注文をする。
あたしは今の言葉で頭の中が麻痺したように真っ白になって、ただ海斗のその姿を見つめていた。
心臓の音が、うるさいくらいに響く。
その意味って――。
期待、してもいいのかな?
最終的に、って、そういうこと?
でも……。
まさか……。
遮られてしまった会話は、もちろんそこに戻ることはなくて。
その先は訊けないままになってしまった。
白い大きなシャコ貝を器にしてあるシーフィードサラダは、山となった赤キャベツにラディッシュ、オレンジ色に茹で染まった海老の色合いが見事だ。その上に乗せられたピンクのデンファレが更に華やかさを盛り立てる。
カレーも、南国のイメージを誇張させるように三色のパプリカが色を添え、目を引く。
望む湘南の海に、薄く光に染められた紫紺の空。
光の粒を散らした江ノ島に、走りすぎていく車のライトは温かい色を投げかけてくる。
どこかリゾート地にでもやって来たような、ゆったりとした贅沢な空気。
そんな雰囲気に、女の子なら呑み込まれるのは当たり前で。
最初のデートの時も、夜景の綺麗なレストランに連れて行ってくれたけど。
――その時は女の子に慣れてる、って、冷めた目で見たのに。
今は違う。
この雰囲気を大事にしたいと思う。
美しいものを見て、美味しいものを食べて、一緒に感動したい。
同じものを同じ感覚で分かち合いたいの。
些細なことが幸せで。
好きになるって、こういうことなんだって、海斗に思い知らされたカンジ。
あたし自身が全部、呑み込まれちゃってるよ。
「波、あるなぁ……」
黒くうねる波を見つめて、海斗がぽつりと言った。
海から吹く風が潮をさらってきて、それを肌に感じる。
「台風、近付いてるよね?」
「ああ。台風が来ると、この辺でもデカイ波が入るんだよ」
「危なくないの?」
「無理はしないしな。
それに仕事もあるから、平日は来られないし。
昔は関係なく来たけどなー。懐かしいな、若い頃」
海斗は懐古するような瞳を見せて、また海を見つめ直した。
遠くで立ち上がりを見せた波は、中心から両端に向かって滑らかな曲線を描きながら崩れていく。
目の前の黒い海に、あたしも浚われていく感覚に陥ってしまう。
賭け、とか、何だったんだろう……?
さっき言われた麻紀さんの言葉が頭を掠めていく。
――『素直にならないと、大事なもの、失くしかねないわよ』
海を見つめる海斗の横顔の輪郭が、トーチで赤く浮き出されている。
あたしは海斗を正視し、テーブルの上で指を組み合わせた。
「ねぇ、海斗」
「ん?」
「新しいボードに乗る時の姿、あたしに見せてね」
少しずつ、素直になろう。
そして少しずつ、近づければいいよ……。
「ああ。また一緒に海に行こうな」
「うん」
そう答えると、笑顔だった顔は真剣な顔に変わり、あたしを見つめてくる。
瞳の奥まで射貫いてくるような、まっすぐな眼差しで。
とくん、と心臓が鳴った。
「あのさ……」
海斗が何か言った瞬間、海が大きな波音を立てた。
強い風とその波音が、海斗のその先の言葉を掻き消し、あたしの耳には届かなかった。
止んだ風に、なびいた髪がはらりと落ちて戻された。
頬に纏わりついたその髪を、耳に掛け直しながら訊き直す。
「ごめん。
今、何て言ったの?」
あたしのその言葉に海斗は、一瞬時間が止まったかのように表情を固めた。
そしてそれをすぐに消すように、軽く首を横に振っていつもの薄い笑みを浮かべる。
「んー……何でもねーよ。
大したことじゃない」
「え? 大した、って――」
「そろそろ行くか」
何……?
あたしの疑問符も関係ないように、海斗は椅子からすっと立ち上がった。
その様を見上げたけれど、海斗はすぐに背中を向けて、表情は見えなくなった。
「会計行ってるから、ゆっくりでいいよ」
「えっ……ちょ……っ! 待って!」
あたしもすぐ横に置いてあるバッグを引っ掴み、慌てて立ち上がる。
何?
もう、ワケ分かんないっ。
わけが分からないまま海斗の後ろについて、テラスから店内へと足を踏み入れる。
海斗は振り向きもしないままで、あたしはただその背中を追う。
海斗の伝票を持つ反対の手が、パンツの右ポケットに入って何かを取り出した。
その瞬間、床にその手の中の物ではないものが落ちたのが見えた。
あれ?
そう思うと、いきなり振り向いた海斗は、あたしに向かって手の中の物を投げた。
それはオレンジ色の照明できらっと一番高い所で光ると、声を出す暇もなくあたしの両手の中に上手い具合に落ちて納まった。
冷たく重量感のある掌の中をそっと開く。
車のキー?
「車、先に行ってろよ」
それだけあたしに言い残して、海斗は店内のテーブルの間をさっさと一人で縫い歩いて行った。
……もう。
そう、一言言いたいところだけど。
実はこういうトコロが、何かカッコイイなとか思うのって、好きだからなのかな、やっぱり。
先にカウンターへと向かう後ろ姿を一瞥してから、海斗のポケットから落ちたものを拾おうと、床に視線を落とした。
落ち着いた濃茶色の無垢の木の床上に、小さな金色の金属が光る。
――鍵?
拾い上げる前に、見てすぐに南京錠の鍵だと分かった。
嘘――。
海斗……持っててくれたの?
あの時の鍵――湘南平の。
てっきりすぐ失くしちゃうと思ってたのに。
ホントに……?
胸がきゅうっとなって、心臓まで高鳴った。
それなのに。
拾い上げて掌に載せた瞬間、その高鳴りは嫌なものへと変わった。
――違う。
あの時のじゃ、ない。
ドクドクと脈打つ感覚と冷たさが、掌から全身に広がる。
どこにでも売っていて、形だってどれも似たようなモノで、きっと違いなんてわからないはずなのに。
たった何週間しかたっていない真新しいはずの鍵。
けれど今掌の中にあるそれは、くすんだ色合いと細かい傷がすっかり時間の経ったことを表している。
まるであたしに見せつけるように。
あたしと海斗が付けた鍵とは、違うモノだと。
ドクン、と、また大きく心臓が鳴った。
さっきの海斗と麻紀さんの会話も、初めてのデートの時のことも、一気にあたしの頭の中を駆け巡り、一つの答えを弾き出した。
湘南平で少し様子がおかしかったこと。
何かを懐かしむような寂しげな横顔に、テレビ塔へ行こうと言った時の顔つき。
麻紀さんの『ずっと大事に持ってたのが悔しくて』という言葉。
――不確かだった線が、太く繋がってしまった。
湘南平に未知花さんと行ったんだ。
きっと、その時に二人で付けた鍵なんだ。
だからあんな事を――。
『ほんの一握りだよ』
あの時そうぽつりと言った海斗の顔まで、あたしの中に鮮明に思い出された。